太田述正コラム#3090(2009.2.11)
<在イラク米軍の歴史的大回心(その2)>(2009.8.5公開)

3 各論

 「・・・スンニ三角地帯の米第4歩兵師団の師団長として、オディエルノは、時々荒っぽい戦術・・ドアを蹴って開けてイラクの軍事適齢男性を狩り集める戦術・・をとることで知られた部隊を率いた。
 彼は任期を終えた時、すべてがうまく行っていると思った。「私は、我々は敵をやっつけたと思ったんだ」と彼は後に当時を回想している。
 2006年に再びイラクに戻り、<在イラク米軍の>次席司令官となり、米軍部隊の撤退を開始し、イラク人達に戦闘の責任を移譲するよう命ぜられた時、オディエルノは状況が「率直に言ってかなり絶望的であること」を発見したことを思い出す。
 その結果、その年の秋、彼は現役の軍人の中の上級将校の中で、イラクでの米軍部隊を増強することを主張するたった一人の人物となったのだ。
 しかし、この戦略は、当時の在イラク米軍の最高司令官であり、オディエルノの直属上司であったところのジョージ・W・ケーシー・Jr.を含む、一連の上司全員によって否定されていたときていた。
 影響力があるところの、前の米陸軍参謀副長であるとともに、オディエルノのワシントンにおける最も重要な同盟者であった、ジャック・キーン(Jack Keane)退役陸軍大将と毎日のように電話で連絡をとりながら、オディエルノは、イラクにおける方向転換のためのゲリラ戦を開始した。彼自身の戦略見直しを行いつつ、彼の上司達を迂回してキーンを通じてホワイトハウスの補佐官達や軍の中の主要人物達に語りかけたのだ。
 これはイラク戦争に関する最も向こう見ずな(audacious)試みの一つであった。そしてこの試みは、米国の戦略をほどんどあらゆる点にわたって逆方向に向かわせることとなったのだ。・・・
 仮に、現在米中央軍司令官であるところの、ペトラユースが<イラクにおける>部隊増強の公の顔だとすれば、彼は単にこの<戦略の>養父に過ぎなかった。昨年9月から在イラク米軍司令官になっているところの、オディエルノこそ、兵力増強<戦略>の真の父だったのだ。・・・
 2006年12月の時点でもなお、当時の米統合参謀本部議長のピーター・ペース海兵隊大将は、私的に彼の同僚達に、イラクの米軍部隊を16万人にしたところで、<現行の>14万人がやっていること以上のことができるとは思えないと語っていたほどだ。
 その1ヶ月前、当時の米中央軍司令官のジョン・P・アビゼイド(John P. Abizaid)陸軍大将は、米上院での聴聞会で、彼自身及び彼が聞いたすべての将軍達はイラクに米軍を増派することには反対である、と証言している。・・・
 元諜報将校であったスチュアート・ヘリントン(Stuart Herrington)退役陸軍大佐は、イラク戦争初期に多くの米軍司令官達が用いたアプローチは、叛乱のための志願者集めを手伝ってやったようなものだと結論づける。とりわけ彼の顔を顰めさせたのがオディエルノの師団がやったことだというのだ。「いくつかの師団は作戦を厳格な拘引基準に則ってやっていたが、第4歩兵師団は悪い例だ。この師団は、人々を大量にかき集め、アブグレイブの入り口の前に投げ捨てた」と。・・・
 一つの転機になったのは、これはオディエルノ自身が認めていることだが、当時米第一騎兵師団にいた彼の息子の・・少尉が2004年8月に負傷したことだ。この少尉はバグダッド空港の近くの哨戒隊を率いていたのだが、擲弾をハムヴィー(Humvee)のドアを破って撃ち込まれ、左腕を切断したのだ。・・・<これ以来、オディエルノは真剣に自分達のやっていることの是非を考えるようになった。>
 <その後、再びイラク勤務となった時点でのオディエルノ>の任務は明確そのものだった。
 それは、米軍の部隊を全ての主要都市から動かし、イラクに通じる幹線道路沿いに大きな基地をつくり、外国からの影響を規制するために米軍をイラクの国境線に配置し、イラク治安部隊への移譲を促進し、都市における戦闘をイラク人達にやらせる、というものだった。
 しかし、オディエルノと彼の幕僚達がこの計画をつめればつめるほど、彼らはそれがお気に召さなくなった。彼らは、こんなことをしてもイラク人達が仕事をこなす能力が追っつかないのではないか、結局のところ、2003年以来米国がイラクで繰り返しやってきたこと、すなわち、やればやるほど失敗の上塗りを重ねてきたことをまたまた繰り返すことを心配したのだ。・・・
 彼と少人数の彼の顧問達は、彼らに与えられていた計画のほとんど正反対の方策を決定した。都市から動かすのではなく、都市にもっと部隊を配備しよう。基地を集約するのではなく、小さな屯所をたくさんつくろう。国境線に部隊を持って行くこともしない。そして彼らが一番肩に力を入れたのは、イラク部隊への移譲ペースを促進するのではなく、逆に遅らせようという点だった。
 オディエルノは、この方策を実現するためにはもっと部隊が必要であることを自覚した。そう時間が経たないうちに、彼の部下達にはっきりしてきたのは、オディエルノは、司令官であるケーシーと角突き合わせることになる、ということだった。実際「ケーシーはこの方策に猛烈に反対した」。・・・
 ワシントンでは、キーンがやはり米国の政策に疑問を抱き、躊躇なくそのことを口にし始めた。
 退役していたというのに、現役の大部分の将軍達より影響力があった彼は、オディエルノと同盟を組んだ。そして、オディエルノに5個旅団の増強を求めるように勧告した。
 しかし、オディエルノがその数をケーシーにぶつけたところ、この司令官はこれを一蹴した。彼は、「君、<いくら何でも>2個旅団で十分だろう」と。・・・
 彼らは本当は8個旅団必要だと思っていたのだが、5個以上は無理だということを知っており、5個でもその全部をイラクに持ってくるには何ヶ月もかかることも知っていた。
 統合参謀本部もケーシーを支持していた。

(続く)