太田述正コラム#3469(2009.8.18)
<イギリス反逆史(その3)>(2010.1.13公開)

 「・・・ある者にとっては、<イギリスは>住民達が平和な漸進的変化と法遵守的非政治主義の国だが、他の者にとっては、それは、ロビン・フッドからロニー・ビッグス(Ronnie Biggs<。1929年〜。1963年の大列車窃盗事件の犯人の一人>)に至る、人気ある英雄全員が犯罪者であるところの、暴力的無秩序<が支配する>国なのだ。・・・
 ホースプールは、我々が、欧州大陸を1789年から1917年まで震撼させた目を奪われるような累次の革命について意識しすぎるため、それより以前のイギリスにおける激動を無視しがちであることを示唆する。
 革命期のパリのサンキュロット(sans-culotte<。長ズボンをはく者=庶民>)達の200年以上前の1549年に、エドワード6世(Edward 6<。1537〜53年>)に対する<共有地の囲い込み(enclosure of common land) に反発して起きた>ケット(Robert Kett)の反乱
http://this-day-in-history.blogspot.com/2006/07/this-day-in-history-ketts-rebellion.html (太田)
の支持者達・・・はノリッジ(Norwich)の町を襲った。
 ホースプールは、イギリスにおける反乱の伝統について、ノルマン人の征服に対するレジスタンスから始まり、歴代の<イギリス>国王の権力を制限しようとする様々な試み、16世紀における宗教改革をめぐる諸紛争、17世紀における<イギリス>内戦、1990年における人頭税(poll tax)暴動までを追跡する。
 反乱は世紀を経るに従って民主主義化していった。
 かつてはそれは、おおむね、超有力者・・自分達がほとんど国王と同等であると考えていた男達・・の専権事項だった。
 イギリス内戦における議会派は、田舎の郷神(gentry)達によって率いられていた。
 大衆政治(popular politics)はその何年か後に始まった。
 ホースプールは、「群衆(mob)」という言葉ができたのは1688年であるとしている。
 多くの反乱の背後には宗教があった。
 もっとも、イギリス国教会は、大方、国王権力正当化の道具だったのであり、<1605年の>火薬陰謀事件(Gunpowder plot)の失敗を祝う宗教儀式が1859年に至るまで毎年実施された。・・・
 イギリスにおける反乱の聖像の一人であるワット・タイラーの前半生についてはほとんど分かっていない。
 彼がメイドストーン(Maidstone)からやってきたのかコルチェスター(Colchester)からやってきたのかも分かっていないのだ。
 しかし、1381年6月15日には、彼はあわや君主制を転覆するところだった。
 ロンドンのシティーの門の外のスミスフィールド(Smithfield)で、農民の反乱として知られるようになったものの指導者として、リチャード国王と対峙し、彼は「かぶり物をかぶったままで威嚇するような顔つき」でこの君主に直接語りかけるという「度をはずれた不敬(limitless presumption)」をやってのけた。
 当時の記録によれば、彼は短刀を左右に持ち替えながら国王に近づき、それから「国王の手をつかみ、無理矢理握手をし」、その上で様々な要求を突きつけた。
 その中には、教会の財産は平民の間に分配されるべきこと、農奴制を廃止すべきことが含まれていた。
 異常と言うべきだが、タイラー率いる反逆者達の力に圧されたリチャードは、これらの要求を飲んだ。
 しかし、タイラーの成功の瞬間は短かった。
 ロンドン市長のウィリアム・ウォルワース(William Walworth。?〜1385年)がタイラーの首を刺し、更に国王の取り巻きの一人が彼を突き刺し、タイラーは、虫の息で彼が率いる反逆者達に復讐するよう求めてから死んだ。
 しかし、士気が衰えたのか単に数で劣勢になたのか、彼等は敗れ去った。
 そうなっていなかったならば、彼等はリチャードを殺害したか捕まえたであろうし、その結果イギリス史にとって「予想不可能な様々な結果」が生じていた、といったことは完全にありえただろうとホースプールは記す。・・・
 ホースプールは、反乱を革命とを区別する。
 彼は、前者は、どちらかというと人に対してではなく財産に対する「対象を絞った暴力」という特徴があると主張する。
 イギリスの反逆者達は、国家の転覆より変革を欲した。
 婦人参政権論者のクリスタベル・パンクハーストは、「我々は法を破る者としてここにいるのではなく、法をつくる者となる努力をするためにここにいる」と述べた。
 反逆者達は、当局と交渉する能力を自分達が持っていると信じていた。
 この信条はほとんどと言ってよいほど根拠がなかったし、この本の中にはおぞましい処刑の光景が何度も出てくるというのに・・。
 ここで描かれる反逆者達の多くに見られるもう一つの特徴は、彼等自身にとっても、反乱の目的が何なのか、必ずしも明確ではなかったことだ。
 1554年のワイアット(<Sir Thomas> Wyatt <the younger。1521〜54年)の反乱でメアリー・チューダー(Mary Tudor<。1516〜58年。在位:1553〜58年。父親のヘンリー8世と兄弟のエドワード6世の政策に反してカトリックの復権を図った。スペインのフィリップ2世が結婚相手>)を倒そうとしたプロテスタント達は、自分達がこの女王を暗殺したいと思ったのか彼女を自分達の仲間の一人と結婚させようとしたのか、必ずしも定かではない。
 オリヴァー・クロムウェルは、この目的の曖昧さが反乱を革命に変えてしまう可能性があることについて、「自分がどこに行こうとしているのか分からないと、結果的にどこまで行ってしまうか分かったものではない」と総括している。」(B)

 「・・・マグナカルタの第一条は教会の自由を謳っている。
 しかし、それに続く12箇条はカネの話だ。
 ヘンリー8世に対する蜂起ですら、優美なる巡礼(Pilgrimage of Grace)というロマンチックな呼称で知られているというのに、修道院の廃止への反対理由の一つとして、イギリスの北部で数年を経ずしてカネや財宝がなくなってしまうことへの恐怖があげられている。
 そして、ホースプールが最後にあげる反乱は人頭税に対するものだ。
 この本は、イギリスにおける様々な反乱をとりまく神話の数々を容赦なく粉砕する。・・・
 マーガレット・サッチャーが、それが地域賦課金(community charge)と呼ばれるべきであることに固執したのは、「政府が人々に課する新たな負担を粉飾しようとして優しい響きのある言葉を用いることには長い歴史(pedigree)がある」との指摘を裏付けるものだ。
 <例えば、>1525年の新しい税金について、勅令は、それを「友好的供与(amicable grant)」と呼んだ。・・・
 英雄達のすべてには欠陥があるし、悪漢どもの大部分には何かいいところがある。
 異常とも言える歴史的な寛大さの現れとして、ホースプールは、エセックス伯ロバート・デヴルー(Robert Devereux, <2nd> Earl of Essex<。1565〜1601年。エリザベス女王の寵臣の一人。大逆罪で処刑>)が、その発した種々の命令について、「一定程度自由な解釈」を許したと解説する。
 農民の反乱が真の急進派から敬意を払われたのは、ジョン・ボールの<有名な>二行連句(Couplet)のおかげだ。
 しかし、「アダムが耕しイヴが紡いだ時に誰が郷神(genntleman)だったというのか」は、彼等が変えようとしていた社会に対する反逆者達の姿勢の一部しか示していない。
 彼等は、自分達の仕事を奪いつつあると思ったフラマン人の労働者達を虐殺した。
 そして、ワット・タイラーは、ロンドン市長が首を刺す前にこの市長に最初に一発をかましたのであり、その結果、彼は初期における労働者階級の殉教者となったのだった。・・・
 ホースプールは、その250年後<に登場した>、水平派に対しては、当然のことながら同情的だ。
 一体誰がレインスボロー(<Thomas> Rainsborough<。1610〜48年。コラム#372>)大佐によるところの、「思うに、イギリスの最も貧しい人々と言えども、最も偉大な人々同様、生きるべき人生があります」、そしてその結果、どんなに偉い人をも含むあらゆる人が法の支配に服さなければならない、とする宣言に対して、同情以外の反応をすることができようか。
 いずれにせよ、クロムウェルとフェアーファックス(<Thomas> Fairfax<, 3rd Lord Fairfax of Cameron。1612〜71年。イギリス内戦時の議会派軍の総司令官>)が<1647年に>パットニー討論(Putney Debates<。常備軍たる新模範軍(New Model Army)の構成員(水平派を含む)の間で行われた討論>)が行われることを認めたことは、まさしく称賛に値する。
 公開の討論は、普通、軍事独裁の下では考えられないことだからだ。・・・
 <ジョン王がマグナカルタに署名させられた場所である>ラニーミード(Runnymede)に参集した領主達の後継たる反逆者達は、マグナカルタという形に結実した闘争から、「国王に反抗することは国王に代わるものを推進することを意味しない。それは、自分達の支配者達に仕事をもっと良くやるように強いる理由を提示することを意味する」ことを学んだ。
 ここのくだりは極めて重要だ。
 <イギリス>大内戦の後、イギリスはその君主達に対して顕著に鷹揚になった。
 1688年の革命が「名誉<革命>」であったのは、ほとんど血が流されなかったからだ。
 そして欧州の大陸部の大部分とは違って、1848年にはイギリスでは革命は起こらなかった。・・・」(D)

(続く)