太田述正コラム#3442(2009.8.5)
<欧州の中世初期(その3)>(2009.12.24公開)

4 中世初期

 「・・・<ウィッカム>のような巨視的な見方をすると、<ローマを承継した広大な地域に>共通の重要な点が浮かび上がってくる。
 それは、収入の確保は農民の体系的搾取に依存していたこと、そして中世の諸国家の安定性は宮廷を中心とした政治的共同体の維持に立脚していたことだ。
 <しかし、>この枠組みの中で相当の違いがあった。
 より豊かでより自信があったビザンツ世界とイスラム世界に比べて堅固な土台があったとは言えない西欧の諸王国における方が宗教が果たした役割ははるかに大きかった。
 シャルルマーニュとは違って、<ビザンツの>皇帝達も<イスラム世界の>カリフ達も彼等の政治的諸プログラムの正当性を得るために僧侶達の明示的な道徳的承認を求めるようなことはなかった。
 従来の中世に関するイメージであるところの教会と国家との密接な提携は、その地域と影響力においてはるかに限定的なものであったことが判明したのだ。
 東は西とは衝撃的なまでに対照的だったのだ。・・・」(D)

→ここは、重要な指摘。要するに東方世界に比べて西方世界の方が神がかっていたということです。もちろんイギリスは、そのどちらでもなく、全く神がかっていなかった、という含意があります。(太田)

 「・・・<西欧では>5世紀には・・・支配者達と半ば自治的なカトリック教会との間に政治的協同関係が構築され、この関係は、引き続く何世紀もの間、規範となった。
 富はおおむね土地に立脚したものとなり、従って、軍事的征服の対象となった。・・・」(A)
 「・・・税金に立脚した行政から土地所有に立脚したそれへのゆっくりとした動き<が起こった。>
 軍は課税によって維持されなくなり、次第に我々が封建的と呼ぶものへと変貌した。すなわち、土地所有者達から、金銭による借料の支払いではなく、軍役<の提供>が求められるようになったのだ。
 イタリア、スペイン、そして(将来現在のフランスとなる)ガリアでは、ローマのエリート達、ないしはローマ化したエリート達は、新しい体制に適応し、その体制に仕えた。
 ゲルマン系諸部族はすべてキリスト教を受容したので、継続性は教会によっても維持された。
 この三つの国では、流入した側が自分達の言語を失い、ラテン語をしゃべるようになった。
 (便宜上「ケルト系」言語と我々が呼ぶところの言語群のうちの一つであるガリア語は、2世紀中にラテン語に取って代わられた。)
 ブリテン島には、ローマ帝国が一度も深く根を下ろすことがなかったが、ローマの影響は迅速に消滅した。
 今は誰もブリテン島の原住民が虐殺されたとかウェールズ地方に追い立てられたとかいったことを信じてはいないが、それにもかかわらず、イギリスは、<かつて>西ローマ帝国<の版図であった地域>で唯一、ラテン語と<当該地域における>もともとの言語を双方とも放逐してゲルマン系の言語が支配的となった地域だ。
 これは、ウィッカムの示唆によれば、アングロサクソンの侵攻者と土着のブリトン人の比率はせいぜい1対10だったというのに起こったことなのだ。・・・」(C)

→ウィッカムは、地理的意味での西欧における旧ローマ帝国版図のうち、ローマの承継度は、イギリス<アイルランド・スコットランド・ウェールズ<イタリア・スペイン・ガリア、である、とし、ゲルマン系の言語を採用した唯一の地域がイギリスであったと指摘するとともに、イギリスは最も神がからなかった、と言っているわけです。(太田)

 「<アラブ人達は、>西におけるゲルマン系の諸王国とは違って、ローマの租税制度を維持した。
 その結果、少なくとも200年にわたって、<支配者たるアラブ人達>は、まさに占領軍として、土着の人々とは切り離された形で推移した。
 <だから、>アラビア語は、地中海の東側と南側の沿岸において共通語になったが、アラブの征服者達は、西でゲルマン諸部族がそうであったように、異邦人であり続けた。・・・」(C)
 「・・・<紀元>500年以降の変化は、ゲルマン化ではなく、西欧の軍事化だった。
 ローマの軍団(legion)は公衆課税によって支払われたパンをあてがわれたのに対し、肉食の軍は今や戦士エリート内の栄光と地位のためにつくすこととなった。
 711年にイスラム勢力によって征服されたにもかかわらず、西ゴート族の(Visigothic)のスペインは色んな意味で、7世紀のフランク王国よりももっと安定的で中央集権化された政体だったし、アッバース朝カリフのアル=ラシッド(<Harun> Al-Rashid<。763〜809年>)の継承者達のためにイランに設けられた諸役得(appanages)は、西のカロリング朝(Carolingian<。751〜987年>)のために設けられた諸役得と直接比較することが可能だ。・・・」(I)

→ウィッカムは、旧ローマ帝国よりも狭義の西欧(イタリア・スペイン・ガリア)はより神がかっていて、より中央集権的ではなかったけれど、要するに旧ローマ帝国の承継者という意味では、西欧とイスラム世界は極めて似通っている、ということを示唆しているのです。「欧州へのイスラム移民」シリーズ(コラム#3429、3432、3435)の理解が深まったのではありませんか。(太田)

 「<また、>6世紀は腺ペスト(bubonic plague)の破壊的大流行が基調であったなどとは言えないのと同様、<中世初期の終わりの>10世紀は、「封建」革命ないし公的権力(public authority)の崩壊が基調であったとは言えない。・・・」(I)

→中世初期への移行が一挙に起こったわけではないのと同様、封建時代たる中世後期への移行も一挙に起こったのではない、ということ。(太田)

 「・・・中世世界は外見上極めて国際的だった。
 アルフレッド大王によるイギリス国家の改革は、シャルルマーニュとその継承者達によって成功裏に追求された諸政策の同大王による意識的採用に負うところが大きい。
 北部スペインのアストゥリアス-レオンから、アイルランド、スコットランド、スカンディナヴィア、スラブの土地及びルス族(Rus)<の土地>に至る諸王国の発展は、支配者達が、自分達の支配の土台を補強するためにより精緻な政治的かつ軍事的構造を確立しようとしたことを示している。
 ここでも、様々な違いが存在したことが重要だ。
 ウェールズとアイルランドにおける中央集権化した王国の確立は、ルス、ブルガリア、デンマーク、そしてアストゥリアス-レオンにおけるほどうまくはいかなった。
 しかし、そこにははっきりしたパターンがあった。
 紀元1000年までには、ライン河-ドナウ河(古のローマ帝国の境界)の北側は、フランク王国ないしビザンツ帝国を範例とする形の一連の認識可能な諸国家として結晶化した。
 これこそ、恐らく、最も重要なローマの政治的承継だろう。・・・」(D)

→このあたりがウィッカムが「誤解」を呼ぶところなのですが、我々としては、あくまでもイギリスはローマ的なものを拒絶したのであって、旧ローマ帝国の版図内であってローマ的なものを承継した(狭義の)西欧やイスラム世界、あるいは、旧ローマ帝国の版図外であったにもかかわらずローマ的なものに憧憬の念を抱き続けたルス(ロシア)やドイツ諸国とは決定的に違う、という点をしっかりと抑えておくべきでしょう。(太田)

(続く)