太田述正コラム#3624(2009.11.3)
<正義について(その2)>(2009.12.11公開)

 (3)各論

  ア 功利主義

 「・・・<正義の>定義の第一のものは、社会的厚生(social welfare)の最大化、すなわち、最大多数の最大幸福である<とする。ベンサムやミルの功利主義がそうだ>。
 しかし、サンデルの見解では、功利主義には目立った弱点がある。
 個人的諸権利の原理的な防衛を認めない点だ。
 <ローマ時代のように、キリスト教徒といった>少数派の一人をライオンがいる所に投げ込<み、その人がライオンに食われるのを見物して楽し>むことで社会的幸福の総計が増大したとしたら、どうする?
 つまり、功利主義は、究極的には、より高い形の幸福を実現することとより低い形の幸福を実現することとを区別することができないのだ。
 <功利主義では、>どうして我々が闘犬の楽しみよりも美術館の楽しみの方をより選好すべきなのか<、説明ができないということだ。>」(A)

  イ 契約的(contractual)自由主義

 「<正義の>定義の第二のものは、個人的自由を尊重することこそ正義であるとする。
 このアプローチは、<一つには、>市場志向のリバタリアニズム(libertarianism<=完全自由主義/完全市場主義>)という形をとりうる。
 その信条は、正義は同意に基づく成人による自由な選択と同値である、というものだ。 あるいはそれは、<後述するような、>より平等主義的表現をとることもできる。
 その場合、社会は、その最も恵まれていない構成員の便益に資するように組織されるべきだということになる。
 しかし、このどちらの見解も、政府の唯一の仕事は公正なルールと手続きを定めること<だけ>である、という前提をとる。
 そして、最も良い<と思う>生活の仕方を選択するのは完全に自由な諸個人に委ねられる。(注2)

 (注2)「リバタリアニズムという言葉は、個人的自由の最大化と国家の最小化ないし廃止を擁護する幅広い政治哲学によって採用されている。
 リバタリアン<には、>・・・財産権賛成論者から財産権反対論者まで、また、マイナーキスト(minarchist<=個人を攻撃から守ることだけが国家の仕事であるとする(太田)>)からアナキストであることを公言する者までがいる。・・・
 ・・・ノジック(前出)の<1974年に上梓された>『アナーキー、国家、及びユートピア(Anarchy, State, and Utopia)』は、学問の世界においてリバタリアニズムの正統性を単独で確立した<書物である、とされている。>・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Libertarianism

 多くの米国人達は、この<種の>見解に反対しないだけでなく、この見解は疑う余地がないと思うことだろう。
 しかし、サンデルは、この見解を激しく攻撃する。
 「私は、たとえそれが公正な諸条件の下におけるものであっても、選択の自由が正義にかなった社会のための適切な基盤であるとは思わない」と彼は言う。
 このような、正義を自由と等置する考え方は、人間が現実に生活をしている仕方からかけ離れている、と彼は言う。
 我々が抱く、正しいことと間違っていることや義務と裏切りについての見解は、単に個人的な自由選択の結果なのではない。
 我々は全員、様々な制度・・我々の無条件の愛に関わる家族、連帯感情を誘発するコミュニティー、大きな犠牲を伴う忠誠心を求める国・・の中に生まれ落ちる。
 サンデルは、自由主義的個人主義ではこれらへの深い愛着を説明することができないと主張する。
 我々は、「我々が選択したわけではない、様々な道徳的紐帯によって縛られている」というのだ。・・・」(A)

 「・・・サンデルの正義に係る究極の標的は、現代の大部分のリベラルに共通するところの、我々の権利と義務に係る基本的枠組みは、競い合う諸ビジョンに関して中立であるべきであるとする見解だ。・・・
 サンデルは、彼のこの本の最後を、彼がロバート・ケネディやマーチン・ルーサー・キングの、より理想主義的な進歩主義を復活させたと見るところの、バラク・オバマへの賛歌で締めくくる。
 現代の自由主義者の理想は<、上述のように、>二つの全く異なった形をとるが、サンデルはこの二つを交互に取り扱う。
 彼の最初の標的であるリバタリアンは、国家の権限は個人的権利を確保することだけだとする。
 この域を超えて、個人に対して、その財産や身体についてどうすべきかを伝えた瞬間、国家は家父長的となり強圧的となる、というわけだ。
 サンデルは、この理論に惹かれる者全員に対し、その含意を考え抜くように促す。
 我々は本当に人肉食・・もちろん同意に基づくものだが・・や<臓器等、>身体の各部について<取引する>自由市場を認めたいと思うのか、と。
 更に、リバタリアニズムは、自分が欲するものを形作るべく資質(capacity)を高める自由などはいらないのであって、所与の欲望を充足する能力(ability)に係る自由さえあればよい、というのだから、<人間を>矮小化している、という。
 この後者の<言うところの人間の>資質・・カントが「自律性(autonomy)」と呼んだもの・・は、基礎的な最小限の富、教育、そして市民的参加(engagement)をその実現のために必要とするが、これらのどれについても、リバタリアンは保証することができないではないか、と。
 <だから、>中立的であるどころか、<リバタリアンが推奨する>夜警国家は、強者の弱者に対する支配を永続化するのだ、と。」(C)

  ウ 手続き的(procedural)自由主義

 「現代自由主義の第二の要素は、人とそのニーズに関し、より高尚な(elevated)見解をとる。
 その最も著名な擁護者であるジョン・ロールズ(John Rawls)は、自分が<最終的に落ち着くこととなるであろう>社会的場所がどこか分からない以上、正義にかなった財の分配方法に関しては、特定のコミュニティーの全構成員がコンセンサスに到達するであろう、と主張する。
 <ロールズは、これは、>リバタリアニズムが考えているものに比べれば、より気前が良いけれど、このような分配が行われたとしても、中立性の原則には抵触しないとする。
 というのは、それは、我々の真に理性的な自身による評決の結果の表明だからだ、と。
 <そのような財の分配>は、「無知のヴェール」によって我々が自分の本当の関心や信条<や、それらがもたらすところの、当該社会において自分が最終的に落ち着くこととなるであろう場所>から切り離されることさえできれば、我々全員が選択するであろうことなのだ、と。・・・」(C)

 1982年に上梓した『自由主義と正義の諸限界(Liberalism and the Limits of Justice)』の中で、サンデル氏は、ロールズの、人口に膾炙することとなった<かかる>社会的正義論は、家族的感情、集団的忠誠、そしてコミュニティーへの愛着の道徳的重さを過小評価している、と主張した。・・・」(D)

 「・・・ロールズは、正義にかなった社会を創り出すには二段階の過程が必要であると考えた。
 第一の過程は、どの市民も他者の権利を侵害せず、かつ個々の市民が自分の人生の目標を追求するための十分な資源を持つことを確保するための構造をひねり出すことだ。
 この構造を創造するためには、ロールズは、理想化された諸個人の間での理性的な討論を想定した。
 ここは有名なくだりなのだが、これらの理想化された人物達は、彼等がその新しい社会において最終的にどうなるかを知らないことから、その社会における最も恵まれない人々を守ろうとする可能性が高いところの、「無知のヴェール」の背後で討論をするわけだ。
 その場合の基本的な仮定は、市民達はそれぞれ、「良い生活」がいかなる属性を必然的に伴うかについて、<すなわち、道徳について、>極めて異なった観念を持っているに違いない、というものだ。・・・」(E)

 「サンデルは、彼の最初の著書である『自由主義と正義の諸限界』・・・において、ロールズが、人間を、あらゆる社会的紐帯からだけでなく、彼等の人生に目的を与える諸理想からも切り離された形でとらえうると想像して門出をして行った、と主張した。
 このような、環境から切り離された(decontextualized)人間は、「全く人格を持たず、道徳的な深さもない代物である以上、理想的な、自由で理性的な行為者(agent)であるとは見なしえない」とサンデルは主張したのだ。・・・」(E)

 こむつかしくて困るって?
 もう少しで終わるので、ここは忍の一字で読み進んでください。

(続く)