太田述正コラム#3677(2009.11.30)
<世界大恐慌と日米>

 (投稿がほとんどなかったこと、紹介すべき記事も極めて少なかったことから、急遽、新たなコラムを書き上げました。)

1 始めに

 コラム#3674(未公開)の末尾で、「米国の人種主義的帝国主義の19世紀末の起源<と>・・・ 先の大戦時における米国の対日人種主義的帝国主義・・・の両者を結ぶミッシングリンクが、ジョン・マクマレーの・・・『平和はいかに失われたか』・・・だと思います。」と記したところです。
 マクマレー描くところの、戦間期の米国の対極東政策が米国が故意につくりだしたミッシングリンクであったとすると、重大な過失によってつくりだしたミッシングリンクが大恐慌であったと私は考えています。
 そのあたりのことを、大恐慌に関する日本語と英語のウィキペディアを一部対比的に用いてご説明しておこうと思います。

2 世界大恐慌と日米

 (1)日本語ウィキペディア

 ≪原因≫
 ・・・1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
 ・・・共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。

 ≪世界化≫
 ・・・植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。
 ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。

 ≪日本≫ 
 ・・・特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。この決定は「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、昭和恐慌から太平洋戦争へ至る道筋を作ったと言われる。・・・
 大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職難の者(学歴難民)や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。・・・
 国民が困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が代表者を国会に送るようになり労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法を改めて最高刑を死刑にし、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動の取締りを強化。高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。
 1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、満州や台湾など旧植民地アジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。
 この間「満州は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 (2)英語ウィキペディア

 ≪原因≫

 ・・・ミルトン・フリードマンや現在の連邦準備制度理事会議長のベン・バーナンキ(Ben Bernanke)を始めとするマネタリスト達は、大恐慌は、もっぱら、米連邦準備制度の不適切な政策判断と銀行制度における継続的危機の結果としての金融収縮によってもたらされたと主張する。・・・
 恐慌が続き、ローズベルトは、公共事業、農業補助金、その他の措置を試みて経済を再出発させようとしたが、予算の均衡を決して完全に放棄しようとはしなかった。
 ケインズ主義者達に言わせれば、これは経済を改善はしたが、ローズベルトは第二次世界大戦への参戦までは経済を不況から脱出させるだけの十分な支出を行わなかったのだ。
 
 ≪世界化≫

 --世界貿易の崩壊(breakdown)--

 多くの経済学者達は、1930年より後の国際貿易の著しい減少が、とりわけ海外貿易に大きく依存している諸国において、強硬を悪化させることに寄与したと主張してきた。
 大部分の歴史家達や経済学者達は、米国のスムート・ホーリー関税法(1930年6月17日制定)を、国際貿易を著しく減少させ、他の諸国からの報復諸関税を招き、恐慌を悪化させたとして、これについても併せて批判する。
 米国においては、貿易は、経済全体の小さい部分しか占めておらず、農業といった少数の事業だけの問題だったが、貿易は、多くの他の諸国においては、はるかに大きな事柄だった。・・・

 --金本位制--

 ・・・すべての主要通貨は、大恐慌の間に金本位制を離脱した。
 英国はそれをやった最初の国だった。
 ポンドに対する投機的攻撃と枯渇しつつあった金準備に直面し、1931年9月に英国銀行はポンド紙幣を金に交換するのを止め、ポンドは外国為替諸市場で変動させられることになった。
 英国、日本、そしてスカンディナヴィア諸国が1931年に金本位制を離脱した。
 イタリアや米国といった他の諸国は、1932年ないし1933年まで金本位制を維持し、少数の「金ブロック」と呼ばれた、フランスが率い、ポーランド、ベルギー、スイスを含む諸の国は、1935年から1936年まで金本位制を維持した。
 後の分析によれば、早く金本位制から離脱した国ほど経済が回復するのが早い傾向があった。
 ・・・これは発展途上国にもあてはまる。・・・

 ≪日本≫

 大恐慌は、日本に強い影響を与えなかった。
 1929年から31年の間、日本経済は8%ずつ縮小した。
 しかし、日本の高橋是清大蔵大臣は、ケインズ的経済諸政策と後に認定されるに至ったものを<世界で>初めて実施した。
 第一に、赤字政府支出を用いた大きな財政刺激策だ。
 第二に、通貨の切り下げだ。
 高橋は、日本銀行を赤字政府支出を不妊化(sterilize)するために用い、インフレ圧力を最小化した。
 計量経済学的諸研究は、財政刺激がとりわけ効果的であったと認定している。
 <また、>通貨の切り下げはただちに効果を発揮した。
 輸出市場では、日本製の繊維製品が英国製の繊維製品にとって代わり始めた。
 赤字支出は、最も効き目があったことが証明された。
 赤字支出は、<主として>陸海軍の軍需品の調達にあてられた。
 <そのおかげで、>1933年には、日本は既に不況を脱していた。
 <それどころか、>1934年には、高橋は、経済が過熱する危険性があることを悟り、インフレを回避するために、<主として>軍備と軍需品に向けられていた赤字支出の削減に動いた。
 これは、とりわけ陸軍内のナショナリスト達からの強くかつ迅速な、そして否定的な反応を招き、2・26事件において彼は暗殺されるに至った。
 これは、日本政府の文官官僚達を萎縮させた。
 <こうして、>1934年からは、軍部の政府における影響力(dominance)がどんどん大きくなって行った。
 赤字支出を削減する代わりに、政府は価格統制と配給諸制度を導入することによってインフレを抑制したが、インフレを解消することはできず、この問題は、第二次世界大戦が終わるまで続いた。
 赤字支出は、日本に対して変革的効果を持った。
 日本の工業生産は1930年代中に倍増した。
 1929年には、日本の最大の企業群は軽工業、とりわけ繊維会社で占められていた。(日本の自動車メーカーの多く、例えばトヨタ、はそのルーツが繊維工業だ。)
 ところが、日本経済における最大の企業群は、1940年には軽工業から重工業に置き換わるに至ったのだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Depression

3 終わりに

 日本語のウィキは、フーヴァー(フーバー)大統領の政策の誤りを指摘しているのに対し、英語のウィキは、むしろローズベルトの政策の誤りを指摘していること、日本語の方は、執筆者がマルクス主義の影響からまだ免れていないのか、日本の昭和期を否定的にだけとらえているのに、英語の方はかなり肯定的にとらえている・・ただし、拙著『防衛庁再生宣言』234〜235頁で引用した、米フォーチュン誌の1936年の日本特集号の記事のように、日本型経済体制の成立に言及していない恨みが残る・・こと、に気づかれたかと思います。
 要するに、日本語のウィキの方は、米国を中心とする、最新の経済史の成果を踏まえていない、ということになりそうです。

 以上を踏まえて、英語のウィキの方に主として拠って、私なりに、冒頭で言及したミッシングリンクを要約的に記すと、次のようになります。

一、米国を発生源とする世界恐慌に対処するため、日本は、ケインズ主義的な赤字政府支出政策を採用することによって、いち早く恐慌から回復し、日本型経済体制の構築とあいまって、高度経済成長を軌道に乗せた。
二、共産化したロシアの脅威、及びこのロシアの影響を受けたことにもよる、支那情勢の一層の流動化に対処するため、上記支出は軍事面に重点が置かれた。
三、(フーバー大統領の反対を押し切って制定された)米国におけるスムート・ホーリー法の制定は、世界中のブロック経済化を招き(注)、北米や欧州並びにそのそれぞれの植民地から閉め出された日本にとって、支那市場と満州の資源の重要性が飛躍的に高まった。
 
 (注)1929年から34年の間に、世界貿易は、66%も減少した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Smoot%E2%80%93Hawley_Tariff_Act (太田)

四、このため、日本は支那の内政への関与と満州の保護国化政策を推進せざるをえなくなった。
五、しかし、潜在的世界覇権国たる米国は、この間、一貫して、(ロシアの脅威に備えるとともに支那情勢の安定化に向けて)日本と共同歩調をとることを拒み(マクマレー『平和はいかに失われたか』参照)、あまつさえ、次第にファシスト政党たる中国国民党に肩入れするようになり、高度経済成長を続けていた、極東の小覇権国たる、「自由民主主義」国日本を追い詰め、日米戦争を招来した。

 一〜四は、米国の重大な過失によって引き起こされたものであり、五は、米国の故意によって引き起こされたもの、ということになります。
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太田述正コラム#3678(2009.11.30)
<政治的宗教について(その2)>

→非公開