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太田述正コラム#3888(2010.3.15)
<映画評論3:ミュンヘン(その1)>(2010.4.19公開)

1 始めに

 Mixiの太田コミュで、「『ミュンヘン』と『ダークナイト』<を鑑賞した>・・・とりあえずの感想。 前者→駄作  後者→傑作・・・『ミュンヘン』も『ロード・オブ・ウォー』も、政治的メッセージ映画だけど、メッセージが単純、陳腐なんだな。・・・」と記した『ミュンヘン』をどうして評論の対象として取り上げるのか?
 駄作であるにもかかわらず、いや、駄作だから(?)、連想がどんどん広がって行ったからです。
 なお、2005年の米国映画『ミュンヘン(Munich)』(スピルバーグ(Steven Spielberg)監督(制作者の一人でもある))については、以下を、
http://en.wikipedia.org/wiki/Munich_(film)
(3月13日アクセス)その背景であるミュンヘン五輪(1972年)での虐殺事件については、以下を
http://en.wikipedia.org/wiki/Munich_massacre
(3月13日アクセス)参照して下さい。

 以下、読者が、この二つのウィキ(少なくともその日本語版)にざっと目を通された、という前提で話を続けます。

2 『ミュンヘン』の駄作性と連想の広がり

 (1)駄作性

 この映画の駄作性は次の二点です。
 第一に、ミュンヘン虐殺事件実行者等の一連の殺害について、この映画が描くような形で「元」モサド要員等が(中途から)逡巡、後悔するわけがない、という点です。
 第二に、上記殺害は、イスラエルの諜報機関や軍の組織的関与の下で行われたはずだ、という点です。
 上記殺害を行ったグループのリーダーとすらモサドは縁を切り、情報入手にもイスラエルの政府機関は関与しない、というこの映画の設定は荒唐無稽である、と感じました。
 このような重要な点においてリアリティーがない、歴史小説ならぬ歴史映画はナンセンスであり、この映画のビデオを私は白けきった思いで鑑賞し終えました。

 (2)連想の広がり

 以上の2点を「証明」する、というやり方ではなく、私がこの映画を見て連想が広がって行ったプロセスをそのままお伝えすることで、結果としてこの2点を読者の皆さんに納得してもらえればと思います。
 
 まず、イスラエルの民(ユダヤ人)とテロとは切っても切り離せない関係にあることを頭に入れましょう。
 
 アレキサンドル大王の帝国の後継国家の一つのセレウコス(Seleucus)朝シリアからのユダヤ人独立を、叛乱を通じてついに紀元前140年にかちとり建国したユダヤ人のハスモン王朝(Hasmonean dynasty)が、次第にローマの属国化し、同王朝の流れを汲むヘロデ王朝(Herodian Dynasty)が紀元後70年に滅ぶと、爾後イスラエルが建国されるまで、ユダヤ人は国亡き流離い人となったわけです。
 上記、広義のハスモン王朝が滅亡する前後、記録に残るものとしては世界初の政治的テロリスト達にユダヤ教の熱狂的信者(zealot)達がなりました。
 彼等は、暗殺と誘拐というテロ手法でもってできるだけ多くのユダヤ人をローマに対する叛乱に立ち上がらせようとしたのですが、73年にマサダ(Masada)が陥落し、籠城していたユダヤ人全員が自殺し、その望みは潰え去るのです。
http://www.informaworld.com/smpp/content~content=a789415554&db=all
http://en.wikipedia.org/wiki/Hasmonean
http://en.wikipedia.org/wiki/Herodian_Dynasty
(いずれも3月15日アクセス。以下同じ)

 ちなみに、政治的テロリズムとは、一般に、
一、暴力の使用
二、この暴力を発動させる政治的動機
三、犠牲者とそのコミュニティーに恐怖を感じさせる意図
四、テロの犠牲者が文民ないし非戦闘員
という要件を充たしたもの、とされています。
A:http://usa.mediamonitors.net/content/view/full/70483

 次に押さえるべきは、イスラエルの建国はテロの賜であり、同国軍はテロリスト・グループがその母体であり、建国後のイスラエルを代表する政治家達の多くはテロリスト的バックグラウンドを持っている、ということです。

 建国時に活躍したユダヤ人テロリスト・グループに、ハガナ(Haganah)、イルグン(Irgun)、それにレヒ(Lehi)等があります。
 ハガナは、パレスティナへのユダヤ人入植者達の自警団として出発し、文字通り建国後のイスラエル軍の中核となったグループです。
 ハガナもディル・ヤシン虐殺(下出)に関与したほか、パレスティナ人集落を襲い、虐殺と家屋の破壊を盛んに行い、パレスティナ人の追い出しを図りました。
 その中でも、特に悪名高いのが、ベイト・マシル(Beit Masir)村を対象にしたものであり、この襲撃を指揮したのが、後に2度イスラエルの首相になったイツハク・ラビン(Yitzhak Rabin)でした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Haganah
 イルグンは、ハガナの分派であり、積極的報復だけがアラブ人達を抑止できるという考えを持ち、やはり建国後のイスラエル軍の一翼を担うことになります。
 イルグンは、パレスティナ等に係る英国政府出先機関が集まっていたエルサレムのダビデ王ホテル(King David Hotel)の1946年における爆破や(レヒと一緒になって決行した)エルサレム近郊のデイル・ヤシン(Deir Yassin)でのパレスティナ人約600人(女子供老人を含む)の虐殺等を敢行したことで知られています。
 このイルグンの流れを汲むのが、現在のイスラエルの有力右派政党のリクード(Likud)です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Irgun
http://en.wikipedia.org/wiki/King_David_Hotel_bombing
http://en.wikipedia.org/wiki/Deir_Yassin_massacre
 レヒは、イルグンからの分派であり、1944年のカイロでの英国人のモイン卿(Lord Moyne)・・中東駐在英植民地担当相(ペルシャ・中東・アフリカが管轄)・・の暗殺、1948年の国連特使たるスウェーデン人のフォルケ・ベルナドッテ(Folke Bernadotte)伯爵の暗殺、そしてこれは建国後のことですが、ナチスを助けたとされたハンガリー出身のユダヤ人のイスラエル・カストネル(Israel Kastner)の1957年のテルアビブでの暗殺等で知られており、建国されたばかりのイスラエルによって、非合法団体に指定されています。
 ちなみに、後にやはり2度イスラエル首相になったイツハク・シャミル(Yitzhak Shamir)は、レヒの指導者の一人でした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lehi_(group)
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Guinness,_1st_Baron_Moyne
http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Kastner
(以上、全般的にAにも拠った。)

(続く)

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