太田述正コラム#3244(2009.4.29)
<米国における教育論議の現在>(2009.6.10公開)

1 始めに

 このところ、教育論議が続いた(コラム#3231、3233、3239)こともあり、米国における教育論議が今どうなっているかをご紹介しましょう。

2 SATをめぐって

 私が、「IQ的な言語能力/数理能力を測る試験」(コラム#3231)と言ったのは、米国のSATが念頭にあったのですが、そもそも、SATは、Scholastic Aptitude Testの頭文字をとったものです。
 しかし、米国でSATが導入されてから、aptitude(≒素質)という言葉は人間をランク分けしているようで好ましくないという声が出たため、Scholastic Assessment Testの頭文字をとったものとされるに至りました。
 ところが今度は、assessment(≒査定)とtest(試験)はほとんど同義語ではないか、というイチャモンがつき、結局、SATは、何の頭文字をとったものでもない、ということになって現在に至っているようです。
 このSATが実質的には知能テストであることはよく知られています。
 知能テスト、あるいはSATをやってみると、一貫して、金持ちの家庭の学生は貧しい家庭の学生より点数が高く、また、点数の順番は、アジア系米国人、白人の米国人、ヒスパニックの米国人、黒人の米国人、となります。また、男性の点数は女性の点数より高いという結果も出ます。
 
 さて、SATをめぐる歴史は次のとおりです。
 19世紀の米国では、大学に入りたい者は面接を受け、形だけの試験を課されるだけでした。
 1900年に東部の大学が共同で大学入試委員会(Collegiate Entrance Examination Board)をつくり、英文法、英文学、米国史及び古代/古典史、ラテン語と古典ギリシャ語、等の学業成績(achievement)試験を課することになりました。
 ところがしばらく経つと、ハーバード大やコロンビア大で、異常にユダヤ人入学者が増えてしまいました。
 そこで、ユダヤ人入学者の数を減らすため、面接が復活しただけでなく、リーダーシップ、家柄、性格、万能性(well-roundedness)が求められるようになったのです(コラム#486参照)。
 やがて、コナント(James B. Conant)がハーバード大学の学長になると、当時の進歩的風潮を背景に、メリトクラシーに則った学問的能力を測る試験が模索され始めます。
 その結果生まれたのがSATなのです。
 それは、どれだけ知識の量があるかではなく、知力の鋭さを測る試験でした。
 ヒントになったのは、米陸軍が第一次世界大戦の時に、徴兵されてきた若者達に課した選択式のマルバツ試験でした。この試験結果に応じて、職種や配置部隊を決めたのです。
 SATは初期の段階から言語能力試験と数理能力試験の2部構成でした。
 文科系と理科系の学生を大学側が選別できるようにしたわけです。
 1959年には、SATに対抗して、高校の教科に即した学業成績を測る試験の導入が図られましたが、1968年に、12の分校からなり、何万人もの学生を擁するカリフォルニア大学が、その大部分の志願者に対してSATの成績を求めることにしたことで、勝負は完全に決しました。
 (とはいえ、現在でも米国の大学は、SATだけで志望者を選考しているわけではありません。一般に、高校時代の成績や課外活動、更には父兄が当該大学の卒業生であるかどうか、等が考慮されます。)
 
 SATの点数は、大学1年生の時の学業成績の予測指標としてはかなりのものであることが判明しています。
 SATの点数に、高校時代の成績を加味すると、その予測精度は更に上がります。
 そうこうしているうちに、冒頭で言及したところの、金持ちの家庭の学生の方がSATの成績が良い云々、という「問題」が議論されるようになりました。
 そこで改めて、SATに代わる試験の模索が始まります。
 高校時代の成績、面接、作文、高校のランク、課外活動を総合指標化するというアイディアも出ました。
 しかし、これらすべてが、家庭の裕福度によって左右されることから、このアイディアはボツになりました。
 昨年、大学生活を成功裏に送れるかどうかを予測するところの、単純な知的能力を超えた非認知的技術(noncognitive skills)を測る試験の開発に向けて努力する意向を、SATを管掌している大学委員会(College Board)の研究者達が表明しました。
 以前エール大学で、そして現在はタフト大学で文理学科の学科長をしているロバート・スターンバーグ(Robert Sternberg)は、この開発の方向性に関し、試案を公表しています。
 それは、試験は3部門から構成されるべきだとし、第一の部門は実用的知力(Practical intelligence)・・現実世界の中で遂行したり、応用したり、実行に移したりする技術を測るものであり、第二の部門は創造的(Creative)知力・・創造、発明、発見、想像、仮定、仮説定立をする技術・・を測るものであり、第三の部門は分析的(Analytical)知力・・分析、評価、判断、比較、対照をする技術・・を測るもので現行のSATにほぼ相当するものである、という試案です。
 (以上、
http://www.weeklystandard.com/Utilities/printer_preview.asp?idArticle=16429&R=1613C34854
(4月29日アクセス)による。)

 私が「判断能力を測る試験」(コラム#3231)と言ったのは、スターンバーグが言うところの、第一部門の試験とイメージ的にほぼ同じです。
 私は、大学入学者を選考する段階では、「創造能力を測る試験」=第二部門の試験、まで課す必要はないと考えています。
 およそペーパーテストで創造能力など測れるわけがないと思うのと、それこそ、大学生活を通じて、教官が個々の学生をじっくり見て判断すべきだと思うからです。

3 全米教育到達度評価試験の結果

 米連邦教育省による、米国全土から抽出された26,000人強の生徒を対象に実施された全米教育到達度評価試験(National Assessment of Educational Progress =NAEP)の結果が4月28日、公表されました。
 それによれば、高校最終学年の17歳の言語能力と数理能力は1970年代に比べて改善されていないことが分かりました。
 他方、9歳と13歳については、著しく改善されていることが分かりました。
 また、17、13、9歳のいずれについても、白人とヒスパニックないし黒人との間の格差は縮まったことも分かりました。ただし、2004年からはほとんど変化がありません。
http://www.csmonitor.com/2009/0429/p02s01-usgn.html
(同上)

4 終わりに

 日本はなかなか「知力」ならぬ「学力」の呪縛から逃れられないようですね。
 また、全国学力テストが導入されているというのに、そのデータが碌に公表されていない、というのですから不思議な国ですね。 
 東大を始めとする全国の大学の教育学部のレベルの引き上げと、(コラム#3231で言及したところの、)文科省の旧文部省出身キャリア官僚の総とっかえが必要でしょう。