太田述正コラム#3533(2009.9.19)
<イギリス貴族(その2)>(2010.1.28公開)

 (3)17世紀以降

 「・・・17世紀の内戦で、貴族達が貴族達(の時には同じ家族)と角突き合わせた。・・・
 この内戦についての最近での一番重要な本であるジョン・アダムソン(John Adamson)の『貴族の反乱(The Noble Revolt)』では、この戦争は、貴族達による一種の政治的クーデターとして始まったと主張されている。・・・
 1688年の「名誉革命」によって、この国はまことに英国的なアンシャンレジームを確立した。
 何と彼等は、あらゆる権力の操り糸の大部分が大土地所有者たる自分達貴族よって操られているというのに、自らを民主主義的、議会主義的、そして理性的(rational)にして進歩的だと宣言したのだ。
 ジェームスが言うように、18世紀を通じて、貴族達は公共生活において驚くほどの栄誉を享受した。
 彼等は政府を支配(dominate)しただけではない。
 彼等はまた、下院の議席の多くを支配していたのだ。
 ポケット選挙区(pocket borough)(注2)は、彼等の間で途方もない金額で売買された。

 (注2)有権者の数が少ないため、一人の大土地所有者が実質的に支配することができる選挙区。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Rotten_and_pocket_boroughs
 
 1780年代頃には貴族によって<下院の>200に及ぶ選挙区が所有されており、彼等は下院の全議席の約40%を掌握していた。
 同時に、言うまでもないことだが、貴族達は、彼等自身の専用の上院を持っていた。
 これが、貴族階級と中産階級の一つの大きな違いだったのだ。・・・
 ・・・貴族と言えば昔から狩猟、射撃、そして釣りだが、それには、大土地所有者達にすべての獲物に係る権利を与えた厳格なる獲物諸法(Game Laws)によって支えられた社会的伝統があった。
 そして、貴族達の競馬と拳闘に対する情熱の背後には常にもう一つの強力な要素があった。
 賭博だ。
 これが貴族の男達に彼等の異常なまでの富と、それを失った時の彼等の更に異常なまでの沈着さを見せびらかす機会を与えた。
 ・・・そう。
 貴族達は、<時代の進展とともに、貴族ならぬ>上流中産階級の社会的地位の行動規範(code)をいやいや採用した。
 しかし彼等は、芝生の上と田舎において、荒々しい側面を維持し続けた。
 それにより、彼等は、都市の中産階級が逆立ちしたってかなわない、共感(と敬意)に支えられた紐帯を労働者階級との間に持ち続けたのだ。・・・」(A)

 「・・・英国の貴族達は、びっくりするほどの政府と憲法上の権力(clout)、更には象徴的な影響力を持ち続けた。
 貴族達は、国家の最高の官職に座り続けたのだ。
 より重要なことだが、ジェームスによれば、時たまの反動的な不穏当な言葉(blip)を除き、彼等は一般的にこの国を実際的(pragmatic)かつ重商主義的(mercantile)な方向に導いて行ったのだ。
 それと同時に、彼等は、その万古不易の(plus ca change)スポーツ、狩猟及びカントリーハウスに対する、そしてしばしば尊敬されるところの芸術パトロンに対する、ほとんど強迫観念によって、社会の基調を設定した。
 これに加えて、彼等は諸植民地における貴族カーストを養ない育てたのだ。
 彼等のこの全盛期は、ホイッグ貴族が繁栄した時期とたまたま合致していた。
 その長い歴史の中で、グレイ伯爵(<Charles >Grey<, 2nd Earl Grey。1764〜1845年>)(注3)、ジョン・ラッセル卿(John Russell<, 1st Earl Russell。1792〜1878年>)(注4)、そしてミント第二代伯爵(<Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, >2nd Earl of Minto<。1782〜1859年
http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Elliot-Murray-Kynynmound,_2nd_Earl_of_Minto (太田)
>)(注5) らは、反動的色彩を帯びていたが、それはどちらかというと通例ではなく、例外だった。

 (注3)ホイッグ党の首相(1830〜34年)。1832年に(下院)改革法を成立させ、1833年に大英帝国全土の奴隷解放を実現。しかし、その後保守化した。アールグレイ紅茶は彼の名前をとったもの。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Grey,_2nd_Earl_Grey
 (注4)ホイッグ党及び自由党の首相(1846〜52年、1865〜66)。最初の首相の時にアイルランド大飢饉が起こったが、適切な対策がとれなかった。孫に哲学者のバートランド・ラッセルがいる。大卒の首相としては、オックスブリッジ卒でない5人のうちの1人。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Russell,_1st_Earl_Russell
 (注5)ジョン・ラッセル卿の岳父。海軍卿(First Lord of the Admiralty)を経て、ラッセルの最初の首相の時の国璽尚書(Lord Privy Seal)(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Elliot-Murray-Kynynmound,_2nd_Earl_of_Minto
 より典型的な貴族は、例えば、悲観的保守主義者たるソールズベリー卿(<Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of >Salisbury<。1830〜1903年>)(注6)のような人物だった。

 (注6)保守党の首相(1885〜86年、1886〜92年。1895〜1902年)。20世紀最初の首相であるとともに、上院議員たる最後の首相でもある。アイルランドで農地改革を実施した。第二次世界大戦直後に労働党の首相となったクレメント・アトリー(Clement Attlee。1883〜1967年)は、ソールズベリーが自分の生涯で最高の首相だったと評している。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_3rd_Marquess_of_Salisbury

 彼は、「何が起ころうと悪い方へ行く」ことを信じていた。・・・」(B)

3 終わりに

 事柄が事柄だけに、書評が例によって韜晦的に書かれていますが、私なりに総括すれば、貴族のエートスがイギリス(英国)の全臣民のエートスの模範となり、貴族がイギリス固有の自由主義を次第に全イギリス臣民に享受させるという意味でのイギリスの進歩の担い手となったということです。
 これは、11世紀に征服者としてノルマンディーからイギリスに渡来した彼等貴族が、イギリス(アングロサクソン)に魅了され、取り込まれ、やがては彼等がイギリスの精髄となった、という世にも不思議な物語であると言えるでしょう。
 やはり、イギリスには階級は存在しない、とご納得いただけたでしょうか。 

(完)