太田述正コラム#3730(2009.12.26)
<トゥキディテス(その1)>(2010.5.13公開)

1 始めに

 ペロポネソス戦争については、既にシリーズ(コラム#908〜912)で取り上げたところですが、ペロポネソス戦争史(注1)を書いたトゥキディデスそのものを取り上げた本、Donald Kagan 'THUCYDIDES The Reinvention of History' が出て、沢山の書評を賑わしています。

 (注1)「題名は後世に付けられたものであり、『歴史』、『ペロポネソス戦争史』とも呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%8F%B2_(%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%B9)
 ただし、英語ウィキペディアでは、単に'History of the Peloponnesian War’とし、かかる説明は付されていない。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Peloponnesian_War (太田)

 そっそく、これら書評類を活用して、この本の概要をご紹介することにしました。
 またか、と思われる方もおられるでしょうが、米国におけるアテネの黄金時代への関心は高く、次から次へと本が出ます。
 これは、日本でNHKの大河ドラマが戦国時代末期と幕末/明治初期を繰り返し取り上げるようなものであり、この種の本を取り上げることは、米国を理解することにも資する、とお考えいただければ幸いです。

A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/12/23/AR2009122301931.html
(12月26日アクセス。以下同じ)
B:http://www.slate.com/id/2232862/pagenum/all/#p2
C:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704597704574485770661846940.html#
D:http://www.bookforum.com/inprint/016_04/4693
E:http://www.goodreads.com/book/show/6611783-thucydides
F:http://m.npr.org/news/Arts+&+Life/121362478
(著者による自著の説明)
G:http://www.npr.mobi/templates/story/story.php?storyId=121359301
H:http://bmcr.brynmawr.edu/2009/2009-12-28.html

 なお、著者のドナルド・ケーガンは、エール大学の教授であり、紀元前5世紀のギリシャについての著名な歴史学者です。(B)

2 トゥキディデス

 (1)生い立ち

 「・・・トゥキディデス(Thucydides<。BC460頃〜395年頃>)は、紀元前455年頃、アテネの貴族的な家に生まれた。
 彼の若い頃、アテネ帝国は、恵み深い専制者とでも形容すべきペリクレス(Pericles)<(コラム#909、2458、3451、3687)>によって統治されていた。
 しかし、ペリクレスが紀元前429年に亡くなると、アテネ政府は、自称民主主義者達の集団によって乗っ取られた。
 それは、トゥキディデス一家にとっては侮辱と受け止められた可能性が高いとケーガンは言う。
 彼等は民主主義に対する深い疑念を抱いていたに違いないと。・・・」(G)

 (2)ペロポネソス戦争史を書いた理由

 「・・・ケーガンは、一般通念に反し、トゥキディデスは、彼の著作を遠くから、オリンピックを観戦するように書いたのではなく、彼がかくも流暢に、そして丹精を込めて描写した戦争に関し、彼は実際には参加者であった・・というより共犯者であった・・ことを我々に思い起こさせる。
 つまり、<彼のこの著作は、>党派的観点から書かれたものだったというのだ。
 以前にこの戦争でアテネ軍の司令部において・・・アテネのエリートの一員として(B)・・・高い地位を占めた将軍であった彼は、紀元前422年に・・・<アテネの>戦略的に重要な植民ポリスであった(B)・・・アンフィポリス(Amphipolis<。ギリシャの北東部のマケドニア地方の中央部に位置した
http://en.wikipedia.org/wiki/Amphipolis (太田)
>)を敵に奪われた後、亡命を余儀なくされた。
 その何年も後、彼は自分のとった行動と、それ以上に彼の階層のとった行動を弁明するための説明を書いたのだ。・・・」(A)

 「・・・トゥキディデスの物語は、ケーガンの主張によれば、アテネのエリートの汚名を晴らし、数多くの過ちの責めをアテネの民主主義に負わせようとしたものなのだ。
 つまり、トゥキディデスは、彼の読者達に、戦争開始時に政治家かつ将軍としてアテネの政治に君臨したペリクレスは、スパルタを打ち負かす実行可能な計画を持っていたというのだ。
 しかし、彼が伝染病で亡くなった後、デマゴーグ達がこのポリスの支配権を獲得した。
 そのうちの一人であるアルキビアデス(Alcibiades)<(コラム#3415、3451)>が、シチリア島に艦隊を派遣するようアテネ市民達を説得した。
 ところが、それは破滅的な失敗に終わった。
 にもかかわらず、トゥキディデスは、この大災厄は、この作戦を指揮したところの、貴族的な将軍であるニキアス(Nicias<。BC470年頃〜413年。スパルタとの和平を追求したhttp://en.wikipedia.org/wiki/Nicias
>)の咎ではないと主張したのだ。
 そのほとんどがペリクレスの死と戦争の様々な圧力によって起こされたところの、アテネの政治の衰亡によって、このシチリア島での大災厄をもたらされた、というのだ。・・・」(B)

 「・・・『歴史』は、ケーガンによれば、他の何よりも、トゥキディデスの弁明(Apologia)の提示なのであって、公平な合理主義者による単純な原因と結果の提示ではないのだ。・・・」(A)

(続く)