太田述正コラム#3483(2009.8.25)
<ローマ帝国の滅亡(続)(その2)>(2010.1.18公開)

 「・・・要は、この内部抗争が帝国を最終的に殺したのであって、蛮族達は、単に刑の執行者に過ぎなかった、<というのがゴールズワージーの見解のようだ。>・・・
 18世紀に『ローマ帝国衰亡史(Decline and Fall of the Roman Empire)』を書いたギボン(Gibbon)(コラム#858、1768、2138、2882)は、単一の理由をあげることを拒否し、あらゆる可能性に言及しつつ、キリスト教・・ギボンは本質的に教皇主義(Papacy)が嫌いだった・・の到来が帝国を回復不能なまでに弱体化させたと主張した。・・・
 ・・・元老院は衰え、より多くの皇帝達が絶対的権力を握り、軍は政治権力の源泉となって行った・・・
 ・・・たまには、コンスタンティヌス(Constantine<。272?〜337年>)(コラム#413、1026、1761、2766、3475)とか<それより前の>ディオクレティアヌス(Diocletian<。244〜311年>)(コラム#413、858、2766)のような強力な皇帝が現れたが、これは希なことだった・・・
 ・・・この本が扱っている期間の大部分、ペルシャが帝国の東部に侵攻しているかローマがペルシャに侵攻していた。
 この両国の間では平和は長くは続かなかったのだ。・・・
 帝国の末期頃のローマ皇帝達は、自分の権力<を維持すること>が、自分の人々やその文化が生き残ることよりも重要だと考えるようになった。
 彼等は、どんどんローマ市と疎遠になった。(実際には、この期間の多く、ローマ市はもはや政府の中心ではなかったことから)物理的に、そして同時に文化的に・・。
 彼等が自分達自身をローマ人だと思っていたのはもちろんだが、そのことは実際には何の意味も持たなくなっていたのだ。・・・」(C)

 「・・・<ギボンの>『ローマ帝国衰亡史』の第一巻が上梓された1776年には、英国が北米植民地を維持する展望は洋々としていた。
 ところが、第二巻と第三巻が出た1781年までには、英国の大西洋両岸にまたがる帝国は、ヨークタウン<の英軍敗北>へところがり落ちつつあった。
 1788年には、北米人達は、最終の3巻を新しい国で読むことができた。
 この偉大なる英国の歴史家<ギボン>の筆致(tone)は、この間に一見明らかに変化したとゴールズワージー氏は言う。・・・
 狂った悪い皇帝達がいたことはもちろんだし、ペルシャ人達、ゲルマン人達、そしてガリア人達に対する戦役で敗北があったし、極端かつ非寛容な形でのキリスト教の押しつけもあった。
 260年には、皇帝ヴァレリアヌス(<Publius Licinius Valerianus=>Valerian(英語)<。200?〜260年以降>)の<エデッサ(Edessa)の戦いでのササン朝>ペルシャ<のシャプール(Shapur)1世(241〜272?年)>による捕虜化と死に至るまで続く幽閉<・・これは、彼がキリスト教徒を弾圧したことの報いであるという説が唱えられた・・>が起こった。
 決定的な戦闘としてしばしばあげられるのが、<ゲルマン人たる>ゴート族(Goth)が<東部ローマの>皇帝ヴァレンス(<Flavius Julius >Valens<。328〜378年>)とその軍勢中の約10,000人を殺害した、378年の、現在のギリシャ・トルコ国境でのアドリアノープル(Adrianople)の戦いだ。・・・
 <ローマ帝国の>滅亡が始まったのはいつなのか?
 ゴールズワージー氏は、最もよく引用されるところの、192年に引き続く4年間を生き生きと描写する。
 その時、ローマは、その背負っている責任とその指導者達の弱さに押しつぶされそうになってよたって歩いた。
 彼は、皇帝コモドゥス(<Lucius Aurelius >Commodus< Antoninus。161〜192年> )・・皇帝であった父親<のストア派哲学者たるマルクス・アウレリアス(Marcus Aurelius Antoninus Augustus。121〜180年)>の子供として次の皇帝たるべく生まれてきた最初の皇帝・・の殺害、及び彼のどうしようもない後継者達であるところの、父親が解放奴隷であったペルティナクサス(<Publius Helvius >Pertinax<。126〜193年。皇帝位にとどまることわずか86日>)、皇帝位を競売で競り落としたユリアヌス(<Marcus Didius Severus Julianus=>Julian(英語)<。137〜193年。皇帝位にとどまること2ヶ月余>)について詳述する。・・・」(D)

→聞き慣れない人名等が羅列されている、とげんなりされたかもしれませんが、欧州の人々にとってはもちろんのこと、アングロサクソンにとっても、ローマ史は、つい最近の日本人にとっての支那史のようなものであり、ちょっとしたインテリなら知っていることばかりです。
 そうである以上、我々としても、これらの人名等を覚え、親しんでおく必要があるのです。(太田)

(続く)