太田述正コラム#2987(2008.12.21)
<イタリアの第一次世界大戦(その4)>(2009.6.27公開)

 「・・・イタリアは150万人のイタリア人が住んでいた地域を失い、そのうち何千人もの人々がオーストリア占領下で餓死した。
 ヴィットリオ・オルランド(Vittorio Emanuele Orlando。1860〜1952年)首相率いる新しいイタリア政府は、この大敗北をイタリアの部隊の不名誉な臆病さのせいにしたところの、カドルナを解任した。
 しかし、彼の後任の<晩年に元帥になるところの、>アルマンド・ディアズ(Armando Diaz。1861〜1928年)は、戦況を安定させ、10分の1刑を廃止し、士気を回復し、中央同盟諸列強が1918年に崩壊した時に、遅きに失した勝利をイタリアにもたらした。
 ダヌンティオは、かの有名な「だいなしにされた勝利」という言葉を吐いた。これは、イタリアがティロルとダルマティアという領域を<戦後の>平和条約によって獲得したものの、歴史的な流血にふさわしいと考えられただけの獲物を受け取ることができなかったからだ。
 ムッソリーニは、これが同盟諸国の獣じみた裏切りによるように見えた故に苦々しく受け止めたイタリア人の思いに悪魔的な巧みさでつけ込んだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/culture/2008/aug/30/history.italy(上掲)  

 「2003年9月、熱波が長く続いたため、イタリア・ドロマイド(Italian Dolomites。アルプスの支脈(太田)))の氷河がどんどん溶けてしまった。雪と氷が後退し、珍品が露出してきた。
 ・・・巨大な・・・オーストリア製で33トンもする大砲が標高10,000フィートの岩棚からぶらさがっていたのが露出したのだ。この大砲は、いまだに眼下の平野に照準が定められていた。ほとんど90年前、その砲弾は伏せていたイタリア軍の歩兵部隊の上に降り注いだのだ。・・・
 この防御陣地を出て、1917年10月、オーストリア軍は総崩れになった山の麓のイタリア軍を追跡したのだ。その過程で、<オーストリア軍は、>山のような兵器、弾薬、そして私物を残して行ったのだった。・・・
 <イタリア軍のそれまでの戦いぶりと言ったら、>敵の火力を無視した、密集歩兵攻勢への盲目的な固執一本槍であったところ、これは垂直的前戦においては破滅的なまでに不適な代物だった。カドルナの部下達は、常に坂道を上る形で敵を攻撃させられた。(これは、フランドル地方の<平坦な>地形を30度ないし40度傾けたような地形だと思えばよい。)上方からは、手榴弾、岩、円筒、転がり爆弾・・・、そして時には糞尿入りの缶が降ってきた。
 開戦からの2年半、イタリアは、<オーストリアの首都の>ウィーンどころか、トリエステにさえほとんど近づくことができなかった。イタリアは、攻勢をかけることで、最初の約2週間で約18マイル<オーストリア領内に>侵攻することができた。その代わり、90万人の死傷者を出した。その後は、イタリア軍が前戦を破るたびにオーストリア軍は容易にイタリア軍をもとの前戦へと押し戻すことができた。・・・
 カドルナは、部隊がいかなる士気、練度、装備の下にあるかに関心を払わなかった。将校達は拳銃を与えられておらず、サーベルを鞘の上端にひっかけ、これを振り回して前進した。
 以上のすべてが、人数に比べて長すぎる、400マイルにのぼる前戦において起こった。この前戦は、イタリア軍にとって過酷きわまる環境であり、イタリア軍は、適当な塹壕を掘るのが困難であった低地で無慈悲にむき出しの状態に置かれるか、夏には真っ白になって目を眩ませた灰色の石灰岩の崖にしがみつかされたのだった。・・・」
http://www.telegraph.co.uk/culture/books/non_fictionreviews/3561693/Review-The-White-War-by-Mark-Thompson.html
(12月18日アクセス)

 「・・・アルプスの反対側では、「カドルナる」が英国の兵士達の隠語となった。・・・彼が完璧なドジを繰り返し、おびただしい犠牲を払い続けたからだ。
 <1917年10月の>カポレット(Caporetto)での醜態・・何万ものイタリア軍兵士達が戦わずして小銃を投げ捨てて降伏した・・は、彼らの「丸でダメで、戦闘要員として使い物にならない連中」との<英軍の>ヘイグ将軍(Field Marshal Douglas Haig, 1st Earl Haig。1861〜1928年)による評価を裏付けることになった。
 しかし、・・・<この本は、>このようなステレオタイプ視が不適切であることを明らかにした。指導部こそ時代遅れ、職務怠慢、・・・そして加虐趣味的もいいところであったが、数百万のイタリア人達は、第一次世界大戦における最も困難な前戦において、獅子奮迅の戦いぶりをしたのだ。・・・
 運良く敵軍の捕虜になった者達は、しばしば餓死した。というのは、大戦参加国の中では唯一、イタリアは、食糧小包を戦争捕虜達に送ることは、イタリア軍兵士を更に降伏へと誘うに違いないと考え、食糧小包を送ることを拒否したからだ。・・・」
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-white-war-by-mark-thompson-956434.html
(12月18日アクセス)

 「・・・カポレット<での大敗戦の後の>・・・<1918年の>ヴィットリオ・ヴェネト(Vittorio Veneto)での<イタリア軍の>勝利は、当時大いに喧伝され、記念に道路の名前に盛んに用いられたものだが、これは、オーストリアが既に休戦を求めていた時に、フランスと英国の支援を受けて達成された勝利に他ならない。・・・
 ・・・カドルナは、・・・<当時の英国の首相の>ロイド・ジョージとフランスとが彼の辞任を求めなかったら、カポレットでの大壊滅にもかかわらず、最高司令官の地位にとどまっていたかもしれない。
 ・・・カドルナは、・・・兵力を集中させず、幅広過ぎる前戦にかけて攻勢作戦をとり、鉄条網と機関銃に対してむき出しの地形に兵士達を送り出し、しかも、何度となくこの種の過ちを繰り返した。イタリア軍は常にオーストリア軍に兵力において優っていたというのに、常に敵よりも大きい死傷者数を出した。
 彼は、失敗する都度、それがいつも自分のせいだというのに、将校達・・とりわけ、やる気があり、想像力があり、自主性があった将校達・・をクビにするか左遷することを常とした。
 こうして彼は、最高司令官であった2年半の間に200人以上の将軍と600人以上の大佐ないし大隊長達の首をすげ替えた。そしていよいよにっちもさっちも行かなくなった時、この思い違い人間にしていい気な男は、たとえナポレオンがイソンゾ(Isonzo)で戦ったとしても、自分より戦果を挙げることはできなかっただろうと自分に言い聞かせて自らを慰めた。」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article4625496.ec
(12月18日アクセス)

4 終わりに代えて

 第一次世界大戦での開戦が条約違反の形で、しかも議会の意向を無視して行われ、その上かくも拙劣な戦争指導を行って、無駄に何十万人という兵士を死なせ、ほんの少しの領土しか獲得できず、その後、第二次世界大戦で惨めな敗北を喫したイタリアが、第二次世界大戦後、いち早くイタリア軍を再建し、NATOに加盟し、対イラク戦等に部隊を送り、現在ソマリア沖の海賊退治のために艦艇等を派遣していること等を考えると、日本の戦後の姿がいかに異常かを改めて思わざるをえませんね。

(完)