太田述正コラム#3511(2009.9.8)
<チャーチルの第二次世界大戦(その2)>(2010.1.24公開)

3 チャーチルがよくやった点
 
 「・・・他方、チャーチルは、先の大戦の勝敗に関わるような過ちは犯していない。
 彼は、比類なき戦略的見識を持っていた。
 ほとんど最初から、彼は、ヒットラーが「東方に後ずさりする」と予測していたし、彼はまた、米国をこの紛争に「引きずり込む」ことを提案していた。
 そして、彼の反ボルシェヴィキ感情にもかかわらず、彼は、ドイツがソ連に侵攻した時、スターリンを抱擁した。
 もっとも、日本が真珠湾を爆撃しなかった場合に、チャーチルのローズベルトへの求愛が米国をして戦争の決意をさせていたかどうかは疑問符がつく。
 ただし、<米国が参戦してからは、>チャーチルは、<英米という>大西洋両岸<の二つの国>が、<日本ではなく、>ドイツに優先的に対して注意を集中することに関し、枢要なる役割を演じた。
 また、Dデーを1944年まで遅らせることによって、彼は赤軍に大部分の戦闘を行わせることができた。
 もっとも、その結果、共産主義者達が東欧を支配することになったわけだが、これをチャーチルは防ぐことはできなかった。
 それでも、彼は、<ローズベルト、スターリンと並ぶ>「三大巨頭」の一人であり続けた。
 英国ライオンが米国バッファローとロシア熊に比べれば小人になってしまっていたにもかかわらず・・。・・・」(B)

 「・・・1940年5月に首相になった時点でのチャーチルの、最初の枢要なる勝利は、ドイツの電撃戦によってフランスが崩壊したという状況の下で、英国に戦争を継続させたことだ。
 先行きどうなるかの思案にくれて、外相のハリファックス(<Edward Frederick Lindley Wood, 1st Earl of> Halifax<。1881〜1959年>)卿のような閣僚達は、ヒットラーと交渉して平和を取り結ぶべきだと考えた。
 (彼の<書いた>『大戦回顧録』には出てこないが、)チャーチルは、彼が「非合理的なまでに非妥協的である」ように見えるとして、これらの宥和論者達が彼を追放するかもしれない、ということを主たる理由として、この提案について<、したくなかったにもかかわらず、>議論をした、とヘースティングスは、正しくも述べている。
 しかし、彼の戦い続けることへの決意はゆるがなかった。
 彼は、ハリファックスをできる限り早期にお払い箱にし、第三帝国<(=ナチスドイツ)>がソ連とだけ戦えばよいという状況を生むような、ドイツとのいかなる取引も拒否した。
 歴史家の中には、ドイツとソ連に互いに破壊あいをさせておれば、チャーチルは大英帝国を救うことができたかもしれない、と主張する者がいる。
 ヘースティングスは、反駁できないように、ヒットラーと取引することは大失策であっただけでなく犯罪でさえあったと切り返す。
 彼自身にとって、そして同時に彼の国にとって、チャーチルが最も大きな業績をあげたのは、彼自身の勝利への意思によって、国民を鼓舞し、その軍隊を活性化させたことだ。
 彼は、前者については、当然のことながら、英語を総動員し、それを戦闘に活用したことによってなしとげた。
 後者については、ドイツ空軍のバトル・オブ・ブリテンにおける失敗にもかかわらず、かつまた、ワヴェル(<Archibald Percival >Wavell<, 1st Earl Wavell。1883〜1950年。後元帥>)大将のその年末におけるアフリカでのイタリアに対する累次の成功にもかかわらず、より困難なことだった。
 これは、大混乱下で行われたダンケルクとブルターニュからの撤退が示したように、英軍はドイツ軍に、そして後には日本の部隊にとてもかなわなかったからだ。(後述)
 ヘースティングスは、屈辱的な詳細さで、アホな将校達の、<第一次世界大戦の時の>ソンム(Somme)<の戦い>(注4)の記憶に引きずられた様々な欠点、及び、訓練も装備も劣悪だった兵士達の様々な欠点、を暴露する。

 (注4)Battle of the Somme。1916年の7月11月にかけて行われた、北フランスにおける、連合軍のドイツ軍前線に対する大攻勢。双方合わせて150万人以上の死傷者が出たが、連合軍側の方が損害が大きく、作戦目的も達成できなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Somme

 そして彼は、チャーチルが、精力、想像力、そして喧嘩早さの全てを用いて、英国の「不活発な軍事文化」の下で勝利を抽出することに成功したのは、たまにしか過ぎなかったことを示す。・・・」(B)

 「・・・ダンケルク<からの撤退>以降は、<英国の>支配階級のメンバーの少なからぬ者達が、唯一の理性的方策は、<ドイツと>和平をとり結ぶことだと考えた。
 社会構成の下層の人々の中にも若干の敗北主義がみられた。・・・
 英海軍省の作戦課長のラルフ・エドワーズ(Ralph Edwards)大佐は、<1940年>7月23日付の日記に、「あの白痴のウィンストンがその掌にあるところの、我が内閣は、24時間ごとに考えを変える…私は急速に、我々は、余りに無能であるため、勝つことができないどころか、負けることはほとんど確実だという結論に達しつつある。我々は、常に何事もきちんとできない」と記している。
 ・・・チャーチルは、英国の目も当てられない窮状について知り過ぎているために戦争を止めたがっている人々の頭越しに、数百万人の普通の英国の人々に呼びかけた。
 大衆を奮起させて、彼等にその運命に関する叙事詩的な認識を抱かせたのは、チャーチルの至高の個人的業績だった。・・・
 逆説的に言えば、チャーチルにとっての戦略的諸問題は、本当のところ、1940年の危機が終わり、バトル・オブ・ブリテンに<英国が>勝利した後に始まったのだ。
 英国は、次に何ができるのかが問われたからだ。
 もし英国が単に沿岸防衛に人員を充当するだけのことしかしなかったとすれば、米国の世論はもとより、英国の一般国民の士気は萎えてしまっていたことだろう。・・・」(A)

 「・・・チャーチルは、その人道的本能にもかかわらず、へースティングが呼ぶところの「爆撃機による攻勢のまごうことなき過剰」について見て見ぬふりをした。・・・」(B)

(続く)