太田述正コラム#3379(2009.7.6)
<トロツキーとその最期(その2)>(2009.12.2公開)

4 メキシコ亡命時代

 「・・・メキシコ・・・に1937年1月に到着すると・・・、首都の近くの小さい町であるコヨアカン(Coyoacan)の(急進的な芸術家たるフリーダ・カーロ(Frida Kahlo<。1907〜54年>)(注1)と結婚していた)画家ディエゴ・リヴェラ(Diego Rivera<。1886〜1957年>)(注2)の持ち家に落ち着き、トロツキーと彼の妻のナターリャ(Natalia)は、そこで異様な牢獄のような宮廷を維持することになった。

 (注1)http://www.youtube.com/watch?v=nE-UjfdIGEY
 (注2)http://www.youtube.com/watch?v=hL9JLugE8s8

 NKVD(内務人民委員部<。隷下に秘密警察を持つ>)に殺されるのではないかという恐れから外出することができず、トロツキーは訪問客が訪れるのを歓迎した。
 そして、彼に忠誠を誓うトロツキー主義者達からなる事務局と護衛によって支えられ、スターリンとソヴィエト連邦が堕してしまったところの奇形の労働者達の国家の性格に関する恐ろしく辛辣な論考を書くことで世界という舞台において一定の役割を演じた。
 トロツキーといちゃついた前衛芸術家達と作家達は、政治的な文脈の中でシャンパンの泡のような背景を形成した。・・・
 そのうち、最も有名であったのはフリーダ・カーロだった。
 彼女は、すぐにトロツキーの魔力にとらわれ、興が冷めるまでの短い期間彼との情事にふけった。
 これらの友人達と同僚達よりちょっと遠くにたむろしていたのはソ連のスパイや手先であり、彼等はトロツキーが警戒を緩めるのを待っていた。・・・」(D)

 「・・・スターリンによって追放されたトロツキーと彼の妻のナターリャは、トルコ、フランス、そしてノルウェーに住んだ後、1936年の画家のディエゴ・リヴェラの招きを受けて<メキシコに赴き>、コヨアカンの青の家に経費をリヴェラ持つ形で住んだ。・・・
 彼のメキシコ到着は、有名なモスクワの見せ物裁判の第二波の開始時期とたまたま一致していた。
 この裁判では17人の被告が反ソ・トロツキー主義者達の陰謀の黒幕として非難された。
 この裁判中、連日のように、トロツキーは「彼に対してなされた種々の非難が矛盾しており、不可能であり、ばかげている」と指摘するプレス・リリースを発出した。・・・」(C)

 「・・・1930年代のメキシコは、反スターリン主義者達の避難所になっていた。
 メキシコの指導者であったカルデナス(Cardenas<1895〜1970年。大統領:1934〜40年>)大統領(注3)は、米英の会社から石油資源を没収し、メキシコを政治的難民の安息所にしようとし、トロツキーの滞在を歓迎した。・・・

 (注3)傑出した人物であり、ぜひ、↓に目を通されたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A1zaro_C%C3%A1rdenas

 トロツキーは、メキシコの最も有名な左翼の芸術家たるディエゴ・リヴェラの庇護の下に<当地に>やってきた。
 彼のメキシコシティーの諸壁画は、幸せなメキシコの農民等をソ連様式で描いたものであり、トロツキーはそれを痛く気に入った。
 <また、彼の>壁画のうちの一つは、第一次世界大戦を素材としたものであり、トロツキーを、野性的な眼を持った預言者然とした姿で赤軍の事実上の司令官として描いた。
 しかし、リヴェラはすぐにトロツキーの硬直したイデオロギーとその人を小馬鹿にしたような諧謔に嫌気がさした。
 彼等の友情は、リヴェラの妻であったところの、激情を内に秘めたハンサムな画家たるフリーダ・カーロがトロツキーと情事にふけるようになって一層悪化した。
 彼女はトロツキーを、そのピンと伸びたあごひげから、「かわいいヤギちゃん(Little Goatee)」と呼んだ。
 いつも拳銃を持ち歩いているような男であったリヴェラは、復讐を欲した。
 後に、彼は、そこで暗殺させようとトロツキーをメキシコにおびき寄せたと主張したものだ。・・・」(B)

 「・・・この本は、フリーダのトロツキーとの個人的関係について、余り具体的なことは記していない。・・・
 <著者は>ゴミのような情報集めに専念したかのようだ。
 <フリーダがトロツキーに付けていた渾名とか、彼女の>自画像のうちの一つに登場する猿は、彼女の日系米国人の元彼氏を表しているとか、リヴェラの暴力的傾向とか・・。・・・
 <或いはまた、>トロツキーの秘書が、フリーダは彼女の人生哲学を「セックスをして風呂に入り、それからまたセックスをする」ことであると語っている<とか・・>。
 ・・・この本は、フリーダがトロツキーとの情事にふけるに至った考えられる理由を3つあげている。<彼女が>とにかくセックスが大好きであったこと(promiscuity)、(彼女の妹と寝た)リヴェラに対する復讐、そして<トロツキーのような>有名人への心酔だ。
 <稀代の芸術家であるフリーダの恋について、もうちょっと気の利いたことが書けなかったものか。>・・・」(E)

5 暗殺計画

 「・・・ドラマの最終章は、「あひる作戦(Operation Duck)」という奇妙な名前がつけられたNKVDの作戦だった。
 スターリン自身の了解の下に1939年に開始されたこの作戦の唯一の目的は、トロツキーを消すことだった。
 この頃には、ソ連の偏執狂的プロパガンダ上はともかくとして、トロツキーはもはやスターリンにとってほとんど脅威ではなくなっていた。
 しかし、スターリンはトロツキーが自分を矮小化していることを憎んでいた。
 トロツキーの家族たる息子達、及び最初の妻等々が全員消されるか収容所送りになった。
 残っていたのはトロツキーだけだった。・・・」(D)

 「・・・1939年3月にスターリンは、クレムリンで、彼の体制にとっての大嫌いな人物(bete noire)としてのトロツキーの有用性の耐用命数が尽きたとして、彼の処刑を命じた・・・。
 この時の会議の模様だが、参集したのは、NKVDの悪名高い長であったラヴレンティ・ベリア(Lavrenti Beria)と暗殺専門のエリート部隊の長であったパヴェル・スドプラトフ(Pavel Sudoplatov)だったが、議題が歴史的に極めて重要なものであったにもかかわらず、まことにもって日常的に進行した。
 スターリンは、灰色の党上着と古びただぶだぶのズボンを着ていた。
 彼等は、緑の粗いラシャの布で覆われた長方形のテーブルに座った。
 ベリアは、彼の鼻眼鏡の奥から視線を投げかけていた。
 かなり長い議論をした後、スターリンは、スドプラトフに「行為」を遂行するための突撃チームをつくるよう指示し、「トロツキーは一年以内に消されなければならない」とだけ述べた。・・・
 自分の以前の股肱の同僚達の処刑は、トロツキーの気を滅入らせた。
 しかし、NKVDによるパリでの彼の愛する息子のレフ(Lev)の殺害こそ、スターリンの復讐への願望の深さを指し示すものだった。
 米国でのトロツキー運動の資金や要員のおかげで青の家の警備はより厳重になった。・・・」(C)

(続く)