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太田述正コラム#3505(2009.9.5)
<第二次世界大戦前夜(その1)>(2010.1.21公開)

1 始めに

 これまでのシリーズでは、先の大戦全体を描いた最新の本の紹介をしてきたわけですが、ずっと以前に(コラム#400)登場したことがある、オックスフォード大学の歴史学教授のリチャード・オヴァリー(Richard Overy)が、その開戦前夜を描いた '1939: Countdown to War' が、たまたま上梓されているので、書評↓をもとに、その内容の概要をご披露したいと思います。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/7c228fec-9362-11de-b146-00144feabdc0.html
(9月2日アクセス。以下同じ)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2009/aug/30/1939-countdown-to-war- overy
C:http://www.newstatesman.com/books/2009/08/british-war-poland-hitler
D:http://www.express.co.uk/features/view/123293
E:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6733178.ece?print=yes&randnum=1251872798765 
(↑は、Andrew Roberts, The Storm of War A New History of the Second World War の書評を兼ねている)

 「<この本は、英国の首相の>ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)が対独宣戦布告するまでの10日間に何が起こったかを記している。・・・」(D)
 「リチャード・オヴァリーは1947年に生まれ、ケンブリッジで学んだ。
 この大学で1979年まで歴史を教え、1979年にはロンドンのキングス・カレッジの近代史の教授になった。・・・
 彼は、現在、エクセター(Exeter)大学で歴史学教授をしている。」(E)

2 序

 1914年8月に英国がドイツに宣戦布告した時は、<国中が>愛国的熱情で沸き立っていた。
 <当時の>閣僚の一人の私設秘書は、首相官邸の前に数千人に人々が「群れ集って」浮き立って叫んだり歌ったりしていた、と回想している。
 <ところが、>1939年9月の雰囲気は異なっていた。
 英国は諦念の下に戦争を開始した。
 とうとう、もはや疑問や良心の呵責に襲われることがなくなったことに開放感を覚えて・・。
 <ハンプシャー(Hampshire)にいた>ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)は、「超然として平静」であり、熱意は感じなかった。・・・」(C)
 「・・・オックスフォードにいたペネロープ・モーティマー(Penelope Mortimer)は、彼女の父親が、瞬間的に「青年に戻ったように見え、いつでも戦える様子」であることを見て取った。・・・」(B)

2 チェンバレンの心中

 「通俗的歴史観は、当時の首相のネヴィル・チェンバレンとその取り巻きは、最後まで宥和主義者であり続けたというものだ。
 彼等は、最近時点では、その8月25日に、ポーランドの独立を保証した<(下述)ばかりだった>けれど、ドイツ軍部隊が侵攻を開始したというのに、何とか<参戦を>逃れる道を探した。
 そして、(労働党首のクレメント・アトリー(Clement Attlee)は手術を受けて回復中だったところ、)同党の党首代行のアーサー・グリーンウッド(Arthur Greenwood)の下院演説に鼓吹された愛国的で名誉ある下院議員達によって、彼等は戦争へと駆り立てられたということになっている。
 この演説が始まる直前、保守党の陣笠議員のレオ・エイマリー(Leo Amery)
が、「イギリスのために話せ、アーサー」と叫んだものだ。
 オヴァリーは、以上のような通俗的な見方を<真っ向から>否定する。
 彼は、チャンバレンは、彼がポーランドと交わした約束を反故にするつもりなど一度としてなかったと主張する。
 <彼によれば、>チェンバレンは、依然として平和を欲してはいたけれど、ヒットラーが3月にチェコスロヴァキアを占領した・・チェンバレンはこれを個人的背信行為であると見た・・時、宥和政策を諦めていた。
 彼は、今度は、抑止が働いて欲しいと思っていた。
 毎度のことではあるが、政治家達が欲していたものを見つけるために、諜報資料が精査された。
 ヒットラーは、ナチスとソ連の<不可侵>条約<の締結>により、<ポーランドに侵攻しても>東方からの対抗措置がなされないこととなった直後の8月26日に戦争を始めようという考えだった。
 しかし、ヒットラーは逡巡した。
 その前日に英国とポーランドとの間の条約が締結された衝撃のためだ。
 だから、恐らくヒットラーは引き続き逡巡するだろう、と<いう希望的観測が行われた>。
 報告書のうちのいくつかは、ドイツ経済が困難に陥っていることを示唆していた。
 ヒットラーは政治的脅威に直面しており、悪くすると<ドイツで>食糧暴動が発生するかもしれない、と。
 英国の諜報機関の幻想の中では、ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goering)が、およそありえない話だが、クーデターを起こして、平和志向派を<ドイツの>権力の座に就ける可能性が取りざたされていた、という具合だ。」(C)

3 ヒットラーの心中

 「このような楽観主義は、全く見当違いだったというわけではない。
 ヒットラーは、大きな戦争ではなく、小さな戦争を欲していた<(後述)>からだ。
 彼は、オヴァリーが言うように、「世界征服のための計画や青写真」を持っていなかった。
 彼は、欧米の主要国が行動をとらないという見解の下にポーランドに侵攻したが、この見解には若干の裏付けがあった。
 というのも、英国もフランスも戦争を嫌悪しており、非公式の平和仲介者(peace feeler)たる、スウェーデンの実業家のビルガー・ダーレルス(Birger Dahlerus<。1891〜1957年>)のような人物が、外交官きどりで活動していたか
らだ。
 オヴァリーは、豊富な証拠を用いて、<ここでも>説得力ある議論を展開している。
 とはいえ、<オヴァリーは、>いささか小事にこだわり過ぎ、推測のし過ぎをしている。
 もしヒットラーがチャンバレンを首脳会談に招いていたなら、もう一回ミュンヘン<会談の合意ようなもの>が得られていたかもしれない。
 しかし、ヒットラーもまた、その一年前に比べれば、<英国と>取引をする気持ちが薄れていた。
 というのも、ミュンヘン<会談の合意>は、英国にとって恥の素だったが、ヒットラーにとっても面目を失わせるものだったからだ。
 彼は、ドイツ国民が自分を軍事指導者(warlord)であると見てくれることを欲しており、少なくとも重武装したポーランドは、<ドイツ軍の侵攻に対して、>相当なる抵抗を行う展望を与えていたから<、その抵抗を排して侵攻を成功させることが、自分の軍事指導者としての威信を高めると思っていたの>だ。」(C)

(続く)

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