太田述正コラム#3838(2010.2.18)
<法の支配(その3)>(2010.3.23公開)

  イ ビンガムへの批判

 「・・・議会主権と法の支配との矛盾の話は、(ビンガムは賢明にも議会が司法の意思を打ち負かせなければならないと考えていると言っているが、)もっともらしいこじつけにほかならない。
 彼は、裁判官が(制止し身体検査をするといった)抑圧を正当化する形で法の支配を解釈する危険性を余りにも無視している。・・・」(F)

 「・・・<また、>「5大」安全保障理事会<常任理事>国のうち英国だけしか国際司法裁判所の管轄を受け入れていないことからすると、<ビンガムのように、>国際法に実際に「規範性がある(rules)」と考えることは楽観的過ぎる。・・・」(E)

 「・・・<もう一つある。>ビンガムは、法の支配によって統治されている社会を、おおむね、良い諸法でもって統治されている社会と等置している。・・・
 彼は、自分のは法の支配の「厚い」定義であると言明する。
 より在来的な「薄い」諸定義では、諸法の中身を問題にすることがほとんどないとし、その結果、当該社会が不正義で法「によって」支配される可能性を許容してしまうというのだ。・・・
 <しかし、>第一に、この著者の言う「厚さ」における「厚み」の定義が問題になる。
 それは厚過ぎるのだ。
 ビンガムは、法の支配だけで望ましい社会のあらゆる目的が事実上達成されるかのような書きぶりをしている。
 <だが、>法の支配は、確かに良いことではあるものの、それを、他の様々な良いことと混同してはならない。
 第二に、彼は、自分が権威と奉るところの、他人の意見に依拠しすぎている。・・・
 例えば、ビンガムがイギリスの知識人たるクリストファー・ドーソン(Christopher Dawson<。1889〜1970年。カトリック教徒たるイギリス人学者。文化史とキリスト教圏が専門
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Dawson (太田)
>)の言を読者に推奨するのがそうだ。
 1943年に、ドーソンは、「あらゆる手段が悪と戦う際には許されると人々が決した瞬間、彼等にとっての善は、彼らが破壊しようとした悪と区別がつかなくなる」と記した。
 しかし、これは明らかにナンセンスだ。
 それには少なくとも二つの理由がある。
 戦争は不正義的に戦われたとしてもなお正戦たりうる<というのが、ナンセンスである一つ目の理由だ>。 
 仮に「善」の擁護者が道徳的に厭わしいことをやった結果「悪」の擁護者と区別がつかなくなったとしても、だからと言って、「善」そのものが「悪」と区別がつかなくなるわけではない<というのが、ナンセンスである二つ目の理由だ。>・・・」(C)

→正戦論議については、何が「善」で何が「悪」なのかをはっきりさせなければなりません。私は、それぞれ科学的根拠があり、しかるがゆえに普遍性があるところの、自由主義、人間主義、自然との共生の追求が「善」であり、この追求を妨げるものが「悪」であると考えています。また、この追求を行うにあたってとる手段は、資源制約下において、科学的見地から、費用対効果的に最も効率的かつ効果的なものでなければならないと考えています。
 このような考えに照らせば、ビンガム(ドーソン)の論も、これを批判する上記書評子の論もどちらも難があるように思われます。(太田)

3 終わりに

 ビンガムは、その職業柄、法解釈論のプロであり、かつ事実認定に係る準プロではあっても、全く彼の専門外である立法論・・高級官僚や政治家は、本来そのプロでなければならない・・についてはシロウトの域を超えない、といったところでしょうか。
 知的能力が高い人間であればあるほど、己の分、限界の自覚に厳しくなければならないところ、ビンガムは己の分をわきまえなかった結果、引退後、愚にも付かない本を書いてしまった、ということになりそうです。
 晩節を汚さないのはむつかしい。
 ことほどさように人生とは一筋縄ではいかないものだな、と思います。

(完)