太田述正コラム#3840(2010.2.19)
<文明を超えた「普遍」は存在するのか>(2010.3.24公開)

1 始めに

 私は、コラム#3838(未公開)で、「私は、それぞれ科学的根拠があり、しかるがゆえに普遍性があるところの、自由主義、人間主義、自然との共生の追求が「善」であ<ると>・・・考えている」と申し上げたところですが、このような考え方を、ほとんど全面否定するかのような記事
http://www.newsweek.com/id/233778
(2月19日アクセス)がニューズウィーク誌に載りました。

2 記事の概要

 「・・・額のすぐ内側の部分は前頭前野内側部(=内側前頭葉=medial prefrontal cortex)と呼ばれており、自我を宿している<部位である>とされている。
 この部位は、我々・・この研究の場合は我々米国人のことだ・・が自分自身のアイデンティティーや性向を考える時に活性化する。 
  しかし、<ある研究が見出したことだが、>支那人の被験ボランティア<を対象にした研究>では、結果は、驚くほど異なっていた。
 「自我」回路は、自分達自身を描写する特定の形容詞が使われたと思った時だけでなく、その形容詞が自分達の母親を描写していると思った時も活性化したのだ。 
欧米人では、このような自分と母親との重なりあいは見られなかった。
 ある人が、自分自身を自律的(autonomous)で独特(unique)であると見る文化に居住するか、より大きな全体とつながり、その一部であると見る文化に居住するかによって、この神経回路は極めて異なった諸機能を果たすのだ。・・・
 すなわち、欧米人は、個々の対象に焦点をあてるのに対し、東アジア人は文脈と背景に注意を払うわけだ。
 (個人主義対集団主義という分裂がここにも現れている、ということになる。)・・・
 ・・・似たようなことが、<もう一つの研究において、>・・・服従的ポーズ(submissive pose)(頭を下げ、肩をすぼめる(hunch))を見た場合と、支配的ポーズ(dominant pose)を見た場合において、日本人と米国人との間で見出された。
 ・・・脳のドーパミンを燃料とする報償回路が大いに活性化するのは、それぞれの被験ボランティアの文化が大いに価値を置くところの、米国人にとっては支配的姿勢の光景であったのに対し、日本人にとっては服従的姿勢の光景であったのだ。
 こういった類の話では、鶏が先か卵が先かということになるが、賭けるとすれば、文化が脳を形作っているのであってその逆ではない、ということになりそうだ。・・・

 <更にもう一つの研究では、>どちらもアラビア数字を使っているというのに、支那生まれの支那語の使い手は、(3+4といった)単純な計算を行ったりどちらの数が大きいかといったことを判断する際、英語の使い手とは脳の異なった部位を用いることが見出された。
 すなわち、支那人は、視覚的かつ空間的情報を処理する回路と動きを掌る(planする)回路・・後者は算盤の仕様に関係しているのかもしれない・・とを用いる。
 しかし、英語の使い手は言語回路を用いるのだ。
 これはあたかも、西側世界では数を単に言葉として考えるのだけれど、東側世界では、数を象徴的、空間的意味を担った含意をもって考えるかのようだ。・・・

 ・・・根本的な文化的差異がかくも根本的なものであるとすると、恐らくは、人権、民主主義やそれに類した「普遍的」観念は、必ずしも普遍的でないのだろう。」

3 コメント

 最初の研究については、「欧米人は、個々の対象に焦点をあてるのに対し、東アジア人は文脈と背景に注意を払う」という総括部分についてこそ、以前(コラム#3662、3664、3666で)ご紹介した、私も同感であるところの考え方そのものなのですが、実験の結果自体は、あたかも人間主義が米国人では実現困難であるのに対し支那人では実現が容易であるように読めて悩ましいところです。
 二番目の研究については、研究の細部にあたらないと確たることは言えませんが、にわかに信じがたい実験結果であるように思います。
 三番目の研究については、日本人と欧米人が、音楽や虫の音を脳の違った部位で処理するとの角田忠信センセの説(コラム#2533、2767、3750、3756)を彷彿とさせるものがあるけれど、やはり、ほんとかね、という思いがします。
 文明の違いを、脳科学によって裏付ける、というのは面白い試みであると思いますが、よほど注意しないと、人種主義に堕してしまう危険性があるし、学習や「押しつけ」による文明の継受の可能性を否定することにつながる危険性もあるのではないでしょうか。