太田述正コラム#3094(2009.2.13)
<米国・バチカン関係史>(2009.8.24公開)

1 始めに

 米国とバチカン(法王庁)の関係の歴史を扱ったものとしては初めての本(イタリア語から英語に翻訳)が出ました。
 イタリアのコリエレ・デラ・セラ(Corriere della Sera)紙の政治コラムニストのマッシモ・フランコ(Massimo Franco)による 'Parallel Empires: The Vatican and The United States -- Two Centuries of Alliance and Conflict' です。
 この本の書評2本、本が出る前に著者が書いたコラム、そして同じく本が出る前にこの本から引用した記事、に拠って、マッシモが言っていることをご紹介しましょう。

 (以上及び以下は、特に断っていない限り、
http://www.ft.com/cms/s/2/19d8e162-ee5b-11dd-b791-0000779fd2ac.html
(2月8日アクセス)、
http://www.historybookclub.com/ecom/pages/nm/product/productDetail.jsp?skuId=1033284401
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-franco14apr14,0,3446095,print.story
http://www.worldpoliticsreview.com/Article.aspx?id=3066
(以上2月13日アクセス)による。)

2 マッシモが言っていること

 「・・・1984年1月、米独立宣言からほとんど208年後、米国はついにバチカンと完全な外交関係を樹立した。ソ連や中共でさえ法王庁(Holy See)よりも早くワシントンに大使館を構えていた。・・・
 1860年台には両者の緊張は高まった。法王庁(papacy)は米南北戦争で南部を支援した疑いを持たれたし、エイブラハム・リンカーンの暗殺者の共同謀議者の一人は法王軍にいたことがあった。よって、1868年に両者の関係は断絶した。
 その背景にあった悩ましい問題は、米国における教会と国家の分離であり、かつまた、19世紀末に何百万人もが欧州から米国に移住してくるまで、カトリック教徒は米国の小さな少数派であって、米国のアイデンティティーはプロテスタント起源であったことだ。
 現在では、カトリック教徒は米国の総人口の4分の1にちょっと欠けるくらいに達している。
 しかし、ジョン・F・ケネディが最初の(そして現在までのところ唯一の)カトリック教徒たる米大統領になった1961年時点では、バチカンが彼に影響を及ぼしていると受け止められる危険性について、米国政府は極めて深刻に考えていたことから、法王ヨハネ23世からの単なるお祝いのメッセージすら秘密にされたほどだ。
 1978年にポーランドのカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Jozef Wojtyla<。1920〜2005年>)が法王ヨハネ・パウロ2世に選出され、かつ1981年に反共産主義者のロナルド・レーガンが米大統領になって、すべてが変わった。
 二人ともポーランドの労組である連帯(Solidarity)を維持しようと努力し、中米における左翼の叛乱者達や「解放神学」を信奉する神父達を押さえ込もうとした。・・・
 (以上、ファイナンシャルタイムス上掲による)

 「1788年、バチカンは、新しくつくられた米国という国の最初の大統領になったジョージ・ワシントンに接触した。新世界における司教を指名し、どんどん増えつつあった欧州からの移民達と、もともとそこにいた原住民の人々を獲得しようとしたのだ。
 ワシントンは<関係樹立に>同意したが、米国政府とバチカンの間の緊張関係が既に現れ始めていた。
 そうだとしても、この二つの強力な「帝国」が1984年になるまで完全な外交関係を結べなかったのは驚くほかない。・・・」
 (以上、historybookclub上掲による。)

 「・・・1863年の報告書がある。それは米国への最初の法王の使節であったガエターノ・ベディーニ(Gaetano Bedini)司教によって書かれたものであり、面白い挿話が記されている。
 彼はワシントンのジョージタウンにあったプレゼンテーション教会(Presentation Convent)の礼拝堂でミサを言祝いでいた。
 そこへ一人のプロテスタントの女性が入ってきた。
 何しに来たのか問われると、彼女はあけすけに法王ピオ(Pius)9世の幹部らの頭に角が生えているというのは本当か確かめに来たと答えたというのだ。
 それより1世紀半後の<昨年4月、>一人の法王が国家元首として、かつまた米国の大統領の尊敬されるべき客人としてホワイトハウスに入った。この<現法王>ベネディクト(Benedict)16世の訪問は、歴史的な出来事だった。これは、わずか24年前に行われた米国とバチカンとの完全な外交関係の樹立以来、法王の初めての公式訪問だった。
 それまでホワイトハウスを訪れた法王は、1979年10月6日に訪問したヨハネ・パウロ2世だけだった。しかし、カーター大統領との会談は、非公式なものだったのだ。・・・
 初期の米国で、カトリックの神父達は英語がしゃべれなかったのでラテン語かフランス語で説教を行った。このため、彼らはほとんど人々を改宗させることができなかった。
 米国人の間では、カトリック教は、アイルランド、イタリア、フランス、及びポーランド移民の宗教としてはともかく、真のヤンキーの宗教としてはふさわしくないと思われていた。それどころかそれは、貧乏人の宗教であるとみなされていた。
 バチカンはバチカンで、米国人の間で広く、法王が陰謀家的存在であって米国の自由と独立に脅威を与える存在であると見られている、という事実を認識できていなかった。

 <米・バチカン関係史において重要な年は>第一に1867年だ。
 その時点では、米国はローマの法王領に大使館ではなく「特別代表部(special legation)」しか置いていなかった。その目的は、法王庁が、当時の欧州における急速な社会的・政治的変化に関する「諜報大交易所(emporium)」であったことから、そこで聞き耳をたてたいというものだった。
 しかし、法王庁と在ローマの米国のプロテスタントの居留民達との間の緊張・・後者は自分達の教会をローマ旧城壁の外に移すよう強いられた・・がこの2者の関係を悪化させた。
 この年の2月、米議会はローマ代表部の予算を削除し、両者間の事実上の外交関係は終焉を迎えた。
 しかし、その裏に表にはされていない理由があった。
 法王の国は成立しつつあったイタリアの部隊によって征服されようとしていたのだ。
 そこで米国政府は、バチカンを、滅亡寸前の失敗国家(failed state)であると考えていたわけだ。

 重要な年の第二は1939年だ。
 この年、フランクリン・D・ローズベルト大統領は、彼の私的代表をバチカンに送った。公式にはそれは「人道的使節」だったが、本当のところは米国は、ヒットラーの地中海における同盟国であったファシストのイタリアを間近で観察したかったのだ。
 もう一つのほとんど外からは見えない同盟がローズベルトと当時の新しい法王ピオ12世との間で形成された。
 この二人の関係は、それより3年前に、米国の枢機卿のフランシス・スペルマン(Francis Spellman)によって注意深くお膳立てされたものだ。すなわち、彼は大統領と、この将来法王となるところの人物<(法王庁官房長ウエゲーネ・パチェリ枢機卿(Cardinal Secretary Eugene Pacelli )>とをローズベルトの母親のニューヨークの家で引き合わせたのだ。
 それはホワイトハウスと法王庁との間の反共産主義同盟へと発展し、冷戦期を通じてこの同盟関係は維持されることになる。
 しかし、完全な外交関係の樹立は、延ばされ続ける運命にあった。
 歴代の法王にとっては遺憾至極なことだったが、爾後の歴代米大統領達は法王庁に大使を派遣すればプロテスタントの猛烈な怒りを買うのではないかと恐れたのだ。
 唯一のカトリック教徒たる大統領のジョン・F・ケネディでさえ、バチカンを敬して遠ざけ続けた。・・・

 こうして重要な第三の年である1984年に至る。
 これはレーガンがバチカンに大使を送り、法王使節(nuncio)・・法王庁の大使に相当する・・を受け入れることに同意した年だ。
 それは、「悪の帝国」たるソ連に対する戦いにバチカンが強力かつ霊妙に支援をしてくれたことへの報償だった。
 法王庁は、レーガンと米議会がついに法王に対する宗教的偏見の残滓と感じられたものを拭い去ったことに満足した。・・・」
 (以上、ロサンゼルスタイムス上掲による。)

 「・・・2003年3月の初め、ジョージ・ブッシュ大統領は、法王ヨハネ・パウロ2世の特使に対し、イエスが彼をイラクに侵攻するかどうか決定するにあたってお導き下さっていると語った。
 バチカンの上級外交官のピオ・ラギ(Pio Laghi)枢機卿は、法王からの、米国がイラク攻撃を思いとどまるようにとの土壇場での要請を携えてワシントンにやってきたのだ。・・・
 ブッシュはラギに対し、「イエスはアルコール中毒から私を救ってくださり、」今やイエスは戦争を行うべきかどうかという、より困難な決定をするにあたって自分をお導き下さっていると伝えた。・・・
 ブッシュは聖書から言葉を引用した。彼は自分が聖なるものによって鼓吹されているかのように語り、ふるまった。そしてこの戦争が正義の悪に対するものであると心の底から信じているように見えた。
 「私達は、やっとの思いで戦争の結果どうなるかを語り始めた。私はブッシュに尋ねた。「イラクを占領したらどうなるか分かっておられるのか。混乱だ。シーア派、スンニ派、そしてクルド人の間で戦闘が始まる」と。しかし、当時、ブッシュは民主主義の勝利のことしか頭にはなかった。」
 任務を果たせなかったと思いつつ、枢機卿が去った時、ブッシュはまだ法王の書簡を開けようともしていなかった。
 ローマに戻る前に、ラギ枢機卿は、当時の米安全保障担当補佐官のコンドリーサ・ライスとも激しいやりとりを交わした。彼女は彼に、サダム・フセインという癌の増殖を止める必要性について講義した。
 もっとぞっとすることに、一番友好的ではあったものの、<当時の統合参謀本部議長の>ピーター・ペース海兵隊大将・・たまたまイタリア系米国人だった・・がニコニコしながらラギに、「心配めさるな猊下。我々は速やかにうまくやってのけますから」と保証したのだ。・・・」
 (以上、worldpoliticsreview上掲による。)

3 終わりに

 いかがでしたか。
 米国はやっぱりアングロサクソンの国なのですよ。
 だからこそ、母国イギリス同様、カトリック、すなわち欧州への根深い不信の念があったわけです。