太田述正コラム#3491(2009.8.29)
<人間主義の普遍性(続)>(2009.9.27公開)

1 始めに

 人間は人間(じんかん)的存在であるけれど、それが人間主義社会であるかどうかは、TPOに左右されます。
 そのあたりのことをもう少し考えてみましょう。

2 罪と恥

 ルース・ベネディクトは、『菊と刀』で、欧米は罪の文明であるのに対し、日本は恥の文明であるとしました(コラム#1046、1054)。
 彼女が、欧州とアングロサクソン世界を一括りにしていることだけをとっても、しかも、その人種差別的含意からしても、こんな主張はナンセンスですが、罪と恥を区別して考えること自体は重要です。
 人間が人間的存在であることを前提として、村八分になることをもっぱら恐れる意識が恥であるのに対し、他の人間のために「同情」を寄せなかったり、「勇気」を発揮しなかった(コラム#3489)時に感じる後ろめたい意識が罪である、と考えることができのではないでしょうか。

 「・・・子供達は、普通、生まれてから2年目の間に罪を意識し始める。・・・
 子供達は、悪いことをしたくなった時や、規範や規則を破りそうになった時、鋭く激しい葛藤と否定的な感情にとらわれる・・・。
 彼等は、しばしば無意識に、過去において自分がどれだけひどい思いをしたかを思い出す・・・。
 恥というのは、悪い行為をしたので自分は悪い人間であるという感情だが、この感情は不健康であると言ってよい・・・。これに対し、罪の意識は、悪い行為そのものに焦点を合わせており、生産的たりうる。・・・
 <だから、>悪い行為に焦点を合わせる<べきなのだが、それ>だけではなく、いかにそれを是正するかにも焦点を合わせるべきなのだ・・・。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/08/25/science/25tier.html?hpw=&pagewanted=print
(8月25日アクセス)

 つまり、人間主義を志向する気持ちを人間なら誰しも、物心がついた時から持っているというわけです。

3 何が人間主義の発露を妨げているのか

 では、何が、この人間主義の発露を妨げているのでしょうか。
 レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit<。1961年〜。米国の著述家>)が上梓した 'A PARADISE BUILT IN HELL--The Extraordinary Communities That Arise in Disaster' の書評にその手がかりがありそうです。

 「・・・災害時には、人間の本性が発現し、寛大と協力の瞠目すべき精神によって取って代わられる、ということが惹き起こされる。
 彼女は、「災害時は、社会的騒動<が起こりがちな>時だが、在来的な信条や役割という足かせが消え去り、様々な可能性が開かれる時でもある」と記す。
 想像を絶する不幸に苛まれている人々は、時に、野蛮なことをやらかすどころか、至福の利他的行為をやってのけ、他人を助けるためにあらゆることをやって自らを慰めるものなのだ。
 ソルニットは、災害を、逆説的だが、彼等の人生における最も素晴らしい(great)瞬間の一つとして記憶している、という事例を数多くあげている。
 この<ような人々の>反応は、あの大恐慌を精神的かつ社会的な豊かさの時として思い起こす人が若干いることと似た話だ。
 ソルニットは、この現象を、毎日の生活が「既に一種の災害であるため、実際の災害が我々をそこから解放する」からであることを示唆する。
 彼女は、資本主義は稀少性を所与のものとしており、我々全員に対し、互いに容赦なく競争しあうよう求める、と指摘する。
 社会を完全なものにするために我々が注ぐべき心理的(mental)かつ精神的エネルギーが、そうではなく、買い物に行ったりとか精神療法を受けたりといった、我々自身の生活を完全なものにする方向へと誘導されてしまっている(channeled)というのだ。
 <こうして、>次から次へと我々自身に焦点を合わせ続けることによって、我々は、退屈し、疎外され、不幸になっている。
 ピョートル・クロポトキン(Peter<(Pyotr) Alexeyevich> Kropotkin<1842〜1921年。ロシアの無政府主義者>)に賛意を表しつつ、ソルニットは、我々は、自然状態においては、部族的で共同体志向(communal)であると述べる。
 「天国の可能性は、既に我々の内部に初期設定されている」と彼女は記す。
 災害は、我々を一時的にこの優雅なる初期設定へと引き戻す。
 だからこそ、人々は驚くべき感謝の念をもってその経験を思い出すのだ。
 ソルニットは、当局が災害の際にどんなふるまいをするかについても取り上げている。
 「その掌にある人々は、「我々が簡単に反社会的爆弾の安全弁を外してそれを爆発させる機会をうかがう」ものと思い込んでいる」と彼女は記す。
 「人々がすぐパニックに陥るという思い込みが、大衆について、それを閉め出すか軍隊によってコントロールされるべき問題<ある存在>であると<いう前提で>扱う口実を与えている」と。
 彼女は、「ハリウッドは、この思い込みを助長するのに熱心だ」と付け加える。
 そして、「地震(Earthquake)」、「デイ・アフター・トゥモロー(The Day After Tomorrow)」ほかの多数の映画の笑うべき例をあげる。
 より具体的に、彼女は実際の出来事を描写する。
 例えば、兵士達が<1906年の>サンフランシスコ大地震の後、一般住民を銃撃したとか、大混乱が生じることを恐れてスリーマイル島(Three Mile Island)<の1979年の原子炉事故>について、本当の状況を隠したとか。
 <大衆が>すぐパニックに陥るとの誤った思い込みは、「特定の制度的利益を補強する」と彼女は記す。
 彼女は、コロラド大学の社会学者のキャスリーン・ティアーニー(Kathleen Tierney)のエリート・パニックの叙述に同意しつつこれを引用する。
 すなわち、それは<エリート達の>、「社会的無秩序、貧者、及び少数民族と移民への恐れ、略奪と財産犯罪に関する強迫観念(obsession)、致死的な力に訴えようとする<気持ち>、噂に基づいて行動をとる<傾向>」<というパニックなのだ。>・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/08/21/AR2009082101111_pf.html
(8月22日アクセス)

 要するに、アングロサクソン社会(=本来的資本主義社会)では、とりわけ、その社会が時に陥ることがある、裸の個人主義や、資本主義の病理形態たる市場原理主義の下では、人間の本性たる人間主義が抑圧されてしまっている、ということです。
 この抑圧が、災害時には取り払われて、人間の本性が回復する、というわけです。
 日本のような本来的人間主義社会においても、災害時には、人々の人間主義的傾向が一層強まります。
 ただし、その場合、いかなる「人」を人間主義の対象たる「人」と人々が意識するかが問題になってきます。
 災害時には、エリートのみならず、大衆もまた、「少数民族と移民」を「人」とは意識しなくなりなりがちであり、関東大震災の時にエリートと大衆の「協力」の下で朝鮮人虐殺が行われたのはその典型例です。
 戦争もまた、災害の一種、というか災害の最たるものであり、だからこそ、人々は、戦場体験を「驚くべき感謝の念をもって・・・思い出すの」です。
 その戦場において、「人」とは意識されないところの、外国人たる一般住民が虐殺され、強姦されることは何ら不思議ではありません。

 日本人にとっての課題は、世界、就中アングロサクソン社会中、非人間社会化した部分の矯正であると同時に、自らの潜在意識における人間主義の「人」の範囲の着実な拡大・・最終的には全人類までの拡大・・である、と私は思うのです。