太田述正コラム#3361(2009.6.27)
<イラン燃ゆ(その8)>(2009.7.26公開)

6 イランの将来を展望する

 (1)体制変革直前?

 9年間ソ連の収容所生活を送った元ロシア居住のユダヤ人で、現在エルサレムの戦略研究所の所長をしているナタン・シャランスキー(Natan Sharansky)(コラム#606、2054、3060)は、イランは体制変革直前の状況であると指摘しています。

 「・・・<ソ連の>収容所でくすぶっていた<、特段内部情報も持たず、また外国からの情報も得られなかったところの>反体制派達が、世界中の学者や諜報機関ができなかったというのに、ソ連がいつ崩壊するだけでなく、どのように崩壊するかを何年も前に予想することができたのはどうしてだろうか。
 <例えば、>アンドレイ・アマルリク(Andrei Amalrik)は、その著書「ソ連は1984年まで生き残り得るか」を1969年にヤミ出版をしたが、これは、このような予想をしたたくさんの例のうちの一つに過ぎない。
 <それは、このような専制的体制は通常、擁護派、懐疑派、反対派からなり、これは内外情報に通じている順序であるところ、次第に擁護派から懐疑派へ、そして懐疑派から反対派へと転向する者が出てきて、反対派が内外情報を的確に把握するに至るからだ。>
 最近一度ならず、かつてのソ連の市民がイラン訪問から帰ってきては私に対し、イランの社会がソ連の共産主義の末期状況と極めて似通っていると語ったものだ。
 彼等の証言をもとに、私は5年弱前に、イランで、わずか一世代の間に、革命の約束を信じ込んでいた市民が、幻滅と懐疑を抱くようになったという速度は史上希だ、この分では、反対の声が<公然と>あがるのもそう遠くはないのではないか、と書いたところだ。・・・」
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-sharansky26-2009jun26,0,5163775,print.story
(6月27日アクセス。以下同じ)

 それぞれ専制的体制の歴史が長いとはいえ、ロシアの共産主義体制の歴史に比べれば、イランの神政主義体制の歴史は短いことは事実です。
 しかし、ロシアにとって共産主義の歴史は1世紀に満たなかったのに対し、イランにとって(本来的に神政主義的であるところの)イスラム教シーア派の歴史はその10倍以上の1000数百年にのぼります。
 ロシアが共産主義体制の桎梏から逃れるより、イランが神政主義体制の桎梏から逃れる方が数等倍むつかしいと考えるべきでしょう。

 (2)比較的最近に自由民主主義革命を経験したイラン?

 「・・・1905年に無能で金遣いの荒いカジャール朝に対して議会制政府を打ち立てようとする大衆運動が起こった。
 カジャール朝による失政、飢饉、及びロンドンのシティーのいかがわしい連中への鉱業と商業の権利の譲渡、への抗議行動がタブリーズ(Tabliz)とテヘランの街頭において、自由と法の支配を求める大運動へと変化した。
 <これは、>アジア最初の民主主義的革命だった。・・・
 <この>1905〜06年<の革命の時>に形成された僧侶、バザール商人、職人、そして知識人の自然発生的同盟は、シーア派の僧侶達が啓蒙主義思想のより広範な帰結の幾ばくかに気づいた時点で瓦解した。
 彼等は、自由は祈祷や洗浄をしない自由を含んでおり、平等はユダヤ人、キリスト教徒、ゾロアスター教徒にも及ぼされることを知って衝撃を受けたのだ。・・・
 そこで、僧侶の多くは革命に背を向けるに至った。
 その中にはテヘランの聖人達の中で最も学識があって勇敢であったシェイク・ファズロラー・ヌリ(Sheikh Fazlollah Nuri)も含まれていた。
 その彼は、ホメイニに強い影響を与えた。
 シェイク・ファズロラーは1909年7月31日に処刑された。
 <このようにして起こった>僧侶と自由主義者の同盟の決裂は、近代イラン史の主要テーマないしは悲劇なのだ。
 この決裂が、政府側による何度ものクーデターを可能にした。
 まず、カジャール朝のコサック部隊が1908年に議会を砲撃した。
 それから1921年にはコサック士官であったレザ・カーン(Reza Khan)という男が権力を奪取し、パーレヴィ朝を打ち立てた。
 レザと、それからその子のムハマッド・レザ(Muhammad Reza)は1925年から1979年までの間の大部分、専制的政府を<イランに>押しつけた。
 この二人のバーレヴィの下で、僧侶は1953年にムハマッド・モサデグの人気のあった政府に対する皇帝によるクーデターの陰謀に加わった。
 他方で自由主義者は、僧侶に対する1930年代の迫害とホメイニがパーレヴィの宮廷に対して反抗した1963年には知らぬ顔を決め込んだ。後者においては、ホメイニは亡命へと追い込まれた。
 この二つの集団は、1970年代末に、ムハマッド・レザによってイランが再び外国人に売り飛ばされようとしているように見えた時、互いの違いを糊塗ないし取り繕った。
 1978年から79年にかけての冬に、彼等は手を携えて、数百万人のデモを動員し、ムハマッド・レザを亡命へと追いやった。
 1980年のイラクの<イラン>侵攻に始まる8年間の戦争は、<両者の>団結を強化し、その状態が1990年代まで続いた。
 <しかし、>この二つの派は、今年6月12日に<大統領選の>投票が終了した直後に再び袂を分かったわけだ。・・・
 <イランの自由主義の旗手であった>アハマド・カスラヴィ(Ahmad Kasravi)は、1905年〜06年<の革命の際>に勇敢だった聖者達にシンパシーを感じていた・・・が、彼は、次第にシーア派自体がムハンマドのイスラム教の曲解であると主張するようになった。
 このことはホメイニの関心を惹いただけでなく、<スンニ派の過激派の憤激を買い、テヘランの公開人民法廷に彼は引き出され、彼は、>1946年3月11日に、彼の秘書・・・とともに殺戮された。・・・
 <カスラヴィを殺戮するにあたっての中心的な役割を果たした過激派の男の名前は、>テヘランの地下鉄の駅や大通りにつけられている。
 ホメイニは、・・・1979年にカスラヴィについて、TVで、イランの歴史に詳しい良い著述家だったが、自ら預言者になろうとした悪い男だったと語った。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jun/27/ahmed-kasravi-iranian-revolution

 ロシア革命は、1905年の第一革命を経て1917年の2度の革命によって成就しますが、一貫して自由主義勢力は弱体で中心的役割を演じたことは一度もありません。(典拠省略)
 イランの1905〜06年の革命においても同様であったと考えるべきでしょう。
 要するに、専制主義の歴史しか知らない国や地域では、革命は単に古からの専制主義が民主主義的専制によって置き換えられるだけに終わるのが通例なのです。
 イランの課題は、真の自由主義者を大勢生み出すことです。
 そうしない限り、仮に現在の神政主義体制を打倒することができたとしても、その後に、現在のロシアと同じような、ファシスト的体制が樹立されることでしょう。
 (パーレヴィ朝はその前駆的体制であったと言えそうです。)

(続く)