太田述正コラム#3485(2009.8.26)
<ローマ帝国の滅亡(続)(その3)>(2010.1.19公開)

 「・・・古代末(Late Antiquity)という観念の受容。
 この概念は、ほとんどたった一人で偉大な歴史家であるピーター・ブラウン(Peter Brown)によって確立されたものだが、それは、紀元300年から800年の間の期間は、<古代ローマ帝国領であった地域にとっては、>衰亡というよりは継続の時代であったというものだ。
 ローマの崩壊とは、古の古典的なローマの秩序が新しい地中海世界<的秩序>へと移行したということなのだと。
 これは、どんな生徒でもかつて知っていたこと、つまり、ローマ帝国が476年に倒れたということは、必ずしも正しくはない、という事実を反映している。
 ローマに仕えていたゲルマン人の将軍であるオドアケル(Odoacer<。435〜493年>)が、その年に西のローマ帝国の最後の皇帝であるロムルス・アウグストゥルス(Romulus Augustulus)(コラム#3440)を廃位させた。
 しかし、これは、単にイタリア半島におけるローマ人の長期にわたる大しくじり(debacle)の連鎖の一つに過ぎない。
 一番ひどい大しくじりがオドアケルとテオドリック(Theodoric<。454〜526年>)率いる東ゴート族(Ostrogoths)との493年に終わる5年間の戦いだった。
 その結果、<休戦の祝宴の席ににおけるテオドリック自らの手によるオドアケルの殺害を経て、>イタリア半島に(東)ゴート王国が樹立される。
 だから、493年の方が476年よりも重要なのだ。・・・
 オドアケルの王国も東ゴート王国も、<全イタリア半島に加えて>スペインとガリアのかなりの部分をも支配していたが、制度と理念の両面においてローマ的だった。
 この二つの王国は、東ローマ皇帝、すなわちコンスタンティノープルの属国であって、ディオクレティアヌス(コラム#3483)によって290年代に始められたところの、正と副の皇帝の間でローマの支配を分割するシステムの継続であると見ることができるのだ。
 536年に東の帝国・・ここで重要なことは、我々が彼等をビザンチン人と呼ぶのは勝手だが、彼等自身は自分達をローマ人以外のなにものでもないと思っていた・・の皇帝<ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus。483〜565年 )>は、イタリア半島の直接的コントロールを回復するための戦争を開始した。
 この戦争は20年間続いたが、それは、蛮族の侵攻がもたらしたよりも古典的ローマ文化に大きな荒廃をもたらした。
 この間、ローマ市に対する大包囲戦が三回あった。
 一回目は、一年以上続いた。
 ゴート側の指導者のヴィティゲス(Vitiges<。東ゴートの王。在位:536〜540年。東ローマが派遣した遠征軍司令官ベルサリウス(Flavius Belisarius。500?〜565年)の捕虜となりコンスタンティノープルで死亡>)は、ローマ市の偉大なる高架式水道の破壊を命じた。
 この結果、ローマ市民は、その後1000年間にわたって、水を悪臭ぷんぷんのティベル川から汲まなければならない羽目になった。
 毎日のローマ市民の生活と仕事の大きな部分を占めていたところの、公衆浴場も消えてしまった。
 これは、古典的ローマの終焉の象徴としては、ロムルス・アウグストゥルスの廃位よりも大きいことだ。
 こうして西の心臓部が再びローマ人の手中に帰したが、それは暫時のことに過ぎなかった。
 しばらくするとロンバルト族(Lombards)がイタリア半島において、ローマ人に代わって主要な勢力となった。
 そして、東ローマは拡張主義的なイスラム勢力との長期にわたる闘争を開始するのだ。
 これが古代末だ。
 それは、依然、ローマ的制度と理念が支配する世界ではあっても、もはやローマ人の世界ではなかった。・・・
 ピーター・ブラウン(前出)の先駆的業績であるところの、彼の『古代末の世界(World of Late Antiquity)』は1971年に出版された。・・・
 (ローマと米国とを比較する論者達は、ディオクレティアヌスによるローマの官僚機構の著しい肥大化とそれに伴う効率性の喪失に言及することを好む。)
 ローマ国家が皇帝を帝位簒奪から守り、皇帝を取り巻く一握りの人々を富ませることに集中した制度に堕して行ったことは事実だ。
 しかし、この議論は、細部に至るまで迫力があることは確かだが、ほんのちょっと東の帝国と比べただけで成り立たないことが分かる。
 というのは、その帝国は、西の帝国よりも一層非効率で更に石灰化した官僚機構を持っていたにもかかわらず、更に1000年間持ちこたえたからだ。
 東が持ちこたえたのは、その境界線が防衛しやすく、実際防衛できたからだ。・・・
 ピーター・ヒーザー(Peter Heather)(コラム#858)が明確に結論的に記したように、「5世紀において西の帝国が存続を止めた理由については、蛮族抜きには全く説明ができない」のだ。・・・」(E)

(続く)