太田述正コラム#3754(2010.1.7)
<早稲田大学での講義>(2010.2.7公開)

 本日1630〜1800、早稲田大学政経学部の3、4年生を対象とした授業の一環として、私が1コマ受け持ち、講義をしてきました。
 以下に、事前に学生諸君に配布してあった講義案を掲げます。
 なお、有料読者の皆さんは、本日の講義に用いたパワーポイント資料2種を、コラム・バックナンバーと同じ形でダウンロードできます。
 資料2種とは、学生諸君に講義が始まる際に白黒コピーで配布した資料と、私が実際にプロジェクターに出力して使った資料(ファイル名にanimationが入っている)です。
 講義案作成に協力していただいた、MSさん、べじたんさん、Chaseさん、USさん、そしてパワーポイント資料を一手に作成していただいたUSさんに心から御礼申し上げます。(太田)
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                 講義案

全体構成

一 講師紹介
 概要:太田さん自身のプロフィール及び太田さんの表芸、裏芸についての紹介
二 米国論
 概要:世界の警察であるとか、自由主義陣営のリーダーを自認している米国だが、実は、できそこないアングロサクソンであることを説明
三 属国論
 概要:日本は、そのできそこないアングロサクソンである米国を宗主国とする属国であることを説明
四 日本の選択肢
 概要:日本の選択肢を提示する。強制はしない

一 講師紹介

 1 太田さんの紹介

 簡単な略歴
 専門が国際問題・安全保障であることの説明
 一方、官僚批判などもその著書で行っていることを説明

 2 「太田さんは、安全保障の専門家として、現在の日本の状況をどのような危機感を持たれておられますか?」

 戦後日本の国家戦略は、自らの意思で属国・・外交、防衛を米国に依存・・となり、経済に専念するという、いわゆる吉田ドクトリンです。
 要するに、日本は、集団的自衛権行使の禁止というエゴイズムの奨励と国家としてのガバナンスの放棄を自ら行い、現在に至っているのです。
 現在の政治、官僚機構、ひいては政府依存度の大きい大企業における、三位一体的癒着構造の下での退廃・腐敗はその論理的帰結である、と私は考えているのです。
 このような人類の歴史上余り例をみない退嬰的な戦略に半世紀以上も経っていまだにしがみついている日本を、米国の指導層は軽蔑しきっています。

 ここで日本の安全保障状況についてちょっと触れておきます。
 冷戦時代を含め、戦後一貫して、日本に対する直接侵略の脅威はありませんでした。
 というのは、一つには四囲が海であることです。これが核時代においては決定的な意味を持ちます。日本に対する上陸作戦の実施がほとんど不可能になったからです。
 次に、在日米軍が日本に前方展開し、朝鮮半島には、在韓米軍と韓国軍が存在して、日本を大陸からの脅威から守ってくれていることです。
 結局、日本にとっての軍事的脅威は、核の脅威とテロリスト的脅威だけなのです。
 しかし、核の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存できることに一応なっていますし、テロリスト的脅威に関しては、軍事的脅威というよりは、治安上の脅威であり、基本的に警察力で対処すべきものです。

 このように、国内では軍隊として活動をする場面はまず考えられないわけですが、そこへもってきて、政府憲法解釈により、集団的自衛権行使が禁じられているのですから、海外で軍隊としての活動をすることも不可能です。

 それだけではありません。
 念が入ったことに、自衛隊は軍隊ですらないのです。
 憲法解釈上の建前論を言っているのではありません。
 編成・装備は軍隊のように見えますが、軍隊もどきの警察にほかなりません。
 「警察」予備隊のままだ、と言ってもいいでしょう。
 (国際法上は軍隊とみなされるでしょうが、それは別の話です。)
 というのは、自衛隊は、政府憲法解釈により、軍法会議や軍律法廷(コラム#5)など、軍隊の基本的な機能を欠如したまま、ポジリストにより管理されているからです。
 ポジリストとは、何をやってよいか、細かく法律によって定められていることです。
 これは、自衛隊が単なる一行政機関であって、まさに警察そのものであることを意味します。
 およそ軍隊というのは、政府の最後の拠り所たる暴力装置であって、諸外国においては、国際法上禁止されていること・・ネガリスト・・以外は、何でもやらせることができるものなのです。
 このように、国内で自衛隊法でがんじがらめにしばっている上に、海外に派遣する時には、いちいち特別法をつくるというやり方をしています。
 イラクに派遣するのも特別法をつくり、インド洋で給油活動をするのも特別法をつくり、すべて期限を付している、というのですから、何をかいわんやです。

 結局、自衛隊は軍隊としてやるべきことは何もないし、何もできない、ということです。

 その結果、これまで国内ではもちろんですが、PKO等で民間人、外交官、警察官は任務遂行中の死亡者が出ているけれど、自衛官の死亡者は一人もいないという笑い話のような話になっているわけです。

 こんな自衛隊が、退廃、腐敗しない方が不思議でしょう。
 これほどひどくはないけれど、似たようなことが、外交の基本を宗主国の米国に委ねていることから外務省についても言えます。
 安全保障に関係のない省庁などありませんし、グローバル化した現代においては、外交と関係のない省庁もほとんどありません。
 結局、退廃、腐敗は全省庁、ひいては政府依存度の高い全企業を覆うことになって現在に至っているのです。

 このような見解に私が到達したのは、私が、戦後日本の吉田ドクトリンの矛盾を集約したような官庁である防衛庁に30年近く在職したからこそですが、だからといってこのような見解をバイアスがかかったものである、とは考えていません。

 ところで、勘違いしてもらっては困るのであえて申し上げておきますが、官僚批判にせよ自民党批判にせよ、これらは私の裏芸であって表芸ではありません。
 7年以上にわたって書き綴ってきた私のブログ
http://blog.ohtan.net/
をご覧になればすぐお分かりになるように、私の表芸は比較政治論であり国際安全保障論なのです。
 しかし、残念ながら日本の現状においては、私が比較政治論や国際安全保障論をどれほど論じようと、それらが日本の政治、日本の安全保障に活かされることはありえません。なぜなら日本にガバナンスが欠如しているからです。
 だからこそ、私は官僚批判や自民党批判を行い、日本が米国から自立を果たし、ガバナンスを回復するために戦っているのです。
 米国の属国なるがゆえに政官業が退廃・腐敗したという私の認識を今申し上げたところですが、政官業の退廃・腐敗を突くことは、米国の属国という現実を浮かび上がらせることにつながる、と考えています。
(コラム#2613=『実名告発防衛省』序文、コラム#2989、#30、57、58)

 3 ありがとうございます。 表芸・裏芸が表裏一体であると理解しました。 では、本日のテーマである米国論、属国論について教えてください。
 まず、米国論からうかがいましょう。
 私たちは経済的にも文化的にもまた安全保障の観点からも過度に米国に依存している感があります。先生のご専門である我が国の安全保障の観点から、このような状態は望ましいものなのでしょうか? 言葉を変えると、米国とはそれほど頼りにしてよい国なのでしょうか?

 (アングロサクソン=イギリス人とは、ゲルマン文化を継受した、ブリテン島在住のバスク人である。言語はベルガエ人から、言語以外の文化はアングロサクソンから継受した。それ以前は、ブリテン島及びアイルランド在住のバスク人はケルト文化を継受していた。これが、イギリス人とウェールズ・スコットランド・アイルランド人との違いだ。すなわち、後者はケルト文化を維持したのだ。後者は文明的には欧州文明に属する。前者は言うまでもなく、純粋ゲルマン文化を特徴とするアングロサクソン文明を形成した。(コラム#1687))

 アングロサクソン文明と欧州文明の違いは何か。
 一言で言えば、ローマ文明の影響を強く受けていないかいるかの違いです。
 ローマ文明とは、ローマ法とキリスト教(帝政期に国教化された)によって特徴付けられます。
 欧州文明とは、ローマ文明をそっくり継受しつつゲルマン人が支配者として形成した文明であり、ローマ文明の特徴に加えて階級制を特徴とする、演繹的、合理論的思考の文明です。
 これに対し、アングロサクソン文明とは、純粋なゲルマン文化を継受したものであり、コモンローと個人主義を特徴とする、帰納的、経験論的思考の文明です。個人主義を特徴としているということは、アングロサクソン文明は、本来的に資本主義的文明であるということです。
 アングロサクソンと欧州は、水と油くらい異質であり、アングロサクソンは、野蛮はドーバー階級の向こう岸から始まると内心思っています。
 他方、欧州は、アングロサクソンに対し、内心著しいコンプレックスを抱いているのです。

 4 米国もそのアングロサクソンの一員ですよね?

 私は、米国はアングロサクソンを主、欧州を従とする「キメラ」であると考えており、そのような意味で、米国をできそこないのアングロサクソンと形容してきました。
 その欧州における、18世紀における代表的知識人たるフランスのヴォルテールもドイツのカントもユダヤ人やアフリカの黒人に対する偏見を抱いており(コラム#3702)、19世紀から20世紀にかけての西欧列強は、文字通りの人種主義的帝国主義国でした。また、ナチスがユダヤ人の絶滅を図ったこともご存じのとおりです。
 欧州を従とする米国もまた、欧州同様、人種主義的帝国主義だったのです。
 これに対し、イギリスは帝国主義国ではあったけれど、決して人種主義的ではありませんでした。
 そのことがよく分かる挿話をご紹介しましょう。

 18世紀のイギリスの評論家にして最初の英語辞書を編纂した人物であるサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson。1709〜1784年)は、米独立戦争の最中の1775年に「課税は圧制ならず」(Taxation No Tyranny)を著わし、対英独立戦争を戦っている北米植民地の人々を非難しました。
 「わが<英国>政府の庇護の下で繁栄を謳歌している<北米植民地の>連中が、<政府の>費用について応分の負担をするのは当然のことではないか。・・彼らは自分の自由意志で、選挙権とささやかな財産を保有していた本国を去り、大いなる財産が得られる代わりに投票権が行使できない場所に移った<のだから、代表なきところに課税なしなどと言えた義理ではない>。・・「彼らは<本国による>課税を受け入れたら自分達は<本国の>奴隷になってしまうと言う。・・<しかし、このように>喧しく自由を叫び、奴隷になどなるものかとのたまっている連中に限って多数の黒人奴隷を抱えているのはどういうことだ。・・それでは一つ、奴隷解放令でも出してやることにするか。よもや自由愛好家でらっしゃるお歴々は反対されまいて。・・解放された奴隷達の方が、彼らの元の主人様達よりはるかに立派な市民になることは受けあいだ。」と。

 このジョンソンの痛烈な皮肉は、米国の独立運動が、奴隷制批判が主流になりつつあった英本国の動向に恐れをなし、わずかな課税を口実に、口先だけ美しい言葉を掲げて開始された側面があることを物語っています。(米国の歴史学者のエドマンド・モルガンは、奴隷制の下で労働者階級が合法的に無権利状態に置かれていたからこそ、英本国のように労働者階級による支配を恐れることなく、米国は民主主義的立憲主義の追求ができたのだ、と指摘しています。)
 ちなみに、米国建国の父であるワシントン、ジェファーソン、マジソン、パトリック・ヘンリーらはみんな奴隷所有者でした。当初の米国憲法には(投票権のない)奴隷の数の五分の三を議員定数の割り振りの際には有権者数に算定するという条項が含まれており、ジェファーソンが1800年の大統領選挙に当選したのは、この条項のおかげだといいます。
(コラム#225)

 このように米国人は、建国以来、(というか、イギリス人が植民してきた当初から、)人種主義的帝国主義者であるわけですが、建国から19世紀末までは合理的であり、人種主義の対象は、主としてインディアンと黒人で、前者を殲滅し後者を奴隷化しつつ北米大陸の領域的征服を目指し、19世紀末以降は非合理的となり、人種主義の対象は、(アフリカ系、中南米のインディオ系、アジア系の)有色人種全体へと拡大するとともに、各地に軍事基地を設ける形の世界支配を目指し、(20世紀後半からは、次第に人種主義を克服しつつ)現在に至っている、というのが私の考えです。
 この米国の19世紀末以降の人種主義的帝国主義による、「「非合理的でイデオロギー的な」愚行は、それぞれ、ロシアの共産主義者達とナチスによって20世紀になされた愚行と規模及び犯罪性において匹敵するものがある」(コラム#3658)と私は指摘しているところです。

 この人種主義的帝国主義の背後にあるのは、イザヤ・ベンダサンの日本教ならぬ、米国教とでも言うべきものであって、旧約聖書に重きを置いた原理主義的キリスト教である、と私は考えています。
 ただし、旧約聖書と言っても、選民たるユダヤ人を選民たる米国人(米国のアングロサクソン→米国の白人)と読み替え、イスラエルを米国と読み替えた旧約聖書です。
 この文脈の下で、米国では、一貫してモーゼが尊ばれてきました(コラム#3652、3654)。

 それでは、どうして米国人の多くが、このような特異な原理主義的キリスト教を信奉し続けて今日に至っているのでしょうか。
 恐らく、米国人は、もともと孤独な人々であったからでしょう。
 というのは、米国を建国した人々は、イギリス人が中心であり、彼等は、もともと本国のイギリス人同様、個人主義という、ある意味、孤独を志向する文化の申し子であった上に、その本国を宗教的かつ政治的に捨て去った人々でもあったからです。
 本国政府に代わって、彼等自身が設立した米国政府のような、伝統に裏打ちされていない、正統性の薄弱な政府など、容易に信頼できない以上、米国人達の孤独感とそれと裏腹の関係にある相互不信感は募ったはずですし、そこへもってきて、かつてはイギリス人中心であった米国に世界各地から移民が流入し、その結果、米国が人種的、民族的、宗教的にばらばらで分断された社会になって行ったため、米国人達の孤独感と相互不信感、及びそれに伴うストレスは募る一方で現在に至っている、と考えられます。
 これが米国における、例えば、精神分析のかつての大繁盛や米国の殺人率の一貫した高さ、あるいはホラー小説の根強い人気をもたらしている、と考えられるのであり、だからこそ、米国人はその特異な原理主義的キリスト教にすがらざるを得ない、ということだと思うのです。

 つい最近までの米国のイデオロギーであった人種主義的帝国主義は、このような原理主義的キリスト教とコインの表裏の関係にあるのであって、上述のようにばらばらの米国人を一つの国民として結集する必要不可欠な存在であったのではないか、ということです。
(コラム#3694等)

 6 では、なぜ、そんなできそこないアングロサクソンの米国が世界の覇権国家となりえたのでしょうか?

 それは、アングロサクソンの本家本元のイギリスが世界の覇権国家となりえた理由と基本的に同じです。
 イギリスが覇権国家となりえたのは、イギリスはその歴史の最初から、既に申し上げたように、個人主義的社会であったところ、それに加えて、法の支配が確立した自由主義的社会であり、最初から資本主義的社会でもあったことから、個人の創意が十二分に発揮され、ために、社会が豊かで戦争にも強かったからです。
 米国は、できそこないではあっても、このような文化をイギリスと共有している上に、イギリスよりもはるかに広大であり、人口においてもイギリスを抜いた後、海外にも進出を図り、ついには、米国は、イギリスから20世紀に覇権国家の地位を奪取し、現在に至っているわけです。

 7 要するに、米国は人種主義的帝国主義的なイギリスだということですね。

 そのとおりですが、もう一つ、米国がイギリスと異なる点があることを忘れてはなりません。
 イギリス的生活様式と言ってもよい資本主義を初めて学問的に解明しようとしたスコットランド人のアダムスミス自身、決して市場原理主義者ではありませんでしたし、イギリス自体も必ずしも市場原理主義的な社会ではありませんでした。

 (アダムスミスについては、以下のとおり。
・・・Smith published The Theory of Moral Sentiments in 1759・・・. This work was concerned with how human morality depends on sympathy between agent and spectator, or the individual and other members of society. He bases his explanation ・・・on sympathy.・・・
 Adam Smith's advocacy of self-interest based economic exchange did not, however, preclude for him issues of fairness and justice. ・・・
 ・・・Smith・・・used <the term> 'political economy' ・・・
 また、イギリスについては、第一に、イギリスは、「1563年から1601年にかけて救貧法(Poor Law)が制定され・・・、それとほぼ同じくして、1597年から1601年にかけて慈善法(Charitable Uses Act)も制定され」たという人間主義的な社会(コラム#1577。#54、601、1212も参照)である上、第二に、経済の面でも、例えば19世紀において、市場原理主義的に運営されたのはイギリス本国内及びイギリスと大英帝国以外の地域との間だけであり、全体として世界人口の4分の1をしめた大英帝国中の植民地経済はもっぱら本国経済に奉仕させられており、このような世界秩序は、イギリス海軍、すなわちイギリス政府によって維持されていた。
(コラム#3711))

 これに対し、米国人は、市場原理主義的なのです。
 そもそも米国人は、当初はもっぱらイギリスから、基本的に権力や他者の介入を嫌って北米大陸に渡ってきた人であり、しかも、危険を冒すことを厭わない人々でもありました。
 このことは、その後、欧州各地から、更には世界各地から様々な民族の人々が米国にやってくるようになってからも変わっていません。
 そのため、米国は、最初から、市場原理主義的であり投機的な社会であったのです。

 米国には、イギリスでは使われていないものも含め、「争奪者(scrambler)、博打打ち(gambler)、常習的軽犯罪者(scofflaws)、或いは投機者(speculator)等、詐欺にまつわる言葉が多いことをご存じでしょうか。
 博打打ち的人物が群れ集う米国は、論理必然的に、永久革命、或いは恒常的に流動的な社会になったのです。これを良く言えばシュンペーターの創造的破壊の社会であり、悪く言えば創造的腐敗の社会なのです。
(コラム#306、#307)

 ところで、市場原理主義は欧州には見られないではないか、という指摘が予想されるので一言。
 市場原理主義は、演繹的、合理論的思考、すなわち欧州的思考の産物であるという意味で欧州的であると言えますし、欧州各国では、経済こそこれまで市場原理主義的であったことはないけれど、スイスのワルラス、オーストリアのハイエク、同じく上出のオーストリアのシュンペーターらは、それぞれかなり異なっているとはいえ、広義の市場原理主義的方法論ないしは世界観を共有していたところです。
 これらの経済学者の強い影響の下で、戦間期から戦後にかけて、米国で市場原理主義的経済学が花開き、いわば、これが米国の公定イデオロギーになるのです。
 その象徴たる存在が故レーガン大統領です。

 日本ではあまり知られていませんが、米国に亡命したユダヤ人であるアイン・ランド(AYN RAND)は、この公定イデオロギーを小説の形で米国の大衆に普及させた有名な人物です。
 亡くなってから随分経つというのに、いまだに彼女の小説はベストセラー並みの売れ行きを続けています。
(コラム#3632、3634、3636)

 (19世紀の市場原理主義と18世紀の啓蒙主義は、先進国イギリスにコンプレックスを抱いていた欧州の各国の知識人達が、それぞれ、誤解ないしは曲解に基づき、イギリスの資本主義やイギリスの自由主義を理想視し、純化し、原理主義化することによって、実践的、あるいは理論的にイギリスを追い抜こうとしたむなしい試みであり、その意図せざる結果として、どちらも、世界中に多大の惨禍をもたらした、というのが私の考えです。(コラム#3711))

 サッチャーらを通じてイギリスまで、この市場原理主義にかぶれてしまい、市場原理主義が一時アングロサクソン世界全体を席巻し、世界に大きな影響・・例えば、ロシアにおいては国家破綻寸前の状況をもたらし、日本においては小泉旋風を巻き起こした・・ことはご存じでしょう。
 英国においては、メッキされた市場原理主義がすぐに剥がれ落ちたのに対し、米国においては、市場原理主義こそ国是であってニューディール時代は逸脱期であるという認識がいまだに根強く残っています。
 (コラム#3636)

 さすがに1960年代に至って、米国は、人種主義的帝国主義イデオロギーの方は克服し始め、2008年には、このイデオロギーの下ではおよそ考えられなかった、黒人の大統領の選出というところまでこぎつけたことはご承知のとおりですが、9.11同時多発テロを受け、対テロ戦争を遂行する過程で、米国が、今度は、市場原理主義に立脚した米国流のファシスト国家化の兆候を見せた・・人権の蹂躙が横行する国になった・・ことは記憶に新しいところであり、米国が、人種主義的帝国主義に代わって米国流ファシズムに染まるようなことがないか、我々は、常に警戒の念をもって、米国を見守っていく必要がありそうです。
 この点は、もう一度最後で触れます。
 (コラム#3694等)

 8 日本は独立国家ではないのですか。日本が属国であるとはどういう意味なのでしょうか。

 英語版のウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Protectorate
は、「保護国(protectorate)とは、主権国家<等の>・・政治的存在(political entity)が、宗主国(protector)と称されるより強い国家と公式に条約によって不平等な関係を取り結び、この宗主国が外交的にあるいは必要に応じ軍事的に、この政治的存在を第三国等から守ることを約束し、その見返りとして、この政治的存在が宗主国に対し、両国の関係の実態に応じ大いに異なるところの、特定の諸義務を通常負うものを指す」としており、この保護国を日本、宗主国を米国、条約を日米安保条約と読み替えれば、ぴったりあてはまることがお分かりいただけると思います。
 米国の保護国日本が、宗主国にいかに「搾取」されているか挙げてみましょう。
 まず、日本の首都圏は、米国の他の同盟国では考えられないことですが、米軍の基地だらけです。しかも、首都圏の空域の航空管制権は米軍がほぼ全面的に握っています)。

 (米国の同盟国であるドイツの首都ベルリン圏にも、同じく同盟国である英国の首都ロンドン圏にも米軍基地はない。あの38度線近くの韓国の首都ソウルからさえ、米軍の移転が決まっている。
 ところが、日本の首都圏には、東京の通勤圏内に在日米軍司令部、陸軍司令部、海軍司令部(原子力空母配備)、及び空軍司令部等の米軍基地がある。)

(続く)