太田述正コラム#2919(2008.11.17)
<ローズベルト/マーシャル・チャーチル/ブルーク(その2)>(2009.5.20公開)

 さて、そろそろ対ドイツ戦略における米英の対立について触れよう。
 米国の軍部は、ロシア正面のドイツ軍の圧力を軽減するためにできるだ早く北西フランスの海岸への上陸作戦を敢行したいと考えていた。しかし、英国の方は、第一次世界大戦の時のソンム(Somme。北フランスを流れる川の名。1916年に会戦が行われた。(太田))やパッシェンデール(Passchendaele。ベルギーの西フランダースの地名。1917年に会戦が行われた。(太田))での血生臭さい会戦の記憶があり、また、ドイツ軍の精強さを恐れていたために、地中海方面から慎重に侵攻を開始したいと考えていた。
 最初のうちは英国の言い分が通った。マーシャルの反対にもかかわらず、ローズベルトが英国側の肩を持ったからだ。その結果、1942年にまず北アフリカ侵攻がなされ、現地のドイツ軍が駆逐され、次いで1943年には、米国の反対を1944年に北西フランス上陸作戦を敢行すると約束することで英国が押し切り、イタリア侵攻がなされた。
 ここまでは、そもそも英国の言い分はすべて正しかった。
 英国の言い分が間違っていて、米国の言い分が正しい、という転換点になったのは、1943年10月にローズベルトがマーシャルとタッグを組んで、米国の大兵力をバックに、英国の反対を押し切って、オーバーロード(Dデー)作戦の決行を1944年6月(その日プラスマイナス1月)と決めた時だ。
 実は、ローズベルトは1942年5月にソ連のモロトフ外相とホワイトハウスで会談しており、1942年中に米国はフランス侵攻作戦を(実際に敢行されるより2年も前に)敢行するとほとんど約束してしまっていたのだ。
 こんなことをモロトフに言ったローズベルトは非難されるべきだ。なぜなら、 スターリンが、約束が2年も先延ばしされたことで、裏切られたと感じた等、連合国内部がこのためぎくしゃくすることになったからだ。
 皮肉なことに、北西フランス侵攻作戦の早期敢行に反対し続けたブルークは、1943年6月にチャーチルに「適当な時に君をドーバー海峡越え作戦の最高司令官に任命するつもりだ」と言われた時に欣喜雀躍した。
 ブルークは後に、「このような解放作戦について連合軍の指揮を執るなんて、私の行ってきた闘争の完璧なるクライマックスになると思った」と記している。
 しかし、チャーチルはこの申し渡しを実現することができなかった。2ヶ月後にチャーチルは、最高司令官は米国人にやらせなければならなくなったとブルークに伝えた。
 しかし、今度はローズベルトがマーシャルを落胆させる番だった。
 Dデーの最高司令官は、最終的にアイゼンハワーが勤めることになったからだ。
 この結果、ブルークもマーシャルも、ついに檜舞台に登場することはなく、第二次世界大戦は終わるのだ。

 さて話を少し戻すが、Dデーが決まった頃になっても、英国はなお、労多くして実りの少ないイタリア作戦により多くの資源を投入することを主張し続けていた。その一つの理由は、イタリア作戦は英国の統制下にあったからだ。
 チャーチルとブルークは、ナポリを奪取したところまではよかったのだが、彼らが引き続きローマを目指したのは誤りだった。いわんやゴシック・ライン(Gothic Line。アペニン山脈沿いに設けられたドイツ軍の防御線(太田))まで進撃したのはひどい誤りだった。

 さはさりながら、まがりなりにも、米英の「特殊関係」は、こんな具合に機能し続けた。
 他方、ドイツと日本の関係はすこぶるつきに良くなかった。もし両国の関係が良かったならば、英国もソ連もおちおちはしていられなかったはずだ。ドイツとイタリアは、同じファシスト国家として、バルカン半島、ウクライナ、そして北アフリカで一緒に戦ったというのに、この両国の関係も良くなかった。既に1939年までに、何度も会っていたというのに、ムッソリーニとヒットラーの間には、チャーチルとローズベルトの間のような信頼関係はついに構築されなかった。

 いずれにせよ、米英間だけでなく、米英それぞれにおいて、政府首脳が軍人の言い分に十分耳を傾け、勇み足をしないように窘められていたことは特記すべきだろう。
 これにひきかえ、ドイツでは、ヨーデル(Alfred Jodl。1890〜1946年。ドイツ軍最高司令部作戦部長。戦後ニュルンベルグ裁判で死刑(太田))とカイテル(Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keite。1882〜1946年。ドイツ軍最高司令官。同左(太田))は、どちらも臆病でヒットラーを恐れており、ヒットラーを窘めるどころの騒ぎではなかった。
 これこそ、最終的に米英側が勝利し、ドイツが破れた原因なのだ。
 もちろん、米英の場合はそれぞれの海軍と空軍の貢献も忘れてはならないし、ドイツとソ連の合計5,000万人近くの兵士が動員された東部戦線において、第二次世界大戦中のドイツの死傷者の80%を生み出したところの、ヒットラーとスターリン二人が行った諸決定こそ、何と言っても戦争の帰趨にはるかに大きなインパクトを持ったことは忘れてはなるまい。

3 終わりに

 ファイナンシャルタイムスの書評子は、ペロポネソス戦争史である『戦史』を著したツキジデス(Thucydides)(コラム#908)が、戦争指導にあたっては専制が民主制より優っていると指摘しているところ、ローズベルトとマーシャル、チャーチルとブルークによる戦争指導がコンセンサス方式で行われ、うまくいったところを見ると、ツキジデスは間違っていたと言わざるをえない、と指摘していますが、これはおかしい。
 あくまでも、米国はローズベルト、英国はチャーチルが専制的(独裁的)に戦争指導を行ったのであって、マーシャルとブルークスは、それぞれ直言を厭わない補佐役に過ぎなかったからです。
 ところで、ロバーツ自身が舌を噛んでいる感じがあるのですが、第二次世界大戦での連合国の勝利は、ローズベルト及びマーシャル並びにやチャーチル及びブルークによる(地上戦の)戦争指導ないし軍事戦略が適切であったためでもなく、米英の海空軍力のおかげでもなく、はたまたソ連の犠牲のおかげでもなく、米国の生産力の賜だと私自身は単純に考えています。
 それにしても、日本の政治家と官僚の関係が、チャーチルとブルークの関係のような正常かつ生産性の高い姿になるのはいつのことなのでしょうね。 

(完)