太田述正コラム#3756(2010.1.8)
<左脳・右脳・人間主義(その3)>(2010.5.19公開)

→このガーディアンの書評子も、エコノミストの書評子同様、マクギルクライストの本の内容をかいつまんで紹介しているのであって、自分の見解を生の形で述べているわけではないのですが、それでも、紹介の中に、二人とも自分の見解がにじみ出ているように思います。
 この書評子は、一見、ニュートンと、欧州の近代科学者達とを一括りにしているようですが、ニュートンは右脳を使って神学にも取り組み、だからこそ、時代を画すような左脳を使った科学研究ができた、という気持ちでニュートンに言及しているように私には思えます。(太田)

 「・・・マクギルクライストは、我々が右脳的生き様へと戻ることを欲している。
 それは、我々の感情的かつ共感的な再生されたをやり口を持ち込むこと、そして、本能と宗教が中心舞台へと戻ることを許すことを意味する。
 彼は、現代芸術は、我々の文明の初期の歴史の大部分における生活を特徴付けたところの、過去の美しい芸術、伝説と神話、隠喩及び感覚と信条のより大きな開放性・・超自然的な漠然性と言っても良いかもしれない・・といった、右脳がそれでもって生きることをより好むであろうはずの諸価値を左脳が毀損した一つの例であると考える。・・・
 ・・・仮に、欧米の文明が右脳体制(dispensation)から左脳体制へと衰亡したという彼の議論の論理を受け入れるとして、前者がいかなる体制であるかは想像するまでもない。なぜなら、歴史それ自身が我々にそれを教えてくれるからだ。
 その体制下では、我々の大部分が、地方の領主や僧侶という形をとったところの、自分達よりほんのちょっと左脳的な弱い物いじめっ子の尻に敷かれ、揺りかごから墓場まで離れることのない一片の農地で働き続ける、迷信深く無知な農民だ。・・・
 ・・・マクギルクライストは、人間の生活においては、脳の両半球が必要であり、そもそも、両者は精神生活のあらゆる側面に関わっている、ということをまことに執拗に述べる。
 この本の初めの方で、彼は、左脳は言語と論理との専用の家であるのに対し、右脳は空間把握能力と感情との専用の家であるといった主張が広く流布しているけれど、それは誤解である、と執拗に述べるのだ。
 しかし、<この本を読み進めると、やはり、彼は、左脳と右脳は決定的に異なっているめいたことを言い出すのだから、何をか言わんやだ。>・・・」(C)

→このリテラリー・レビュー誌の書評子は、右脳が主で左脳が従であるべきだとするマクギルクライストの主張に拒否反応を示しているわけです。(太田)

3 終わりに

 書評だけで、この種の本が分かった気になってはいけないのですが、私は、マクギルクライストは、左脳が主となってしまっているところの欧州文明に対する批判を展開したのであって、右脳が主であるべきだと主張したり、現代芸術を否定したりしたのは、勇み足である、と受け止めています。

 欧州文明とは違って、アングロサクソン文明は、左脳と右脳を、それぞれの機能に即し、どちらをも十二分に駆使する文明である、と言ってよさそうであり、マクギルクライストは、自分の属する文明を是とする立場から、かかる批判を展開した、と思うのです。
 ニュートンがまさに、このような意味でアングロサクソンを代表する人物であったわけですが、私自身が思い出すのは、アダム・スミスです。
 彼は、スコットランド人ではありますが、イギリス人以上にアングロサクソン的な人物だったという気が私にはするのです。
 すなわち、スミスは、右脳を駆使して『道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)』(1759年)を書き、左脳を駆使して『国富論(Wealth of Nations)』(1776年)を書いた、と私としては言いたいのです。
 (事実関係は、
http://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Smith
によった。)
 『道徳感情論』については、機会があれば改めて取り上げたいと思っていますが、要するに、私の言葉で言えば、それは人間(じんかん)主義論であり、他方、『国富論』は、イギリスにおける、タテマエとしての個人主義を、経済の科学的解明のために、方法論的個人主義的(=原子論的)に援用した、つまり、経済生活においては、個々人はバラバラの個人(=原子)として存在しているものと仮定することによって、ここに科学としての経済学が生誕した、ととらえるわけです。

 アングロサクソンとは、このように、右脳的な人間主義的感情と左脳的な科学的理性を兼ね備えた存在、両立させた存在である、ということですね。

 ところで、経済学はもちろん、物理学も、これまでの、左脳的な原子論的アプローチには限界があることがはっきりしてきました。
 科学は、常に左脳と右脳を総合的に活用しつつ取り組むべき時代になっていると言って良いでしょう。
 うち、人文社会科学は、人間(じんかん)科学という総合科学に統合される時代が目前に迫っていると思います。
 他方、芸術についても、これまでの、右脳的な全体論的アプローチだけで事足りた時代は終わりを告げており、19世紀末の絵画や音楽の素材化は、その先鞭をつけたものであって、今後は、デジタル化が一層進展することで、素材化が徹底し、その上で、視覚、聴覚、臭覚、触覚を総合した芸術が生まれる時代が目前に迫っていると思います。
 日本の文明は、人間主義が、アングロサクソンのようにホンネの部分だけでなく、タテマエの部分においても当然視される、根っからの人間主義文明ですし、角田忠信が指摘したように、日本人の脳は左脳と右脳の機能が部分的に混淆しているのであるとすれば、日本人が芸術や人文社会科学、ひいては自然科学の分野で、もっともっと大活躍する余地がある、と言えないでしょうか。
 そのためにも、日本人は、まずはアングロサクソンから、学び尽くさなければならない、と私は思うのです。

(完)