太田述正コラム#3425(2009.7.29)
<イラン燃ゆ(補遺2)>(2009.9.3公開)

1 始めに

 イラン騒擾は、なかなか完全鎮静化とはいかないようです。
 すでにこのシリーズの中で、我々が抑えておくべきイランの歴史的事実を累次ご紹介してきたところですが、この際、もう少々付け加えておくことにしましょう。

2 抑えておくべきイランの歴史的事実(追加)

 「・・・1935年にイラン人達は、自分達がペルシャではない、イラン・・イスラム以前の「アーリア人達の土地」・・に住んでいることを発見した。
 これは、1952年に王位を簒奪した実力者たるレザ・シャー(Reza Shah)の仕業だった。
 レザ・シャーは、イランにおける、<近代トルコ建国の父の>アタチュルクか<エジプトの>ナセルといった趣の近代主義者にして世俗化推進主義者だった。
 彼は、ナチスドイツのお友達でもあり、連合国によって1941年に退位させられた。
 1976年には、イラン人達は、自分達が預言者<ムハンマド>の時から起算される1355年ではなく、キュロス(Cyrus)大王の時から起算される2535年という、異なった1000年紀に生きていることを発見した。
 これは、レザ・シャーの息子の仕業だった。
 彼は、1953年のクーデターで王位に就いた。(<黒幕の欧米が犯した>この重大な歴史的犯罪の破滅的結果は未だに我々の現前にある。)・・・
 ムハマッド・レザ・シャー<のもう一つの問題点は、彼が中途半端だったことだ。>
 <一言で言えば、父親の>レザ・シャーがヴェールを身につけていた女性達をむち打った一方でホメイニはそうしなかった女性達をむち打ったわけだが、<息子の>ムハマッド・レザ・シャーは、そのどちらもやらなかった<ということだ>。
 1979年<のイスラム革命>以降、イランは戦闘的で暴走的な再イスラム化の下に置かれた。
 ゾロアスター教の時代は、ジャヒリーヤ(jahiliyyah)、すなわち、無知と偶像崇拝の未開のスラムにしてすべての善良なるイスラム教徒にとっての悲惨な困惑であると宣言された。・・・
 <この>イスラム革命は、1917年に生起した二つのロシア革命と比較することが啓蒙的だ。
 2月革命は大衆の叛乱であり、10月革命はレーニン主義者達による(不能者たる中間期における臨時政府に対する)クーデターだった。
 トロツキーは、ボルシェヴィキ達は権力が街の中に横たわっているのを見つけて「それを羽のように拾い上げた」と述べたものだ。・・・
 1979年1月16日、ムハマッド・レザ・シャーはテヘランから飛行機でカイロに亡命した。
 <入れ替わりに>2月1日、アヤトラ・ホメイニは、亡命先のパリ・・・から飛行機でテヘランに戻った。
 こうして政治革命は終わり、今度は文化革命が始まったのだ。
 臨時政府は、次第にコミテー(komitehs。モスクに拠点を置く民兵で後のバシジ(Basij))、革命防衛隊(後のパスダラン(Pasdaran)ないしイラン軍)、そして革命諸法廷(旧体制の生存者達と様々な他の望ましからぬ人物達に荒っぽい判決を下した)によって堀崩されて行った。
 11月4日に、一群の敬虔なる学生達で自然発生的に米大使館に侵入して53人の人質をとった。
 ホメイニは大サタン<たる米国>に対してつきつけられた<この>Vサインを操り、おかげでその直後に実施された新しい憲法<の国民投票において>、投票した1700万人中賛成票が99.5%投じられ、イスラム神政制に祝福が与えられた。
 しかし、まだこの0.5%を何とかしなければならなかった。
 その後ホメイニは、あらゆる方面からの激しい反対に直面した。
 そのうち最も恐るべきはマジャヘディン・エ・ハルクからのものだった。
 それは、その約15年前にシャーに対する反対派として設立されたところ、このムジャヘディン・・マルキストとイスラム左派と根っからの女性権利論者からなっていた・・は約50万人のシンパがおり、10万人の経験豊富な戦闘員からなるゲリラ軍を集めることができた。
 ホメイニが彼等を「非イスラム的」であるとして新政治秩序から除外した時、彼等はテロに打って出た。
 1981年には・・・ムジャヘディンは一ダース単位でムラー達を爆弾で殺し続けた。(テヘランでは一撃で74人を殺害したことがある。)
 そして彼等は、その年の後半には1000人以上の政府の役人達を暗殺した。
 何が起こったかというと、テロリスト的な内戦だった。
 9月までの間、ホメイニの革命防衛隊は「神に対する戦争を行った」として毎日50人もの人々の処刑を続けた。・・・
 革命的熱狂に対するに宗教的熱狂によって煽り立てられ<た内戦だった>が、結局ムラー達が血なまぐさい勝利をあげた。・・・
 スターリンは、しばらく経つと、「一国社会主義」で満足した。
 しかし、ホメイニは、地上のすべての国におけるシーア派神政制を公然と欲したのだ。
 イラン・イラク戦争の間中、ホメイニは、外国であるところの、バーレーン、クウェート、レバノン、そしてサウディアラビアで、爆破、暗殺の企み、そして武装転覆活動を行わせた。
 メッカでは、巡礼(Haji)が毎年のように煽動の舞台となった。
 1987年にはイラン人の民兵達とサウディアラビアの機動隊とが衝突し、400人以上が死亡した。
 そしてイラクでは、1979年にサダム・フセインが友好の震える手を新生イランに伸ばした。これは、シャーとの間で彼が確立したデタントの継続を明確に希望するものだった。 ところがイランは、これに対し、分離主義的なクルド人への1975年から中止されていた支援を再開するとともにシーア派地下組織に対する支援も再開した。
 また、<イラクの>副首相と情報相を暗殺しようとし、1980年4月だけで少なくとも20人の<イラクの>著名な役人達を殺害した。
 ホメイニは、その間、在バグダッドの駐イラク大使を召還した。
 そして9月にはイランは、国境の都市である<イラクの>ハナキン(Khanaqin)とマンダリ(Mandali)に砲弾を撃ち込んだ。
 1980年から1988年にかけてのこのイラン・イラク戦争の間に、・・・イラクは8回も停戦提案をしている。
 1回目は開戦後12日目の1980年10月5日であり、最後のは、終戦の5週間前の1988年7月13日だった。
 ホメイニの戦争目的は、イラクの神政制化ないしは非サタン化だった。・・・
 1997年時点では、イランの体制派は、自信を持つに至っており、ムハマッド・ハタミが大統領選挙で意外にも・・・69%の得票を得て・・・勝利するのを許した。
 ハタミは、テクノクラートのムサヴィ・・イラン・イラク戦争中は、ハメネイよりも右派だった・・よりもはるかに強力なリベラルだった。
 「アヤトラ・ゴルバチョフ」と愛されつつはやされたハタミは、すぐに米国と「思慮に富んだ(thoughtful)対話」を開始したいと言い始めた。・・・
 2001年6月にハタミは実に78%の賛成票を得て再選された。
 その7ヶ月後にジョージ・W・ブッシュの「悪の枢軸」演説・・米国史上最も破壊的な演説の一つ・・があり、テヘランの春は終焉を迎えた。
 まさに、ブッシュはイランの右派への天からの贈り物だったのだ。・・・
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jul/17/martin-amis-iran
(7月17日アクセス)

3 終わりに

 イランの歴史は、私の歴史へ対位法的アプローチを持ち出すまでもなく、以上を読まれればお分かりになるように、ペルシャ帝国の時代の栄華への憧憬とシーア派イスラム教の中心としての矜持とが織りなす絨毯のごとくである、と言えるでしょう。
 しかし、問題なのは、この二つのライトモチーフのどちらに関しても、換骨奪胎するくらいの読み替えを行わない限り、近現代には必ずしも適合的でないことです。
 しかも不幸なことに、近現代において、イランは、外国勢力の頸城によって束縛され続けたという歴史があります。

 「・・・1891年の、タバコ専売権(tobacco rights)を一人の英国市民に与えたことに対するタバコ暴動(Tobacco Revolt)、1906年から1907年にかけての憲法革命、1951年から1953年にかけてのモハマッド・モサデグ首相の下でのアングロ・イラニアン石油会社の国有化、そしてそれ自体がかなり反植民地闘争の色彩を帯びていたイスラム革命、は、イランの独立への道における不可欠な諸標識だった。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jul/28/iran-protests-martin-amis
(7月29日アクセス)

 しかし今や、イランは、完全に外国勢力の頸城の束縛を脱して独立を回復しているわけです。
 従って、イランの課題は、上述の「換骨奪胎するくらいの読み替え」をイラン史の二つのライトモチーフについて、イランが行えるかどうかにかかっている、と私は思うのです。