太田述正コラム#3078(2009.2.5)
<あるホロコースト犯の後半生>(2009.7.31公開)

1 始めに

 「・・・イスラエル政府の息のかかった二つの団体によって、「ホロコーストの設計者(architect of the Holocaust)」と称されたところの、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)<が>・・・1960年に捕らえられたのは最も有名なケースだ。
 ・・・強制収容所の生き残りであるサイモン・ウィーゼンタール(Simon Wiesenthal)は、アイヒマンの居場所を突き止めるにあたって決定的役割を果たしたが、彼は残りの生涯を<ホロコースト>犯罪者達を追いかけることに一身を捧げ、各国政府に対しても、同じことをするよう説得し続けた。・・・」
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/subjects/n/nazi_hunting/index.html
(2月5日アクセス。以下同じ。)
 しかし、大物のホロコースト犯の中にも捕まらずに逃げおおせた者が大勢います。
 本日のコラムは、そのうちの1人、アリベルト・ハイム(Aribert Heim。1914〜92年)の後半生についてです。

2 アリベルト・ハイムの後半生

 「著しい長身の、スポーツマンタイプのドイツ人で界隈ではタレク・フセイン・ファリドとして知られていた男は、高齢にもかかわらず、エジプトの首都の人混み溢れる通りを毎日15マイル歩くことを日課としていた。・・・
 エジプトでの友人達や知人達は、彼を熱心なアマ写真家としても記憶している。彼はほとんどいつもカメラを首にぶら下げていたが、自分自身の写真を撮ることは許さなかった。それには理由があった。このタレク叔父さんは、アリベルト・フェルディナンド・ハイムとして生まれ、ヒットラーのエリートたるヴァッフェン・SSのメンバーであり、ブッシェンヴァルド、ザクセンハウゼン、マウトハウゼン各強制収容所で医師を勤めた。・・・
 ハイム医師は、収容者達に麻酔なしで手術を行ったり、健康な収容者の臓器を摘出し、それからこの人を手術台の上で死に至るまで放置したり、他の人々の心臓にガソリン等の毒物を注射したり、少なくとも1人の人の頭蓋骨を記念品として持ち去ったとして非難された人物だ。・・・
 イスラエルとドイツの追跡者達は、たびたび、ハイム医師が生存していて、チリに住む彼の非嫡出の娘がいるラテン・アメリカで隠れていると語ってきた。・・・
 ・・・エジプトにおける永住権申請の時等に、タレク・フセイン・ファリドという名前の下にハイムが記した誕生日、1914年6月28日、生誕地、オーストリア・ラドケルブルグは、ハイム医師のそれと同じだった。・・・
 ハイムの息子のルディゲル・ハイムは、「タレク・フセイン・ファリドというのは私の父がイスラム教に改宗した時に名乗った名前だ」と言った。
 バーデン・バーデンの一家の別荘で行われたインタビューの際、ハイム氏53歳は、父親が直腸癌で亡くなる時に、自分が父親とともにエジプトに居たことを初めて認めた。・・・
 ハイム氏は、もう亡くなっている彼の叔母から、彼の父親がどこにいるか知ったと語った。
 今までこの話をしなかったのは、父親のエジプトでの友人達に迷惑をかけたくなかったからだと語った。
 ナチスの戦争犯罪人達が死んで少なくなって行くにつれて、彼の父親の件が大きな話題になって行った。
 <このように、>ハイム医師がエジプトにいたという証拠が新たに明らかになったとはいえ、彼の件がこれで終わったということにはならない。というのも、彼がどこに埋葬されたか、いまだにはっきりしないからだ。・・・
 政治的風向きが変わるまでは、第二次世界大戦後、元ナチスだった人々はエジプトで歓迎され、軍事技術等の分野でエジプトに貢献した。ルディゲル・ハイムは、彼の父親が、エジプトにいる他の元ナチスだった人々を知っているけれど、彼らとはつきあわないようにしていると言ったと語った。
 仮にそうだとしても、ハイム医師が、彼の故人たる妹、ヘルタ・バルト等、欧州にいる人々からカネを送ってもらっていた上、長文の手紙を彼の友人や家族と交わしていたというのに、かくも長い間、追跡者達から逃れおおせたのはどうしてかは定かではない。・・・
 「ハイム医師は、収容者達の口の中を覗き込むのを習慣にしていた。歯の状態が良いかどうかを確かめていたのだ。」と・・・は言う。「良かった場合、彼はこの囚人を注射で殺害し、首を切り取り、火葬場で何時間も煮込み、すべての皮膚を頭蓋骨からはがし、彼自身及び彼の友人達の机の上に飾れるようにした。」・・・
 ハイム医師は、ベルリンにアパートを保有していた。追跡者達は、これが逃亡生活を続けていた彼の資金源になったと語る。・・・
 彼の息子によれば、ハイム医師は、<彼の身辺に追跡者の手が伸びてきた1962年に>ドイツを去り、車を運転してフランス、スペイン経由で、モロッコに渡り、最終的にエジプトに落ち着いたという。・・・
 彼は隣人達と緊密な絆を築いた。その中にはハイム医師が死に至るまでの最後の10年間住んだカスル・エル・マディナ・ホテルを経営していたドーマ一家も含まれている。
 父がホテル所有者であったところのマハムード・ドーマは、ハイム医師はドイツ語に加えて、アラビア語、英語、フランス語がしゃべれたと語った。・・・
 ドーマ氏38歳は、自分の本を何冊もくれ、勉強をするように激励してくれ、タレク叔父さんと呼んでいたハイム氏について語るときは懐かしそうにする。「彼はまるで父親のようだった。彼は僕を愛し、僕は彼を愛した」と。
 彼は、タレク叔父さんがラケットを買い、ホテルの屋上にテニス・ネットを張った時のことを覚えている。そこで何度となく、彼と彼の子供達はこのドイツ人たるイスラム教徒と日が沈むまでテニスで遊んだというのだ。・・・
 ハイム医師は、・・・共同無名墓地に葬られた。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/02/05/world/africa/05nazi.html?ref=world&pagewanted=print

 「<ハイムの>ドイツに住んでいる娘も彼女の2人の兄弟も、ハイム名義で欧州の銀行口座に入っている推定150万米ドルに対する請求を行ったことはない。・・・
 「一番重要なことは、<ハイムの>亡骸だ」と・・・は語った。
 「とにかく、墓もなければ亡骸もなく、DNA検査も行われていないのだから」と。」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/7871121.stm

3 終わりに

 舞台が、私が幼少時に過ごしたカイロであることもあり、このいささかマイナーな話をご紹介しました。
 1950年代後半のスエズ戦争以降、エジプトはユダヤ人を追放する(典拠省略)のですが、その一方で元ナチスのドイツ人達には暖かかったらしいことが分かりますね。
 エジプト人等アラブ人の屈折した感情のよってきたるゆえんは分からないでもありませんが、それにしても、困ったものです。