太田述正コラム#2917(2008.11.16)
<ローズベルト/マーシャル・チャーチル/ブルーク(その1)>(2009.5.19公開)

1 始めに

 英国の歴史家のアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts。1963年〜)が'Masters and Commanders: How Roosevelt, Churchill, Marshall and Alanbrooke Won the War in the West' を上梓したので、その書評を通してこの本の概要をご紹介しましょう。

 (以下、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/books/2008/nov/15/masters-and-commanders-andrew-roberts
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/09/28/borob128.xml
http://www.ft.com/cms/s/0/caed8480-7ad9-11dd-adbe-000077b07658.html
http://www.literaryreview.co.uk/overy_10_08.html
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article4833789.ece
(いずれも11月16日アクセス)による。)

2 本の概要

 第二次世界大戦における最も有名な米英の軍人と言えば、アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)とモントゴメリー(Bernard Montgomery)だろう。
 しかし、最も重要な役割を果たしたのは、米陸軍参謀総長を勤めたジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall, Jr.。1880〜1954年。後国務長官、国防長官を歴任)米陸軍大将と英統合参謀総長を勤めたアラン・ブルーク(Alan Francis Brooke, 1st Viscount Alanbrooke。1883〜1963年)英陸軍元帥だ。この二人と、彼らの政治家たる上司であるローズベルトとチャーチルの計4名が、ロシア以外の連合軍の軍事戦略を決定したからだ。
 この4名が初めて一同に会したのは1942年6月21日、ワシントンにおいてだった。
 この日、チャーチルは、北アフリカの枢要な港であるトブルク(Tobruk)がロンメル指揮するドイツ軍の手に落ちたとの連絡を受けた。
 当時、英国の運命は風前の灯火だった。英陸軍は、ノルウェー、フランス、ベルギー、ギリシャ、マラヤ、そして今やリビアで敗北した。大西洋において失われる英国の船舶の数は年が改まってから、2倍に増えていた。枢軸側は、豪州、インド、スエズ運河、そしてコーカサスと中東からの石油供給を脅かしていた。
 その後、3年間にわたって上記4名の関係は続き、連合国側に最終的な勝利をもたらしたのだ。
 4名とも日本の前にドイツを敗北させる必要性を認めていた。しかし、その方法については見解の相違があった(後述)。

 この4名の中で、戦争の帰趨に一番影響力を行使したのはローズベルトだったが、彼は軍事戦略については一番無知だった。
 (なお、マーシャルは、当時の各国の陸軍参謀総長の中では、おそらくただ一人、実戦を経験したことのない人物だった。)
 他方チャーチルは、本人の自負ほどではないにせよ、大変な軍事戦略通だった。
 ローズベルトは、チャーチルを評して、一日の間に100も軍事戦略上のアイディアを思いつくが、そのうちまともなのは4つくらいだ、と厳しい採点をしている。
 第一次世界大戦勃発当時、英海軍大臣であったチャーチルは、ガリポリ作戦(1915〜16年)を、専門家の意見具申を無視して推進し、この作戦が失敗に終わったため、大臣辞任を余儀なくされたことがある。
 この時の失敗に懲りて、チャーチルは、あえて直言居士のブルークを統合参謀総長に任命したのだ。

 しかし、マーシャルがローズベルトの関係を、そしてブルークがチャーチルとの関係を維持するのは大変だった。
 ローズベルトは、意図的に米国政府の軍事指揮組織を不整序のままにしていた。マーシャルに対しても、ローズベルトは自分が英国に送ったメッセージの半分くらいしか見せなかった。仕方なくマーシャルは、駐米英国大使のジョン・ディル(John Dill)卿と密かに会って、情報を聞き出すことにしたのだが、これがバレたらディル大使がすぐクビになるので、マーシャルは細心の注意を払わなければならなかった。

 他方、ブルークは気むずかしいチャーチルに率直に意見具申してしばしばその不興を買った。
 戦争の末期に、ブルークは過激なまでに自分の意見にこだわったことがある。その後でチャーチルは別の将官に、「<ブルーク>は私を憎んでいる。彼の両目には怒りが宿っている。私はブルークをクビにすることにした」と述べた。この話を伝えられたブルークは、「私は憎んでいない。それどころか、深く<チャーチルを>尊敬している。私は彼を敬愛している。しかし、自分が同意しかねることで彼に対して同意しますと私が言うようになった暁には、もはや私は彼の役に立たなくなったということなので、彼は私をクビにしなければならない」と述べた。これを聞いたチャーチルは、翻意した。
 ブルークは、「チャーチルなかりせば、英国は間違いなく敗北していただろう。しかし、チャーチルのおかげで英国は何度も何度も大災害のがけっぷちまで連れて行かれた」と記している。
 ブルークは、モントゴメリーの後任として中東方面司令官に擬されたが辞退した。受けておれば、その直後のエル・アラメインの戦いで勝利し、後世の歴史にモントゴメリーならぬブルークの名が永遠に刻まれることになっていたことだろう。
 辞退した理由は、自分だけがチャーチルを制御できると思ったからだった。
 このブルークの辞退は、高く評価されるべきだ。

(続く)