太田述正コラム#3479(2009.8.23)
<イギリス反逆史(外伝)(その2)>(2010.1.16公開)

 「・・・しかしながら、ウィルキスは、一般令状<が、令状の名宛人を特定しないことからそ>の違憲性<は免れない>と主張することで、広汎な大衆の支持を得た。
 そして、自分が書いた論考に関しては議員としての<不逮捕>特権があると主張して、ほどなく、下院に復帰した。
 それどころか、彼は、自分を逮捕した役人達を権利侵害(trespass)の廉で裁判所に訴えまでした。・・・
 <ところが、例の上院でウィルキスの韻文が読み上げられるという事件の後、貴族達、すなわち>上院議員達は、この韻文は猥褻で涜神的であるとして、彼を再び下院から追放する画策を始めた。
 そこで、彼は追放されたり裁判にかけられる前にパリに逃亡した。
 結局、彼は、1764年・・・に欠席裁判において、猥褻的名誉毀損と煽動的名誉毀損で有罪を宣告された。・・・
 <何度もあったことだが、借金の山を築き、パリでも債権者に追われる羽目に陥ったウィルキスは、仕方なくイギリスに舞い戻るが、>1768年・・・に・・・投獄されてしまう。
 しかし、彼の支持者達は、<その牢獄>の前に集まり、<抗議の声を上げた。>無防備のその彼等に対し、部隊が発砲し、7名が死に、15名が負傷した。
 ウィルキスは、ついに1769年・・・下院を追放となる。
 <それでも、彼は自分の選挙区から再選され、追放されるが、またも再選され、そしてまたも追放される。>・・・
 彼は1770年に出獄を認められ、ロンドン・シティーの役人(sheriff)に任命され、1774年には市長になる。・・・
 彼は同年、かつての選挙区からまたもや再選を果たす。
 彼は、北米植民地との戦争に反対した者のうちの一人だった。
 彼は、・・・宗教的寛容の推進者でもあった。
 彼の最大の業績は、一般令状を無効化し、議会が議会内での議論を公開・出版することを禁ずることを止めさせる<(後述)>法律の採択を実現することによって、出版の自由を保護したことだ。
 1780年以降は、彼がやや保守的になってきたと見られるようになったため、その人気は下降する。
 ゴードンの暴動(Gordon Riots)として知られる蜂起<(コラム#3467)>の時、ウィルキスは、攻撃する群衆からイングランド銀行を防衛する任にあった。
 そして、彼の命により、部隊は暴動者達の群衆に向けて発砲した。
 それまではウィルキスのことを「人民の人」と見ていた労働者階級は、それから彼を偽善者であると批判するようになった。
 また、彼の中産階級の支持者達は、この<群衆の>暴力的行為を目の当たりにして彼から離れてしまった。
 こうして、ゴードンの暴動は、彼の人気をほとんど吹っ飛ばしてしまったのだ。
 彼は、1784年にいつもの選挙区で下院議員に改めて当選したが、1790年の選挙の時には、余りの支持の少なさに、選挙運動の途中で降りてしまった。
 1789年のフランス革命は、イギリス内で議論を両極分解させてしまったが、ウィルキスは、フランスにおいて暴力的殺人が頻発したことから、反対論に与した。
 彼の立ち位置は、当時の多くの急進派とは違ったものであり、エドマンド・バーク(Edmund Burke<。1729〜97年>)のような保守的な人物により近いものだった。・・・
 北米植民地における英国の臣民達は、ウィルキスの軌跡を注意深く追跡していた。
 ウィルキスによる累次の闘争は、植民地人達に英国の憲法は腐敗した役人達によって堀崩されてしまっていることを確信させ、この観念が米革命の勃発に貢献した。
 こういうわけで、革命の後、代表者達は、新しい米国憲法の中に、議会が、正当に選ばれたいかなる議員についても<、その登院を>拒絶することができないとの条項、及び、逮捕のための一般令状を禁止する条項を設けたのだ。・・・」(A)

 「・・・<英国議会の議員経費問題(コラム#3286、3288)で>情報公開法(Freedom of Information Act)を議員の経費に適用することに議員達が抵抗したことは、議会政治の枢要なる原則・・すなわち、我らが代表達は公開の場で身を律しなければならない・・を拒絶したように見えた。
 実際のところ、公衆は、議員達が納税者達のカネを何に使っているかはもとより、彼等が何を議論しているかも知らなければならない、との観念は、昔から受け入れられて来たわけではない。
 君主を批判することは命をかけることであった15世紀から、ずっと議事の印刷は禁止されてきた。
 議論に参加した者は誰一人として議事を記録することを認められなかったし、議員達自身、特別に認められたところの、彼等が君主を批判する地位は、報道を禁止することで担保される、と思い込んでいた。
 18世紀末になると、国王は、何が議会で進行しているかを知っているだけでなく、彼の議会内での支持者達に依存するようにさえなっていた。
 だから、何も知らされなかったのは、国王ではなく、人々の方だったのだ。
 この居心地の良い状況に1771年に挑戦したのは、元下院議員で、体制に挑戦する経歴を重ね、勝利をあげつつあったジョン・ウィルキス・・・だった。・・・
 彼は、<既に、一般令状の件で担当官署に一泡吹かせていた。>
 ・・・<彼は、>特定の個人が令状に明記されなければならないという原則を確立することに成功したのだ。
 もっとも、そのことで彼自身は全く裨益しなかった。
 彼は議会から追放され、パリで4年間過ごす羽目に陥ったのだ。・・・
 1771年には、ウィルキスはロンドン・シティーの助役(Alderman)だったが、その地位は、依然として彼に対して門戸を閉ざしていた下院に代わる権力基盤を彼に与えた。
 議員達が議会議事録を出版しようとしていた印刷業者達を逮捕しようとした時、ウィルキスは、シティーの境界内で、非難された<印刷業者>二人が「誤った方法で」逮捕されたとクレームをつけるということをやってのけた。
 シティー政庁の特権により、ウィルキスとその(ロンドン市長を含む)支持者達は、印刷業者の件を直接自分達で調べ、非難された者達への嫌疑を認めるどころか、その嫌疑を否定し、「誤った」投獄のための逮捕を行った政府の役人達を召喚して非難したのだ。
 やむなく議会は、ウィルキスと、市長・・・ともう一人の助役・・に対する糾問手続きを開始した。
 結局、議会は、・・・ウィルキス以外の<二人>をロンドン塔に収監した。
 群衆が、帽子に「<市長、ウィルキス、そしてもう一人の助役の名前の後に、>そして出版の自由」と書いたラベルをつけて、議会の外に集まり、議員達ともみあった後その場を去った。
 二人の囚人が一ヶ月以上経って解放された時、彼等は喜んだ群衆と53台の馬車のと列とともにロンドン市長公邸(Mansion House)に送り届けられた。
 この間ずっと、様々な出版物が議事の報道を続けたが、こうして、妥協を排した印刷業者達とウィルキス一味のセンセーショナリズムを掻きたてる才能のおかげで、報道の自由の原則は勝利を収めたのだった。・・・」(C)

3 終わりに
 
 ウィルキス自身はもちろんですが、ウィルキスを何度も何度も下院に送り出した選挙民達の反骨精神も大変なものですね。
 このようなウィルキスは、いささか放蕩の度が過ぎているところはあるものの、やはり、典型的なイギリスの反逆者の一人なのであって、体制の転覆ではなく、体制の変革を一貫して目指し、自分の設定した目標を次々におおむね達成したわけです。
 北米植民地の独立革命には賛成し、フランス革命には反対するというのも、ウィルキスの絶妙なバランス感覚を表しています。
 本当にイギリス人ってすごいですね。
 そして、本当にイギリスって面白いですね。

(完)