太田述正コラム#3742(2010.1.1)
<映画『太陽』について>(2010.2.1公開)

1 始めに

 これは、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を、私が映画評論の対象にしないこととした理由を記したコラムです。

 対象にしていたならば、これがかつて公開された映画である上に、現在ネット上で公開されている
http://www.nicovideo.jp/mylist/2949500
ので、ネタバレを心配する必要が全くないことから、無料コラムとしてその評論を書くつもりでしたが、評論の対象にしない理由などというものは、評論ではありませんし、かつそんなものは、ディスカッションシリーズや過去・現在・未来シリーズにはなじまないことから、非公開コラムとすることにしたのです。
 そういうものだって一種の評論ではないか、と言われる方もおられるでしょうが、例えば、一読者から必ず読めと言われた『『太陽』オフィシャルブック』
http://www.bk1.jp/review/440927
をわざわざ読むまでもないと判断した以上は、本来の評論たりえない、というのが私のスタンスです。

2 評論の対象としない理由

 私は歴史小説を否定するつもりはありませんし、歴史小説的映画を否定するつもりもありませんが、問題は、それがドキュメンタリー的フィクションなのかフィクション的ドキュメンタリーなのかです。
 前者であれば、それは娯楽作品に徹していなければならないし、後者であれば、作者は、歴史解釈のもっともらしい斬新さで作品に接する人々をうならさなければならない。
 例えば、司馬遼太郎の歴史小説は後者の部類に属します。
 歴史家の立場で、一定の史観に則り、史料の欠缺を想像で補っているという意味で、司馬作品は、フィクション的ドキュメンタリーなのです。
 私は、司馬の史観に根本的に異論があり、従って彼による史料欠缺の補い方にも不満たらたらですが、それは別の話です。
 ところが、この映画は、昭和天皇とマッカーサーが会見するまでは、かろうじてフィクション的ドキュメントとは言えても、会見以降は、史料が存在するにもかかわらず、監督がそれに真っ向から背馳する、自由奔放過ぎる想像、というか創造をしていることから、全体としてはドキュメンタリー的フィクションであると言わざるをえません。
 ところがこの映画、娯楽作品の要素などほとんどない堅苦しい内容なのですから、あえて失敗作と言わせてもらいます。

 どういうところが、自由奔放すぎる想像、すなわち創造なのか。
 具体的には、まず第一に、天皇が日本側通訳すら抜きで、全く二人きりでマッカーサーと会談する光景が出てくることです。
 天皇は、マッカーサー在任中に彼と都合4回会談していますが、私の知る限り、通訳抜きで会談したことはありません。
 この典拠↓だけでも、1回目と4回目に同席した通訳(同一人物)の話が出てきます。
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_6_3.htm

 そもそも、映画中の天皇のように、昭和天皇が闊達極まる英語がしゃべれたとは到底考えられませんし、百歩譲って仮にしゃべれたとしても、昭和天皇ほどの当時の日本の最高の知識人の一人が、外国人との重要な会談で通訳を介さない愚行を犯すはずもないからです。
 第二に、天皇が、この映画でのように、「原爆投下は獣(beast)の所業だ」などと、マッカーサーを怒らせかねないアブナイ言を口にしたはずがないことです。
 天皇は、巧まずして最善の言動を行い、一回目の会談で、完全にマッカーサーを籠絡してしまいます。
 そこのところが、この映画ではきちんと描かれていません。
 有名なくだりですが、マッカーサー自身の言↓をひいておきましょう。
 
 「「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」
 私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。」
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_6.htm

 それもそのはずであり、私がこれまで何度も申し上げているように、歴代の天皇のDNAには天皇制の一千数百年にわたる存続を可能にしてきたパワーが宿っているのであり、このパワーによってマッカーサーは手もなくひねられてしまったということです。

 第三に、これが決定的なのですが、最後の部分で、監督が、いわゆる天皇の人間宣言について、その発出を天皇が希っていたなどという、天皇自らが語っている事実を真っ向から否定した珍解釈を打ち出していることです。
 天皇自身の言は次のとおりです。

 「・・・昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、急遽GHQの許可を得て加えられることになった。天皇は・・・1977年8月23日記者会見<時>に、「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す 必要が大いにあったと思います。」・・・と語っている。・・・」(コラム#2973)

 天皇が本当のことを語っていると私が信じる理由は、私自身が、大昔に母親との間で人間宣言が話題になった時、彼女が、「人間宣言ってわけ分からないわ。誰も天皇が神だなんて思っていた人なんていなかったんだもの」と言ったことを鮮明に覚えているからです。

 この映画では、侍従が天皇を現人神だと口にする場面が最初の方に出てきますが、日本人の中には例外的に素っ頓狂な人がいた可能性はあるので、これくらいは監督の想像を許そうと思いましたがね。

3 終わりに

 監督が、「ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座』に続く20世紀の指導者を描く4部作の3作目」ということではあっても、舞台が全くの第三国の映画、しかも、「セリフは全編日本語と英語」の映画をつくった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
ことには、率直に敬意を表さざるをえません。
 また、日本には天皇を描くことへの禁忌、躊躇があるところ、「一人の人間としての昭和天皇のプライベートがコミカルさ、シリアスさを交えて描写された」(ウィキペディア上掲)ところが、日本人の一部がこの映画に惹き付けられた理由でしょう。

 しかし、「…世界には人類の文明を守る番人のような国が二つある。それがイギリスと日本だと思うんです。…」、「世界には未成年国家が二つある。一つは<日本のような>早熟なませた子供で、もう一つはいつまでも成長しない子供です。それがアメリカとロシアです」と対談の中で語るソクーロフ監督
http://www.bk1.jp/review/440927 上掲
が、日本人の中でも最も早熟でませた人物の一人であった昭和天皇が未成熟も甚だしいマッカーサーを手もなくひねる様を描かず、あろうことか、そのような人物が日本国民(の多く)が自分を現人神と信じていると思い込んでいた様子を描くなど、矛盾も甚だしいのではないでしょうか。
 恐らくは、対談の中での上記発言は、監督の真意ではなく、単に対談相手たる日本人へのリップサービスだったのでしょうね。
 こういうわけで、この映画をニコニコで鑑賞し終わった時、不毛な時間を過ごしたとの思いから、ひどい疲れを感じた次第です。
 この映画を推薦された諸君のご意見をぜひうけたまわりたいものです。