太田述正コラム#3444(2009.8.6)
<欧州の中世初期(その4)>(2009.12.25公開)

 「西のローマ帝国の5世紀における没落と東<のローマ帝国>の7世紀における没落は、いくつかの巨大にして顕著な文化的変容に反映された。
 それまでの帝国の文民貴族とははっきり対照的に、あらゆるところで、社会的エリートが軍事化した。
 次第に、ヴェルギリウス(Virgil)またはホメロス(Homer)に通暁していることなどではなく、馬術と修練された刀の振り回しがローマ後の指導者達を特徴付けるものとなっていった。
 ウィッカムが示すように、その他の分野でも大きな変化が起こった。
 男女関係から都市景観についての理想像、更には民族性から超自然に係る諸概念に至るまで・・。
 ローマ後の諸社会は、ローマの最も永続的な遺産であるところの、頑強なる「公共の文化」の影響を受けていたが、これもまた、例えば公共集会(public assembly)といった新しい形へと脚色されて行った。
 しかし、ウィッカムは、この「公共の文化」でさえ、地方化のプロセスが、最終的に最もローマ<時代>の尾を曳いていた様々な影を追い払ったところの、<後に>短縮して「封建革命」とレッテル貼りをされることとなる様々な出来事を加速させた結果、<紀元>1000年前後には消え始めた。・・・
 ・・・野蛮人の累次の侵攻というよりは、富の配分における様々な変化がこの期間の主要な様々な発展を促した。・・・
 課税が徐々に消滅して行った結果、衰亡を表す自然な言葉であるところの、経済的「単純化」が起こった。
 すなわち、需要がなくなり、次いで供給がなくなり、何世紀にも及ぶ長期の不況が招来されたのだ。
 一つの結果は、余剰生産物を吸い上げる構造は弱体化したものの、貧しさが募り、職人達がつくった商品の入手が困難になったことから、小作人達が一斉により自給自足的(autonomous)になったことだ。
 もう一つの結果は、税金収入を奪われた政治的組織が、国家に対する奉仕を土地財産<を提供すること>によって報いる・・これは本来的に不安定なしくみであり、権力の細分化を推進した・・という「土地の政治」へと先祖返りしたことだ。
 ウィッカムが指摘するように、これら全ては、東方(ビザンツ帝国)の欧州よりもはるかに西の欧州にあてはまる話だった。
 というのは、課税制度は、どちらかというと東方でよりよく生き残り、需要を刺激するとともに、国家に対し、役人達に報いる手段を与え続けたからだ。・・・」(E)

 「・・・<紀元>800年から1000年にかけて・・・「小作人の収檻(caging)」 ・・・<すなわち、フランス語で言うところの>オンセルルモン(encellulement)<が起こった。>・・・
 <ローマ?ビザンツ?>帝国は、「その土地の3分の2とその富の4分の3」を610年代から630年代にかけて失った。
 エジプトをペルシャ人達に、次いでアラブの諸軍に奪われてからは、コンスタンチノープルは、もはや臣民達に穀物をタダで提供できなくなった。
 そして、その人口は、約50万人から4万人と7万人の間へと落ち込んだ。
 それでもなお、それは欧州で一番大きい都市であり続けた。・・・
 669年から687年の間に、アナトリア半島における<ビザンツ>帝国の心臓部は「テーマ(themes)」と呼ばれる4つの軍事区域へと再編された。
 兵士達は土地を与えられ、そこからの収益がかれらの給与となった。
 度重なる襲撃を受け、遠隔地に位置する諸都市は弱体化するか完全に消滅した。
 コンスタンチノープル以外では、社会的地位は富や生まれによってではなく、軍または行政機構でいかなる職に就いているかによって決せられた。・・・
 <他方、西欧では、>第一に、教皇ザカリアス(<Zachary。在位:741〜752年。最後のギリシャ人教皇>)からニヒル・オブスタット(nihil obstat)(注2)をもらい、更に後に教皇ステファヌス2世(Stephen <2。在位:752〜757年>)から公的な儀式的正当化をしてもらった後に、ピピン(Pepin<。714〜768年。フランク王国カロリング朝の初代国王(在位:751〜768年)。フランク王国メロヴィング朝の宮宰シャルル・マルテル(Charles Martel)の子にしてシャルルマーニュの父>)は、初めて力でもって権力を奪取した。

 (注2)ニヒル・オブスタットは、教会の検閲官による、特定の文書が信仰や道徳に反する内容を記述していないことの証明であり、印刷出版奨励(Imprimatur)はもちろん、印刷出版許可(Imprimi potest)よりも弱い。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nihil_obstat

 どちらの教皇も、ウィッカムが「外部からの非フランク族の道徳的権力」と呼ぶ、<権力の>不可欠な源泉としての役割を果たしたのだ。
 第二に、シャルルマーニュの攻撃的な軍事諸作戦は、彼が<768年からはフランク>国王として、次いで<800年からはローマ>皇帝としてふるまうために必要な富を生み出した。
 彼は、<北ドイツの>ザクセン(Saxony)の円柱(Irminsul)
http://en.wikipedia.org/wiki/Irminsul (太田)
<を中心とするところ>の異教の儀式場からは戦利品を、そして<イタリアの>ロンバルディア(Lombardy)からは収入を確保し、更には<南ドイツの>バヴァリア(Bavaria)を軍事力をちらつかせて併合した。
 果てには、彼はハンガリー平原のアヴァール(Avars)(注3)を攻撃し彼等の王の宮殿から莫大な富を持ち帰った。

 (注3)「アヴァール (Avars)とは 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパに活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。・・・」(太田)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=0&oq=ava-ru&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4SUNA_jaJP315JP315&q=%e3%82%a2%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%83%ab

 第三に、シャルルマーニュは、名誉、官職、そして土地割当を分配することによって権力を固め、コントロールした。
 彼は、土地の使用権を一代限りの権利(beneficia)として供与することで、所有権は保持し、被供与者が自分の希望に反して行動した時にこの権利を剥奪できるようにした。
 第四に、彼は、権力の座にある人々の年季の入った(cultivated)抑制的ふるまいをコレクチオ(correctio)すべく、すなわち更に年季を入れる(cultivate)べく、文化的な様々なプログラムを制度化した。
 <彼にとっては、>正義、調和、そして憎しみの回避が主要な公的な徳だった。
 第五に、彼は相互的な贈り物の交換を奨励した。
 第六に、彼は国王の代理人たるミッシ(missi)を、圧政を正すために<各地に>派遣した。
 シャルルマーニュの息子で彼の継承者となったルイ敬虔王(Louis the Pious<。778〜840年。神聖ローマ皇帝:在位813〜840年。フランク国王:在位814〜840年>)は、貴族達や役人達の道徳的ふるまいを強く求めた。

(続く)