太田述正コラム#3467(2009.8.17)
<イギリス反逆史(その2)>(2010.1.12公開)

 以上の文学評論(Literary Review)誌掲載の書評は分かりやすくかつ体系的であると思われたことでしょう。
 しかし、イギリス「文明」について語る場合は、イギリス人は韜晦するとともに断片的にしか語らないのが通例であり、これから引用する書評についてもその例外ではありません。
 では、ご一緒に韜晦と断片の世界に分け入ってみましょう。

 「・・・アングロサクソンの累次の蜂起・・<その都度、>「森の男達(woodsmen)」がノルマン人の拠点を攻撃した後、森や沼地に消えてしまう・・は、ロビン・フッド(Robin Hood)神話から今日のエコ戦士達に至る系譜に属する。
 米国で権利の章典(Bill of Rights<。1791年に米国憲法に加えられた10箇条)ができる5世紀も前<の1215年>に、イギリスの領主達(barons)はジョン王にマグナカルタを受け入れさせ、憲法改革の種を蒔いた。
 また、<1789年の>フランス革命の何世代も前に、<1649年に>イギリス人達は、急進的な政府を選好してチャールス1世を処刑した。・・・
 600年前の<1381年の>農民の反乱(Peasants’Revolt<。新たな人頭税(poll tax)の賦課に反対して、ジョン・ボール(John Ball)、ワット・タイラー(Wat Tyler)、ジャック・ストロー(Jack Straw)らが首謀者となって起こした反乱>)は・・・エドワード3世(Edward 3<。1312〜77年。英仏百年戦争を始めた国王>)が王室の金庫に更にカネを貯め込もうとしたのに対して騎士達がその撤回をかちとったことが伏線となった。 
 ・・・<イギリスにおける累次の>反乱はゆっくりとした議会制民主主義への前進の不可欠な底流となった。・・・
 「可能であれば平和的に、しかし必要があれば力尽くで」が19世紀のチャーチスト達のモットーだった。
 イギリス思想のように、イギリスの反乱もまた、経験的であって絶対主義的ではなく、体制を転覆しようとする人々による全面的革命ではなく、体制を変革しようとする人々による対象を絞った暴力という傾向があった。・・・」(A)

 「・・・エドワード2世(Edward 2<。1284〜1327?。1327年に王妃とモーティマー(前出)によって廃位。>)を取り巻く大領主達(earls)が、エドワードのお気に入りのピアース・ゲーヴストン(Piers Gaveston<, 1st Earl of Cornwall。1284?〜1312年。1312年に殺害される> )に罵られたり餌で釣られたり(baiting)して行動へと追い立てられた時のように、しばしば個人的な傷つけられた自尊心が反乱の契機となった。
 熱意の<人>オリヴァー・クロムウェルから線香花火に終わった蜂起をしたモンマス公爵(<James Scott, 1st> Duke of Monmouth)<。1649〜85年。刑死。コラム#1797)>、そして「頭の中がねじまがっている」ジョージ・ゴードン(George Gordon<。1751〜93年)(注1)卿、更にはメロドラマ好きのパンクハースト(<Emmeline> Pankhurst。1858〜1928年。コラム#72、1790>)女史、あるいは化け物のような自己中心癖のオズワルド・モーズレイ(Oswald Mosley<。1896〜1980年。コラム#1428>)に至る、個性が反乱者達と様々な反乱の装いを決定した。・・・」(F)

 (注1)貴族なので上院議員だったが、常軌を逸した言動から、‘the noble lord has got a twist in his head,’と言われた。プロテスタント連盟総裁として、1780年にカトリックへの一部権利の付与に反対する大請願行進を主宰したが、6日間の略奪行為が発生した。大逆罪で起訴されるも無罪放免となる。
http://www.encyclopedia.com/doc/1O110-GordonLordGeorge.html (太田)

 「・・・イギリス内で行われた最後の正々堂々たる会戦は、<モンマス公爵の反乱における最後の>1685年の<サマーセット州の>セッジムーア(Sedgemoor)での戦闘<だった。>・・・
 例えば、オレンジ公ウィリアムは、モンマスの<反乱の>3年後<1688年>に王位を目指して自分自身の作戦を始めた時に、マンモスの犯したひどいしくじりから学んだ。
 また、中世の反逆者達は、必ずと言っていいほど、シモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort<, 6th Earl of Leicester。1208〜65年。1263〜65年の反乱を首謀し、この間、イギリスの事実上の支配者となる。史上初めて、地区(borough)ごとに土地所有者と40シリング以上の地代を払っている借地人による選挙で選ばれた議員からなる議会を開催したことから、議会制民主主義の祖の一人とされる> )やエドワード2世の前例をこれみよがしに振り回したものだ。
 そして、我々自身の時代においてさえ、アーサー・スカーギル(Arthur Scargill<。1938年〜。長く英鉱業労働者組合長を務める>)は、1972年の鉱夫達のストについて常に蘊蓄を傾けた(bang on about)ものだし、このストはまた、1926年の<全英>ゼネストの記憶によって部分的に鼓吹されたものだった。・・・
 ・・・<1066年の>ノルマン人の征服直後の何世紀かは、武装反乱は必ずしも生きるか死ぬかの問題ではなく、認められていた政治的戦術であり、領主(baron)達が力を誇示して国王にその政策を変更させるためのものだった。
 赦しと手打ちが極めて一般的であり、ウィリアム征服王(William 1。1027/28〜1087年)のような近づきがたい人物ですら我々が思っているよりはるかに寛大だった。
 ウィリアムは反抗的なアングロサクソンの大領主(earl)を反逆罪でただ一人処刑しただけだ。・・・
 ホースプールは、エドワード2世の治世になってようやく、慢性的無法、復讐劇、そしてスコットランドとフランスにおける累次の戦争の暴虐的影響に起因するところの、公的生活の物騒化に伴い、ようやく反乱は生きるか死ぬかの問題となったのだ、と指摘する。・・・」(C)

(続く)