太田述正コラム#3748(2009.1.4)
<映画評論0(その5)>(2010.2.4公開)

3 『アバター』論

 (1)序

 『2012』に引き続いて鑑賞した『アバター』、前者とは対照的と言っていいほど単純なテーマの映画だったので、評論することあんましないのですね。

 (2)『アバター』と科学技術

 『2012』については、そのパンフレットで作家の藤崎慎吾が言っているように、「この映画では「惑星直列」という現象が太陽の活動を活発化させ、電子レンジのスイッチを入れることになっている。しかし、<惑星が直列するような>・・・ことは、過去にも将来にもありえないそうだ。・・・また個々の惑星の引力などたかが知れており、・・・たとえ<直列した>としても、・・・太陽を活発化させることはないはずだ」というのですから、科学的にはありえない設定の話になっているのに対し、「『アバター』で描かれる世界は、すべて科学的根拠がある」(コラム#3741)ということのようです。                                         
 だけども、そんなこと、この種のファンタジー映画の場合、どうでもいいではないか、と私は思います。

 この映画のウリは、何と言ってもそれが、長編としては初の3D映画であるところにあります。
 「アバターは今までの飛び出してくる3Dではなく、ファンタジー空間の奥行きを極限まで持たせると言う、前ではなく奥の3D空間の活用という技術的な側面での映画の革命作品」(コラム#3745。ΘΘΒΒ)です。
 しかし、肝腎のこの点についても、私はほとんど感銘を受けませんでした。
 2Dの『2012』のCG映像も3Dの『アバター』のCG映像も大差ない印象を受けたからです。
 なお、鑑賞時に手渡される3Dメガネは、そのままお持ち帰りなんですね。
 同じ方式による3D映画をまた鑑賞する機会が来ないと資源の無駄になってしまいます。

 ちなみに、『アバター』には、後2つ、大きな技術革新が反映されています。

 一つ目は、キャメロン監督が、ドキュメンタリー作品『ジェームス・キャメロンのタイタニックの秘密』(2003年)において使用するために、ソニーの協力の下に開発した小型の3D高画質小型カメラ・・後にフュージョン・カメラと名付けられることになる・・を『アバター』撮影の際に駆使したことです。
 そして、二つ目は、ゼメキス監督が確立したパフォーマンス・キャプチャー(コラム#2269)を、キャメロン監督は、「さらにヘッドセット式の小型カメラを俳優1人1人に取り付けて、顔の微妙な表情まで精密に記録した。このシステムは演者の感情まで拾えるということから、エモーション・キャプチャーと呼ばれている。・・・こうして、エモーション・キャプチャーで取ったデータを元に描かれた・・・衛星パンドラの先住民・・・ナヴィたち<(コラム#3741)>の演技は、CG俳優であることを忘れさせてしまうくらいに自然なものになっている」ものへと発展させたことです。
 (以上、『アバター』のパンフレットによる。)

 (3)『アバター』のテーマ
 
 米スレート誌系列の電子雑誌に載っていた『アバター』評で、この映画は『ダンス・ウィズ・ウルブズ』と『ラスト・サムライ』との私生児であると形容しているものがありました
http://www.theroot.com/buzz/avatar-dances-wolves-v-20
(1月2日アクセス)。
 また、村上龍のメルマガで冷泉彰彦は、「『風の谷のナウシカ』+『もののけ姫』+『ダンス・ウィズ・ウルブズ』+『ラスト・サムライ』といった過去の映画へのオマージュの集大成」と記していたところです。(典拠省略)
 更に、読者(βΗβΗ)が紹介してくれたライムスター宇多丸(コラム#3745、3747)「師匠」は、『ポカホンタス』もあげてましたね。
 彼によれば、『アバター』は、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ラスト・サムライ』や『ポカホンタス』の「白人酋長もの」の類型に基本的に属する映画で、これにキャメロン監督の過去作の諸類型がオーバーラップしているという代物なのだそうです。
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20091226_hustler_2.mp3
 「そうです」にとどめざるをえないのは、私、「師匠」ほど映画見てませんのでね・・。
 この「師匠」に言わせれば、キャメロン自身が、この映画のウリは技術的な新機軸にあるのであって、テーマは通俗的なものにあえてとどめた的なことを言っているというのですから、話はそこで終わりでしょう。
 とにかく、何とまあ、陳腐極まる筋、テーマであったことよ、という印象です。

4 終わりに

 私の結論は、どちらもCGを駆使した大スペクタクル娯楽映画であるけれど、『2012』の方が『アバター』よりはるかに映画としての質が高い、というものです。
 ただし、前者はテーマが高度すぎて、というか、米国人は前者のテーマが分からないかあえて分からないフリをするであろうことから、また、後者は米国人にとってもテーマが類型的にして陳腐過ぎるものであることから、どちらも、アカデミー賞の作品賞の対象にはならない、という予感がします。

(完)