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太田述正コラム#3826(2010.2.12)
<映画評論2:許されざる者>(2010.3.16公開)

1 始めに

 クリント・イーストウッド制作・監督・主演のアカデミー賞作品賞等受賞映画、『許されざる者(Unforgiven)」(1992年)
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Unforgiven_(1992_film)
は、フィナーレ直前、この主演者が、ばったばったと「敵」を撃ち殺す画面で快哉を叫ぶ、見事な娯楽カタルシス映画です。
 
2 殺人と有色人差別

 この映画の比較的新しい評論に以下のようなくだりがありました。

 「「許されざる者」はあらゆる修正主義西部劇にとどめを刺す修正主義西部劇であるという評判があるが、・・・それは必ずしも正しくない。
 『ダンス・ウイズ・ウルブズ(Dances with Wolves)』・・・だってカウボーイがインディアンをやっつけるというものでは必ずしもなかったし、真の傑作たる『天国の門(Heaven’s Gate)』は、輝かしいフロンティアという神話を打ち砕いていた<からだ>・・・
 そんなことよりもはるかに重要なのは、この映画が、典型的な西部劇的な男性心理についての見方においてぱっくりあいた傷を暴き、暴力のルーツを晒し、どうして人は殺すのか、そしてどうして我々の娯楽事業において殺人の描写がかくも大きな部分を占めるのか、をいう疑問に対する真剣なる回答を提供しようとしているのだ。・・・」
http://www.thefilmtalk.com/2009/09/12/unforgiven-and-the-roots-of-violence/

 しかし、ここまではまさにその通りなのだけれど、後段に関し、この評者は、まことにつまらぬ一般論を述べてお茶を濁してしまっています。
 実は、イーストウッドは、(彼が買い取って10年間暖めていたという脚本がそうなっていたのであれば、その脚本家は、)主人公と出会うことなく、保安官に痛めつけられ、町から追放されてしまう、イギリス人ガンマンにその回答を語らせているのです。
 このガンマンによる、二人もの米大統領が銃で暗殺された(注)のは、イギリスと違って米国の元首が君主ではないからだ、という指摘がそうです。

 (注)1965年のリンカーン(Abraham Lincoln)暗殺と、1881年のガーフィールド(James A. Garfield)暗殺を指す。ちなみに、1901年にマッキンレー(William McKinley)が暗殺されている
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_States_presidential_assassination_attempts_and_plots
ので、この映画の時代設定は19世紀末ということになる。

 つまり、以前私が述べたように、米国の政府には権威がなく、国民から信頼されていないからこそ、暴力の極限形態である殺人が米国では日常茶飯事なのだ(コラム#3694)、というわけなのです。
 以上を踏まえれば、イギリス人ガンマンの登場等、本筋と関係のない人物やプロットが描かれることをくさした一部評論(この映画のWiki前掲)は、全くあさっての方角を向いたものである、と言わざるを得ません。
 無法者のような保安官や、針小棒大に被害を言いつのって、賞金稼ぎ達に自分達の仲間の娼婦を傷つけたカウボーイ二人の殺害を依頼するトンデモ娼婦達(同上前掲)は、片や信頼できない法執行機関、片や自力救済、リンチを志向する市民、のそれぞれグロテスクな象徴であると考えれば、イーストウッド(ないしは脚本家)の言いたかったことがより鮮明に見えて来るというものです。

 さて、この映画でイーストウッド(ないしは脚本家)が訴えたかったことはもう一つありそうです。
 主人公とともに行動する2名のうち、結局保安官に殺されてしまう方のカウボーイが黒人である(同上前掲)ところにその鍵があります。

 「・・・「西部劇」・・・における、カウボーイ伝説の神話と現実との恐らくは最大のギャップは、東部の出版界とハリウッドの映画制作所の神話作成者達によって黒人のカウボーイがほとんど完全に無視されてきたところにある。・・・
 牛の王国の中心はテキサスだったが、同州は以前は奴隷州であり奴隷がたくさんいた。
 だから、元奴隷や奴隷解放後に生まれた黒人達の多くがテキサスの牛会社で働き、いわゆる牛町または鉄道拠点に向けて<牛を引き連れて>北上した。・・・
 ・・・その数は、フロンティアの牛産業で働いていたカウボーイ35,000人中約25%の8,000〜9,000人近くに及んだ。
 また、・・・西部の牧場や牛の引き連れ旅における黒人のカウボーイ達の状況は、経済的かつ社会的見地からは、南部の黒人達に比べてはるかに恵まれていた。・・・
 ただし、もとより、牛のフロンティアにおいても人種差別はあった。
 黒人達は白人用のホテルには泊まれなかったし、白人用のレストランでは食事ができなかったし、白人の娼婦といちゃくつくこともできなかった。・・・
 しかも、黒人達が、牛の引き連れ旅の際にカウボーイ達の栄えある頭目の地位に就くことは希だった。
 とはいえ、黒人達と白人達の<カウボーイとしての>賃金は一般的に言って平等だったし、カウボーイ用の飯場には一緒に泊まったし、仕事も食事も一緒だった。・・・」
http://www.pbs.org/wnet/ranchhouse/1867_essay6b.html

 ですから、イーストウッド(ないしは脚本家)は、当然のキャスティングを当然のようにやったということです。
 ただし、この映画の中では、この黒人カウボーイが、夜、白人用の酒場で酒を飲み、その二階で引き続き白人娼婦を買う場面が出てきます。
 ここは、相当程度ポリティカリー・コレクトであるつもりになっている観客でさえ、恐らくは大きな違和感を覚える場面ではないかと想像されます。
 しかし、そのような反応を引き起こすことは、織り込み済みであったに相違ありますまい。

 イーストウッドは、ニクイな、と改めて感心しましたね。

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