太田述正コラム#3369(2009.7.1)
<イラン燃ゆ(補遺)>(2009.7.29公開)

1 始めに

 「イラン燃ゆ」シリーズは一応完結しましたが、落ち穂拾い的に、ただし、極めて重要な二つの話題を提供したいと思います。

2 ホメイニの「思想」

 「・・・現在のイランの亀裂は、19〜20世紀の変わり目における、イランのアヤトラ達の宗教と政治に関しての事実上二つの陣営への分裂に大きく負っている。
 一方の陣営はアヤトラ・ナイニ(Na'ini)(注1)が頭目であり、彼はシーア派の「物言わぬ者(Quietist)」派(コラム#3363参照)の擁護者であって、今日においてはイラク<在住>の<イラン人たる>アヤトラ・シスタニ(Ali al-Sistani)(コラム#314、323、371、482、499、674、685、903、1271、1381)の人格と行動に最も良く例示されている。

 (注1)Mirza Mohammad-Hosein Na'ini。1860〜1936年。(太田)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4SUNA_jaJP315JP315&q=Na%27ini

 ナイニに言わせれば、真の「イスラム政府」は<お隠れになった>第12代イマーム(コラム#3363)が戻った時においてのみ打ち立てられるのだ。・・・
 敬虔な人々は、無謬の第12代イマームが戻ってくるのを待っているこの中間的期間において、最善の形態の政府を追求しなければならない。
 この期間に最もふさわしい政府の形態は、立憲民主主義である、とナイニは論じた。
 このような期間におけるアヤトラ達の役割は、統治者達に「勧告」を行い、シャリアに抵触する諸法が施行されないようにすることなのだが、彼等は自分達自身で国を統治してはならないというのだ。
 ナイニに反対したのはヌリ(Nuri)という名前のアヤトラだった(注2)。

 (注2)ヌリ(Sheikh Fadlallah Nuri)は、初期のイスラム社会は、預言者ムハンマドが、そしてその死後は何代かにわたってその後継者たるイマームなる僧侶が統治した神政主義的社会であったとし、このような社会を理想視した。(太田)
http://www.dinocrat.com/archives/2006/04/29/vilayat-e-faqih-another-term-of-militant-islam-we-didnt-want-to-learn/

 彼は、コーランとシャリアに体現された、神聖で永遠で時に拘束されない無謬の智慧に比べれば、民主主義と法の支配は劣った代替手段であるとこきおろした。
 アヤトラ・ホメイニが一度ならず宣言したように、彼の考え方は、ヌリの議論の具現化(incarnation)以外の何物でもないのだ。・・・
 権力の座に就く前には、ホメイニは、最も重要な義務、すなわちイスラム的政府の存在根拠は、シャリアの全面的実施であると論じていた。
 しかし、一旦権力の座に就き、現代イラン社会の複雑な様相に直面した時、彼は微妙に彼の理論の基礎を変更した。
 彼は、マスラハ(maslaha)・・体制の諸利益・・という概念を導入し、他のほとんどすべてのアヤトラ達の仰天を招きつつ、彼と彼の後継者によって決定されるところの、これらの諸利益は、イスラムの根底的な様々な事柄にさえ取って代わりうる、と宣言したのだ。
 換言すれば、国家は絶対であり、シャリアは、そのうち国家を正当化する部分を除けばどうでもよいのであって、この正当化する部分ですら、指導者の意のままに停止することができる、というのだ。・・・」
http://www.tnr.com/politics/story.html?id=cd438858-9a24-4214-aa53-645c7fe476c7
(7月1日アクセス)

 このコラムは、イランのホメイニ/ハメネイの「思想」の先駆者に言及するとともに、権力を掌握してからのホメイニ「思想」の変節・・私に言わせれば、スターリン「思想」の金王朝「主体思想」への変節に相当するもの・・を叙述しているわけです。
 私は、今回のイラン騒擾は、体制派内のコップの中の争い的権力闘争に過ぎない、と申し上げてきた(コラム#3347、3356)ところですが、それは、より正確には、ヌリ/ホメイニ前派とホメイニ後派との間のコップの中の争い的権力闘争に過ぎない、ということになりましょうか。
 このように見てくると、どちらもシーア派が多数を占めているところの、イランとその隣国イラク・・後者ではシスタニ派が政権を掌握していると言ってよい・・の今後の二国関係がどのように展開していくか、まことに興味が尽きないものがありますね。

3 イラン騒擾と女性

 「・・・<今回の騒擾が酣であった頃、>女性のデモ参加者達は重武装したイランの諸治安部隊に特に目を付けられて野蛮な攻撃に晒されたように見え<た>。・・・
 このような姿勢は、体制の、女性の権利を追求する運動家達に対する非妥協的な態度を忠実に反映したものだ。
 体制は、男女同権を百万人署名キャンペーンといったものを通じて推進したとして彼女達の多くを逮捕したり投獄したりしてきた。
 女性の抗議者達の脆弱さが、・・・ネダ・ソルタンが撃たれた(コラム#3351、3352)ことで注意を惹いた。
 彼女は、<テヘランの>カレガー(Karegar)通りで撃たれた後、その死に行く瞬間の生々しいビデオが全世界に流れたことによって今次デモの象徴となった。
 26歳のソルタンは、群衆の中から意図的に選ばれたように見えた。
 <6月21日から始まる週に、>テヘラン大学の学生舎が治安部隊の襲撃を受けた際、殺された少なくとも5人の学生のうち2人は女性だったと信じられている。
 24日にはもう一人の若い女性がテヘランの議会の外のバーレスタン(Baharestan)交差点での集会で撃たれて死んだという報道もある。
 女性の抗議者達の光景・・その多くはイランの水準に照らせば豊かで解放された女性に見える・・は、当局の神がかりの手先達・・その大部分は体制の<教える>伝統的な両性の役割を信奉している・・にとっては挑発行為なのだろう。
 最高指導者<のハメネイ>は、男女同権要求を欧米が支援するところの「ビロード革命」視していると信じられている。
 女性達はまた、、その妻のザーラ・ラーナヴァード(コラム#3357)によって演じられた目立った役割のおかげで、ムサヴィのキャンペーンが代表しているところの、相対的に自由主義的な諸価値の象徴となった。
 ムサヴィは、大統領になったら、とりわけ女性の着ている物に監視の目を光らせているところの、みんなに憎まれている道徳警察(morality police)を廃止すると約束してきた。」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jun/25/mousavi-presidential-election-ayatollah-iran
(6月26日アクセス)

 「・・・実際のところ、<イランの>女性の中には、自分達が1979年のイスラム革命の結果より多くの機会を与えられるようになったと感じている者もいる。
 というのは、学校が、両性が分離され、イスラム化されたことを契機として、より多くの伝統的な家庭が娘達に教育を施し始めたからだ。
 その結果、イランの歴史において、最もよく教育された女性の世代が誕生した。
 大学生の60%以上が女性であり、女性の弁護士や医者やスポーツ選手や政治家はめずらしくなくなった。
 女性のタクシー運転手もいるし政府支持の民兵であるバシジ(Basij)(コラム#770、3355)にさえ女性がいる。
 女性のシリン・エバディ(Shirin Ebadi<。1947年〜>)は、2003年にイラン最初のノーベル<(平和)>賞受賞者となった。・・・
 <そもそも、>アラブ世界の大部分におけるスンニ派教義に比べて、シーア派教義においては、女性の社会参画の考え方は、より制限的(strict)ではない。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/27/AR2009062702416_pf.html
(6月29日アクセス)

 専制的で共産党員と非党員、都会の住人と農村の住人の間等で公然たる差別のある中共において女性の社会参画が進んだことと、同じく専制的でシーア派とその他の宗派や宗教、ペルシャ人と少数民族との間等で公然たる差別のある神政主義的イランにおいて女性の社会参画が進んだことは、それぞれ逆説的であるとともに、面白い符合であると言えますね。
 それにしても、超先進国日本に根強く残る半ば公然たる男女差別は本当に恥ずかしい限りです。
 これも、行政機構の女性キャリアを始めとする日本の女性が、神聖主義的イランの女性の何分の一も差別と戦おうとしないからですよ。