太田述正コラム#3774(2010.1.17)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その1)>(2010.5.22公開)

1 始めに

 次著の欠缺部分を補う第二弾として、張鼓峰/ノモンハン事件を取り上げます。
 なお、1938年7〜8月の張鼓峰事件は、国際的にはBattle of Lake Khasan(ハサン湖の戦い)と呼ばれ、1939年5月9月のノモンハン事件は、国際的には、Battle of Khalkhyn Gol(ハルハ河の戦い)と呼ばれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BC%93%E5%B3%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lake_Khasan
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Khalkhin_Gol
(いずれも1月17日アクセス)

2 プロローグ

 (1)序

 この一連の事件を理解するためには、まずもって、当時の日本の軍部、とりわけ陸軍内の状況がどうだったかかを理解しなければなりません。

 (2)統制派と皇道派

 「・・・宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された・・・
 宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
 永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE

 近代化した陸軍、総力戦体制に支えられた統制派の陸軍は何をするのか。
 言うまでもないことながら、ロシア(ソ連/共産主義)を封じ込めたかったわけです。
 すなわち、統制派とは、対ソ冷戦派であったと考えればよいのです。
 ただし、一切熱戦を排除する、というものではありませんでした。
 戦後の米ソ冷戦下で、米国が軍事介入を重ねたように、統制派は、支那がソ連と結託して日本を後方から脅かすことがないよう、必要に応じて支那に軍事介入すべきであると主張しました。(=いわゆる「一撃論」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE
 統制派が、1937年に軍事介入によって蒋介石政権に反日政策を止めさせようとしたり(日支戦争)、更には、1940年に親日の汪兆銘政権を樹立して蒋介石政権の打倒を目指したりしたのはそのためです。

 これに対し、いわゆる皇道派とは、ただちに対露熱戦を起こすことを目指した陸軍内の派閥だったのです。
 皇道派の総帥とも言うべき荒木貞夫は、「・・・シベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者とな<ったところ、この荒木以下の皇道派は、そのために、>・・・「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべし・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE 上掲
と唱えたのです。

 ご承知のように、「・・・<統制派の>永田鉄山が皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、・・・皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに<統制派は、>退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE 上掲
わけです。

 しかし、ソ連軍と対峙していた朝鮮軍や関東軍の中には、皇道派的機運が漲っていたのです。

 (3)軍事予算の制約

 しかし、統制派の政策をとるにせよ、皇道派の政策をとるにせよ、それを日本単独で遂行するだけの資源を日本は持ち合わせていませんでした。
 天然資源の問題はさておき、カネの面を考えてみましょう。
 国民所得を母数とする租税負担率(国税+地方税の負担率)は、日支戦争が始まった1937年に14.8%、日米戦争が始まった1941年に18.9%
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/syuusi.htm
ですから、比較にならないくらい豊かになった現在の租税負担率と比べれば、それほど重税とは言えませんが、一般会計歳出に占める軍事費の割合は、1937年に69.1%、1941年には75,7%
http://www.asyura2.com/08/hasan55/msg/534.html
と、圧倒的であり、日本は国力の限界に近い軍事費を費やしていたと言ってよいでしょう。
 しかも、陸海軍は予算のぶんどりあいをしており、結果的に、陸軍と海軍はこの軍事費を半分ずつ分かち合っていました(ジェオシティ上掲)。
 こういう中、1937年に日支戦争が始まったものですから、同年10月に陸海軍の総兵力は108万人に達し、前年の56万人の2倍に近く急増した
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/1/nfm/n_1_2_1_1_1_1.html
ところ、その増加分の大部分は陸軍でした。
 勢い、陸軍が装備に割く予算は、相対的に大きなしわ寄せを受けることになったのです。

 (4)日ソ両軍の対峙状況

 こうして、1939年春の時点で、日ソ両軍が対峙している地における戦力は、以下のように日本側が圧倒的に不利になっていました。
 日本軍11個師団、ソ連軍30個師団。日本軍の戦車200両、ソ連軍は2200両。飛行機は日本軍560機、ソ連軍2500機。(半藤一利『ノモンハンの夏』文藝春秋(1998年)(半藤)13頁)

 (5)ソ連兵の質を見くびっていた日本の軍部

 しかし、1933年に日本の陸軍の参謀本部が策定した『対ソ戦闘要綱』は、「ソ連人は、「素朴にして特に運命にたいし従順」で、政治的暴圧に「多くは消極的自棄をもってこれを甘受し、あえて難境を打開せんの企図心に乏し」。ただ体力強大にして堅忍持久に富み「よく艱苦欠乏、なかんずく酷寒に堪え」る特性をもっている。されど、「ソ人は概して頭脳粗雑、科学的思想発達せず、従って事物を精密に計画し、これを着実かつ組織的に遂行するの素性および能力十分ならず。また鈍重にして変通の才を欠く所多し」・・・「その事大性から強者には実力以下に怯、弱者には実力以上に勇」「独断および企図心に欠け、既定計画、命令を墨守して多く戦機を逸する」「協同動作不良、各個不統一の戦闘に終始することが多い」(半藤45〜46頁)とソ連兵を見くびっていました。
 この『要綱』は、皇道派の面々によって策定されたのですが、彼等を一掃した統制派は、その後もこれをそのまま維持しました(半藤53頁)。
 ですから、朝鮮軍や関東軍は、自分達の戦力が劣っていても、十分ソ連軍に対処できると思い込んでいたのです。

(続く)