太田述正コラム#3417(2009.7.25)
<ソクラテスの死(その2)>(2009.12.5公開)

 「・・・アテネの法によれば、すべての裁判は、個人的苦情の形で開始される。
 国家(ポリス)が告発するわけではないのだ。
 だから、ソクラテスを起訴した、メレトゥス(Meletus)、ライコン(Lykon)、そしてアナイトゥス(Anytus)の3人の男の一部または全員と、ソクラテスは個人的関係があった可能性が大いにある。・・・
 最終的な評決では、有罪280人、無罪220人だった。
 この有罪評決の後、ソクラテスは自らの刑罰を提案する機会が与えられた。
 半分冗談めかして、彼は公のカネで自分は残りの生涯ずっと食事を与えられるべきだと述べた。
 <その結果、>360人の評議員(dikast(e)s)が死刑に一票を投じた。
 上記ソクラテスの示唆を不快に思い、彼が無罪だと思った者のうち80人が処刑に賛成するに至ったわけだ。
 (不正義の年代記において、しばしばソクラテスと比べられるイエスは、その4世紀後に、自分に対する非難者に沈黙で答える、という良い感覚を持っていた。)・・・
 わずか4年間でその人口の4分の1以上を疾病で失ったことや、虐殺その他の戦時の様々な暴虐なる出来事は、アテネにおける徳に係る感覚を毀損した。
 若者の間で不満が高まり、貪欲な若い貴族達の一群はアテネがスパルタに破れたのは多数支配<(=民主制)>の非効果性が証明されたということだ、と主張した。
 彼等の多くはソクラテスの下で学んだということが知られていた。
 ソクラテス自身は、何が何でも民主制がよいとする人々と、虚栄心の強い貴族達のどちらについても一様に批判的だった。
 彼は、ポリスの仕事はその市民達の知識を引き上げるべく導くことであって、これを実施するためには、権力は賢人達に付託されなければならない、と信じていた。
 ウォーターフィールドは、ソクラテスが、このような哲学者的国王達を見つけ出して彼等を訓練することが自分の任務だと思っていた一方で、彼等の多くが哲学を身に纏うことで自分達の野心を覆い隠すことができて幸いだと考えていたことは疑いがない、と主張する。
 ソクラテスが愛で(かつ恐らくは肉体的関係なき恋愛関係にあっ)た生徒たるアルキビアデスという名前の貴族による傲慢なシシリー島攻撃こそ、アテネのスパルタに対する敗北に何よりも貢献した。<(コラム#908、1010)>
 戦時の累次に渡る裏切りに対し、紀元前406年にアルキビアデスがアテネから永久追放となったことは、ソクラテスの政治的立場に悪しき影響があったことは間違いない。
 <ペロポネソス>戦争の終戦後、 <アテネなる>都市国家を運営するため、スパルタが30人からなる寡頭制を導入した時、ソクラテスは、またもやアブナイお友達を持っていることが露見した。
 大部分の民主制支持者達は逃亡するか、アテネから追放されたのに、ソクラテスはそこにとどまり、ウォーターフォードによれば、30人の僭主達(Thirty Tyrants)として知られるようになった、支配者たるエリート達による厚意を一般的に言って享受したのだ。
 紀元前403年に民主制支持者達が権力を再掌握した時、彼等はやらなければならないことがあった。
 ウォーターフォードの、見え隠れしているところの、しかし紛れもない結論は、結局のところ、ソクラテスは因果応報を甘受した、というものだ。・・・
 ただし、この本の様々な結論は、当然のことながら、推測にほかならない。
 そもそも、ソクラテスが本当に賢人による統治が現実的な代物であると信じていたかどうかは議論の余地があるのであって、多くの学者達は、実際にはソクラテスは、民主制が現実の政府の形としては最善であると考えていた、と主張しているところだ。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/07/20/why-socrates-died/
(7月21日アクセス)

 「・・・ソクラテスの裁判と処刑の歴史的重要性はどれだけ過大評価しても足りない。
 プラトンは、彼の恩師の死の跡を追って、そしてこの死の故に、現在我々が哲学として知っているところのものを、多かれ少なかれ創造したのだ。
 エミリー・ウィルソン(Emily Wilson)は、その素晴らしい本である『ソクラテスの死(The Death of Socrates)』の中で、「我々の歴史において、その死が同程度に重要であるのはイエスの死だけだ」と記した。
 このウィルソンの作品は、死後にソクラテスがたどった、殉教者、悪漢、そして聖者といった様々な軌跡を主として追ったものだが、それとは対照的に、ウォーターフィールドの本・・この2冊の本は対として読まれるべきだ・・は、どうして彼が殺されたか、その理由を探索したものだ。
 この理由だが、一見それは定かではないように見える。
 一体全体、ソクラテスが誰にどんな危害を加えたというのか。
 良く知られているように、彼は何も書き残していない哲学者だ。
 彼は、教えてもカネを受け取ることを拒否した。
 政治にも積極的には関わらなかった。
 彼のやったことと言えば、アテネ中を歩き回って人々に話しかけることだった。
 アテネの急進的民主制の崇拝者達にとっては、ソクラテスの処刑という問題はトラウマとなっている。
 自由な言論を掲げていた社会において、明らかに無実の70歳の人間を非難するなどということがどうしてまかり通ったのか。
 彼に対する嫌疑は、アテネの神々を認めなかったこと、新しい神々を導入したこと、そしてアテネの若い男達を腐敗させたことだ。
 しかし、一体これらすべてはどういうことなのだろうか。
 新しい神々を導入したと言う嫌疑はとりわけ奇異だ。
 確かに、ソクラテスは彼の守護霊(ダエモン=daemon=daimonion)・・彼の頭の中で小さい声で彼の行動の道案内をした・・について語ったが、それが死刑に価するようには到底思えない。
 また、ソクラテスは、プラトンとクセノフォン(クセノポン=Xenophon<。BC430?〜354年>)の著作に描かれている限りにおいては、通常の宗教的儀典を完全に遵守していた。
 (彼の遺言は、プラトンによれば、雄鳥をアスクレピウスの神(Asclepius)・・・に捧げて欲しいというものだった。)
 結局、若者達を腐敗させたという嫌疑だけが残される。・・・
 ウォーターフィールドによれば、ソクラテスが非難された最大の理由は、彼がアルキビアデスのようなとかく議論のある若い世代の人間と交友があったことだというのだ。
 著者は、著者が生き生きとした筆致で記すところの、アテネを紀元前411年から404年までの間飲み込んだ暴虐的な寡頭制の累次の革命なる反民主制的な傾向に、恐らくはソクラテスが好意を示したであろうことを巧みに描いている。
 クリティアスは、この2度目のクーデターを行った者のうち最も血なまぐさい人物だったが、ソクラテスの生徒だった。
 399年に、この哲学者<たるソクラテス>は何とかしなければならない人物となっていた。
 <彼は、>回復された民主制の顔に残っていた古傷だったのだ。
 だからこそ、ウォーターフィールドに言わせれば、彼は死ななければならなかったのだ。
 では、アスクレピウスに捧げられた雄鳥は<何を意味しているのだろうか>?
 ウォーターフィールドの興味深い理論は、これはソクラテスが自分自身を、犠牲の山羊、すなわち、傷ついた<アテネなる>都市国家の傷を癒すための犠牲、として提供したことを物語っているとする。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/feb/28/why-socrates-died-robin-waterfield
(7月22日アクセス)

 「・・・ソクラテスの裁判の時には既に<アルキビアデスは>、彼の愛人たる女性の嫉妬深い保護者、または30人<の僭主達>の命によって殺されていたが、彼の等身大以上の人格は、依然・・・影を落としていた。・・・
 ソクラテスの友人達は、彼に隠れる場所を見つけるから逃亡するように促した。
 しかし、<アテネなる>ポリスの諸法に忠誠を示し、彼は、痙攣や激しい嘔吐を伴わないところの、穏和な毒薬であるヘムロックを飲<んで処刑される>ことの方を好んだ。・・・
 <ソクラテスが自らを準えた>ファルマコス(pharumakos)、すなわち犠牲の山羊・・・は、もちろんのことながら、英語の「ファーマシー(=pharmacy=薬学)」の語源であり、ソクラテスの謎に満ちた最終的な指示であったところの、自分のためにアスクレピウスに雄鳥を捧げよ、というのは、癒しの神への訴えだったのだ。・・・」
http://www.theglobeandmail.com/books/why-socrates-died-dispelling-the-myths-by-robin-waterfield/article1179582/
(7月22日アクセス)

3 終わりに

 高校2年の時の倫理社会の授業でプラトンの『饗宴』(邦訳)と『パイドン』(英訳)を読まされたことが、私のギリシャ哲学との初めての出会いでした(コラム#814)が、大学1年の時の社会学の授業でマックス・ヴェーバーに出会ったことによって、私は、欧州大陸の人々の考え方を、「ギリシャ哲学は演繹主義・全体主義志向であるところ、欧州大陸の思想はギリシャ哲学を援用しつつ、演繹主義的・全体主義的にアングロサクソンの生き様を超克しようとするものである」という風にとらえるようになったのです。
 欧州の人々は、ソクラテスの死を契機にプラトンが創造した哲学を忠実に継受したのに対し、アングロサクソンは、民主主義がソクラテスの死をもたらした、という教訓をもっぱら継受した、と言ってよいでしょう。
 哲学がソクラテスの死を契機に生まれたのであるとすれば、さしずめ、私の世界観は、哲学との出会いを最大の契機として形成された、ということになりそうです。

(完)