太田述正コラム#3355(2009.6.24)
<イラン燃ゆ(その6)>(2009.7.23公開)

 それにしても、どうしてハメネイはアフマディネジャドを二人三脚で歩む相手として選んだのでしょうか。
 アフマディネジャドが大統領任期中の4年間で革命防衛隊とバシジ(basiji。民兵組織)の隊員達にポストや利権を提供することでこの二つの機関において、勢力扶植に成功したことや、彼の対外的強硬姿勢(前述)をハメネイが買ったいう説が有力です。
http://www.csmonitor.com/2009/0623/p06s07-wome.html
(6月24日アクセス)

 いずれにせよ、最大の決め手はアフマディネジャドがハメネイを誑し込んだということであったようです。

 「・・・「長く権力の座にいた者は誰しもそうなるものだが、ハメネイは敬われることを好む」とハメネイを40年以上にわたって知るある政治家は言う。
 ほとんどのイラン人同様、彼もこのイランで最も機微な事柄について議論する際匿名を希望した。
 「人がおべっかによってどんなに誑かされるか、驚きだ。このアフマディネジャドという男は、ハメネイを含むところの、イスラム共和国のシステム全体を破壊しつつある。しかし、ハメネイ氏は彼が自分の前にネズミのようにすわり、足に接吻してくれるがゆえに彼を支持しているのだ」と。・・・
 投票日から異常な1週間が経った時点の19日のテヘラン大学での金曜祈祷の際、ハメネイはアフマディネジャドと<ハメネイが大統領であった時の首相であった>ムサヴィを、他の二人の大統領候補者であるところの、・・元革命防衛隊の隊長のモーセン・レザイ(Mohsen Rezai)と元議会議長のメーディ・カルビ(Mehdi Karrubi)、にこの祈祷に出席し、彼の審判に服するように促した。・・・
 <しかし、>アフマディネジャド(とレザイ?)は来たが、ムサヴィもカルビも来なかった。・・・」
http://www.newsweek.com/id/203010
(6月24日アクセス)

 (3)アリ・アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ

 次は、ムサヴィ陣営の黒幕と目されているラフサンジャニ(Ali Akbar Hashemi Rafsanjani。)です。
 
 「・・・ラフサンジャニ氏は、革命の初期段階において教条的な反米強硬派だった。
 今だに非難されていることだが、彼が大統領の時の1994年にブエノスアイレスのユダヤセンターの爆破を命じたのは彼だと目されている。
 しかし、爾来、彼は次第によりプラグマティックな物の見方をするようになったと分析者達は言う。・・・
 「<いずれにせよ、今回の騒擾には>いい奴も悪い奴もいない。単に悪い奴ともっと悪い奴がいるだけだ」<という声がもっぱらだ。>・・・」
http://www.nytimes.com/2009/06/22/world/middleeast/22rafsanjani.html?ref=world&pagewanted=print
(6月23日アクセス)

 「・・・<イラン・イラク>戦争が1988年に終わり、1989年にはホメイニが、最高指導者となる後継者が明確に決まっていない状況下で死亡した。・・・
 <しかし、最も適格者であった>モンタゼリはホメイニの寵を失っていた。
 <その1年前、モンタゼリは、政治的囚人達の虐殺に反対した(前出)。>
 (その時、ラフサンジャニ、ムサヴィ、ハメネイは全員沈黙を守った。)
 ホメイニは、この反抗者を「単純」で「国を運営する能力のある政治家ではない」としかったのだ。
 誰が新しい最高指導者になるかは、僧侶達からなる専門家会議(前出)に委ねられた。
 ラフサンジャニは、彼の古くからの同僚<であるハメネイ>をそのポストに就けるべくあらゆる政治的技術を駆使して根回しを行った。
 ハメネイが<大アヤトラ中の最高位たる>マルジャ(marja)
http://en.wikipedia.org/wiki/Marja(太田)
どころかアヤトラ(ayatollah)とさえみなされていなかったにもかかわらず・・。
 「ラフサンジャニの支持がなかったなら、ハメネイ氏が最高指導者になることは決してなかっただろう」と当時の事情に通じている、匿名希望のある筋は言う。
 「私は、彼がいかに、昼夜を問わず動き回って専門家会議のメンバーや他の僧侶のお偉方にハメネイ氏を支持するように説得に努めたかを熟知している。
 ハメネイ氏がそのポストに就く資格が神学的にはないのに大アヤトラ達がラフサンジャニ氏に同意したのは、彼等がラフサンジャニ氏を信用していたからだ。
 だから、公平に見て、ハメネイ氏が現在の地位に就けたのは、ラフサンジャニ氏のおかげだといってよい」と。・・・
 他方、ラフサンジャニは大統領になり、新しい憲法を通し、それによって<大統領職>競合する首相という職をなくした。
 (<こうして職ごと葬り去られた>ムサヴィは、政治の世界から引退した。今年まで・・。)
 それと同時にラフサンジャニは、最高指導者があらゆる重要な案件について、最終的決定権を持てるように憲法の根拠規定を強化した。・・・
 1989年当時のイラン分析者達の間で広範に共有されていた仮説は、ラフサンジャニがハメネイを最高指導者にしたのは、彼がハメネイをコントロールできると思ったからだというものだ。ハメネイの方もそう疑っていたことだろう。
 こうして二人の男がイランでの最高の職位に就くと、彼等のビジョンの違いが明らかになってきた。
 ラフサンジャニの権力基盤は、イランで「バザール」と呼ばれているところの商人階級だった。
 彼自身が、ウォールストリートにいる人種のように、「貪欲はいいことだ」と言っているわけではないが、彼はしばしばそう信じているかのような印象を周りに与えている。
 彼は経済成長と発展をその政策の中核に据えてきたし、彼の家族は目立つほどに金持ちになった。
 (ハメネイは、そうではなく、イランの大衆にウケようと思った。
 彼は、若い頃から聖典と詩の世界に浸り、「虐げられた人々」と一体化することを好んだ。
 そして、大衆に忠誠と服従が貧困から逃れる道を提供したところの、僧侶、軍部、官僚機構、といった諸機関において自分の支持基盤を構築した。
 1980年代のイラン・イラク戦争の時代に、彼は諜報諸機関とも密接な関係をつくりあげた。・・・)
 2005年にラフサンジャニは、大統領候補となった。
 <2期8年間務めた後、憲法の>在任期間制限規定に基づいて1997年に去った大統領職に再び就こうとしたのだ。
 しかし、かつては大衆にウケたものの、大衆はこの古参の前衛を腐敗し世情に通じていないと見るに至っていた。
 ハメネイは、テヘランの市長で労働者階級の家庭出身でバシジと革命防衛隊のOBで最高指導者の足に喜んで接吻するところの、アフマディナジャドに肩入れした。
 勝利したのはアフマディネジャドだった。・・・」
http://www.newsweek.com/id/203010前掲

 「・・・2002年に、ラフサンジャニは最高評議会<(コラム#769)>の長に任命された。・・・
 そして2005年に彼は<再び>大統領選に出馬するが、決選投票でアフマディネジャド氏に敗れた。
 その後彼は、専門家会議の長に選出された。
 この会議は、最高指導者を監督し、彼が亡くなった時に後継者を選ぶ権限を持つ。
 しかし、日常的に権限を行使することはない。
 ある政治分析者は、ラフサンジャニ氏を理解する鍵は、彼が、ナセルディン・シャー(Nasserdin Shah<。1831〜96年。カジャール朝の皇帝>)の下で首相を務めたアミール・カビール(Amir Kabir<。1807〜52年>)・・1852年に殺害されたが、イランノ最初の近代的改革者として広く知られている・・について書いた本にあると言う。
 <年を取るに従って、ラフサンジャニは、次第に自らを昇華させて行き、自分をカビールのような近代的改革者に擬するようになったのではないか、というのだ。>・・・」
http://www.nytimes.com/2009/06/22/world/middleeast/22rafsanjani.html?ref=world&pagewanted=print前掲

(続く)