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太田述正コラム#3451(2009.8.9)
<アテネ・海軍・民主主義(その2)>(2009.12.28公開)

 「・・・この本は、<アテネが位置している>アッティカ(Attica)<半島>を侵攻しようとするペルシャの最初の試みから始まって、アレキサンダー大王の前任者達による、アテネ海軍力の殲滅に至る期間を扱っている。・・・
 歴史を紐解くと、ペルシャによる最初の侵攻が打ち挫かれた後、ペルシャが再び侵攻を試みるであろうことは明らかであったことを読み取ることができる。
 それに備えるため、テミストクレス(Themistocles<。BC524?〜459年>)は、多大なる政治的反対に直面しつつ、アテネ海軍の建設を訴えた。
 こうしてクセルクセス(Xerxes 1<。皇帝在位:BC485〜465年>) が本当にやって来るのだが、彼はアテネの海軍力によって歴史的なサラミスの海戦で敗北を喫することになる。
 それ以降、アテネは支配的な海軍力(sea power)<国家>となる。
 アテネの交易と覇権は、やがて黒海からエジプトへ、キプロス島からシチリア島へと及ぶようになり、このような前方防衛<態勢>は、アテネの民主主義と繁栄を増進をもたらした。
 ペリクレス(Pericles<。BC495?〜429年>)は、引き続き訪れた<アテネの>黄金時代は、民主主義、海軍力、帝国の富、それに理性の支配(rule of reason)の4つの上に築かれたと形容した。 
 しかながらし、それは永久には続かなかった。・・・
 ・・・アテネ人達は、同盟者達に上納金を課するようになり、彼等の内政に干渉するようになった。
 ・・・<やがて、>コリント(Corinth)とスパルタは反アテネ同盟を組織した。
 こうして、ペロポネソス戦争(Peloponnesian War<BC431〜404年。コラム#908〜912、935>)が始まったのだ。
 戦争初期においては、アテネ側の同盟の海軍力とスパルタ側の同盟の陸軍力の対決だった。
 両陣営とも、恒常的に不安定さが続き、あらゆる機会をとらえて様々な都市国家が両同盟の間を出たり入ったりした。
 どちらの陣営も時にはペルシャと組み、他の時には一緒になってペルシャと対峙した。
 アルキビアデス(Alcibiades<。BC450?〜404年。コラム#3415>)に至っては、アテネからスパルタへ、それからペルシャへ、そしてアテネに戻り、それから再びペルシャへと戻ったという有様だ。
 どうやって彼が、通常考え得る最悪の事態を逃れ通すことができたのかは、それ自体が興味あるところだ。
 通常、陸軍や海軍の指導者達は、勝利すれば祝宴を催してもらい、敗北すればヘムロックを飲まされる<形で刑死させられた>ものだ。
 しかし、勝利者達でさえ、全員集会(Assembly)が彼等の業績の幾ばくかに不満を感じた場合にはヘムロックを飲まされたことがある。
 戦争が延々と続くにつれて、スパルタとその同盟者達は、彼等自身、かなりの海軍を作り上げるに至り、やがて海上においてもアテネと対等になって行った。
 そして、<シチリア島東岸に位置する>シラクサ(Syracuse)<への遠征>の大失敗により、アテネはほとんどその全艦隊を失うに至る。
 しかし、再びアテネ人達は力を合わせ、彼等の艦隊を再建し、彼等の海上支配を再確立すべく海へと乗り出して行った。
 しかし、うまくは行かなかった。
 スパルタ側が再び<アテネ側を>圧倒し、<降伏>条件を<アテネに>押しつけた。
 アテネの民主主義はここに終わり、スパルタが命じたとおりの寡頭政府(government of oligarchs)が<アテネに>成立した。
 全員集会がそれまで開催されていた場所における議論する者のお立ち台(speakers' platform)すら、海に向かっていたところ、内陸部に向かう形に方向転換をさせられた。・・・
 それでも、スパルタの関心が内向きになると、アテネはその民主主義を回復することができ、そして再び、アテネは同盟者達を見出した。
 今回は、アテネは<同盟者達に>やっかいな税金を課すようなことはなかった。
 そして、エーゲ海内外の都市国家群はもう一度繁栄し始めた。
 しかし、それは短期間しか続かなかった。
 マケドニアのフィリップ王(Philip <2。BC382〜336年>)が、アテネが黒海から穀物を得る生命線であるボスフォラス海峡を封鎖すると、激しい戦闘が始まった。
 アテネ人達と彼等の同盟者達は敗北し、フィリップの息子のアレキサンダーがアジアへと渡る道が開かれた。
 艦艇と戦術についてだが・・・トライリーム<の>・・・漕ぎ手達は、現代の競艇用シェル型ボートのもののようなスライドなど付いていない固い、固定の木製の座席に私物のクッションを敷いて座った。
 彼等は、風が吹いていない時、それに戦闘中はずっと、漕ぎ続けた。
 一人の将官が通常トライリームの艦艇群を指揮したが、想像がつくと思うが、彼は、地上の陸軍が試みるように地勢(terrain)を活用すべく、海岸線にできるだけ近い、有利な位置取りするよう努めた。
 しかし、本当の戦術家は、個々の艦長達や漕ぎ手達だった。
 戦闘に際して、彼等は敵の艦艇に舳先をぶつけるか船腹同士をスライドさせて敵のオールを刈り取ろうとした。
 その後、乗り移れるくらいに接近すると、海兵達が敵の艦船に飛び乗り、最後の仕上げを行おうと努めた。
 アテネの詩人達や戯曲作家達もまた、海軍力の重要性については熟知していた。
 ヘール氏は、アイスキュロス(Aeschylus<。BC525/524?〜456/455?年。悲劇の父と称される>)の『ペルシャ人達』、アリフトパネス(アリストファネス=Aristophanes<。BC446?〜386?年。喜劇の父と称される>)の『蛙』『騎士(Horsemen)』、そしてソポクレス(ソフォクレス=Sophocles<。BC496?〜406年>)の『ピロクテテス(Philoctetes)』等の<アテネ海軍に触れた>いくつかの作品についてコメントをしている。・・・」(B) 

(続く)

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