太田述正コラム#3253(2009.5.4)
<皆さんとディスカッション(続x476)>

<γγΑΑ>(「たった一人の反乱」より)

 また南京大虐殺の話題がむしかえってるな<(コラム#3251)>。
 この話題に関する論争を読んだ時によく感じることだけど、最後に反論した人の説が一番信憑性あるように思えてしまうよ。
 今のところ今まで見た中で太田説が一番正しいように見える。

<KT>

≫音楽の歌詞であれ、何であれ、文学、より一般的には作品・・憲法を含む法律を含めてもよいかもしれない・・は、原作者の意図を離れて、解釈されることがあり、それは不可避である、ということは、私も否定しません。≪(コラム#3251。太田)

 自分の下手な感想文から、為になる議論を読ませていただき、なんだか申しわけないです。
 「let it be」の中の歌詞「mother mary」が、ポールの母親メアリー=マッカートニーなのか、それとも聖母マリアなのかで、内容が変わりますよね。
 wikiではポールの母親みたいですけどね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC_(%E6%9B%B2)#cite_ref-1

 調子に乗って、他に好きな曲を載せます。
「映像の20世紀」
http://www.youtube.com/watch?v=MuZwKHGfeRk
「moon」
http://www.youtube.com/watch?v=PU35fJNtxp8&feature=related

<太田>

 素敵な曲を紹介していただき、ありがとうございます。
 後の方の歌は、アニメの主題歌らしいけど、アニメのタイトルが読めない文字で一部書かれているし、歌詞も、存在しない言語の歌詞なのですね。

 ところで、昨日、前衛的ネット音楽・・ユーチューブで集めた雑多な音楽を組み合わせる・・についての記事を読みました。
http://www.nytimes.com/2009/05/03/magazine/03wwln-medium-t.html?ref=magazine
(すでにリンク切れになっています。)

 具体的な作品例としては、これをご覧じよ。
http://thru-you.com/#/videos/

 こりゃ、どう見ても、あらかじめ示し合わせて一人一人に演奏させたものを合体させたしか思えませんがね。

 この関連で、マッカートニーが抜けてヨーコ・オノが加わっていた時代のビートルズが生み出したコラージュ的音楽の存在を知りました。
http://www.youtube.com/watch?v=lwQiQLqAKOA&feature=related

 ヨーコ・オノが提唱したんですね。

 この曲を逆回転させたもの
http://www.youtube.com/watch?v=PG0wksBzKSc&feature=related

も不吉な印象を与える音楽として有名なんだそうです。

 マニアックな世界に触れるのも、たまにはいいもんです。

<植田信>(http://8706.teacup.com/uedam/bbs

 --「戦後」のアメリカは国力の衰退史である--

 『ザ・クラッシュ/日米衝突』の著者ウォルター・ラフィーバーの本の一つに『アメリカの時代』というものがあります。
 原著の後半の部分が日本語に訳されて出ています。1992年刊。

 <中略>(太田)

 <この本によれば、>日本人がアメリカと深くかかわるようになった「戦後」時代は、アメリカ史の中では、アメリカの国力が衰退していく時代でした。
 ということは、日本は、アメリカの衰退を必死になって食い止める、という役どころを演じてきたのか、ということになりそうです。
 なにゆえにか?

 もちろん、太田述正氏が言う「吉田ドクトリン」です。
 日本人がみずから自国の安全保障を自分で行うことを放棄したことにより、何から何まで、アメリカに依存するようになりました。
 輸出で稼いだマネーは、そのままアメリカに預けました。
 アメリカは、これによって自分に貯蓄はなくても、世界中の商品を買うことができるようになりました。ジャパン・マネーがアメリカ人の購買力を創出しました。

 涙ぐましい戦後の日本人の自暴自棄です。
 涙ぐましいのは、日本人がそのように感じていないことです。
 遠い将来の日本人の世代から見れば、そういうことになるでしょう。

 「戦後」という日本史の一時代は、戦前の軍国主義への反動により、平和幻想に浸った時代であり、その裏付けとして、その時代の日本人はアメリカにひたすら貢いだのであった、という具合になるでしょう。

 2 アメリカの孤立主義とは何か、です。

 「アメリカ史において<孤立主義>という場合、アメリカが世界の諸問題から撤退することを意味しているのではない(そもそも一国の国民が世界の問題に関与もしないで、あるいは、国の〈安全は無償で〉享受できるといった考えの下に、一大陸を征服したり、世界最強の国家になることはない)。
 アメリカ外交における<孤立主義>とは、できるだけ自国の国家行動の自由を保持しようとする対外政策のあり方を意味している。国内において個人主義を信奉してきたアメリカ人は、決して驚くべきことではないが、外国に対してもしばしば公然と個人主義の信念を披瀝してきたのである。」前掲P.8

 なるほど。
 というわけで、そういうことなら、息子ブッシュ大統領のイラク戦争は、アメリカ外交の伝統に即したものだった、というわけです。国連決議の無視であり、ヨーロッパ諸国の意向の無視でした。
 アメリカは、独断で、やりたいことを、やりたいときに、するのだ、と。これをアメリカの「孤立主義」という、と。

<太田>

 先の大戦終了直後は、世界中が戦災を受けた中で、米国だけは焼け太りをしたのですから、米国の相対的国力が異常にふくれあがった時期であり、それが、各国の復興とともに、米国の国力の相対的低下という形で「正常化」したのは当たり前であり、これをもって米国の国力の衰退ととらえることは必ずしも適切ではないと思います。

<植田信>(同上)

 --吉田茂はなぜ日本の再軍備に反対したか--

 太田述正氏の『防衛庁再生宣言』に、「吉田ドクトリン」の信奉者として岡崎久彦氏が出てきます。

 「岡崎久彦氏は、外務省きっての論客であり、防衛庁勤務も経験し、安全保障問題通であることで知られている。私は、彼が多数の著作を通じて、国際政治音痴になってしまった日本の人々を啓発してきたことには敬意を抱いている。しかし、その岡崎氏は吉田ドクトリンのイデオローグでもあるのだ。・・
 岡崎氏が、その批判的舌鋒を身内の外務省には決して向けないことや、外務省(および防衛庁)在職中、あれだけ機微に触れる論考を多数公にしながら問題視されなかったことは、外務省の広報マンであることを如実に示すものだ。つまり、外務省もまた、一貫して吉田ドクトリンを信奉してきたのである。」P.226

 これは当然でしょう。
 ペリー・ショック以後の日本国の国家の安全保障を最終的に担うのは誰か。
 といえば、天皇ではなく、軍隊です。天皇の安全保障も、軍隊が保証します。軍隊というか、軍事力です。
 戦前は、大村益次郎と山県有朋がつくった日本軍が皇軍として天皇を安全保障していました。
 米国との敗戦により、日本軍が解体されました。以後は、アメリカ軍が天皇を安全保障しています。
 であるなら、日本国の外務省がいかなる立場に立つか、明瞭です。
 岡崎氏はこの立場を、今は亡き吉田茂に代わって表明しているだけでしょう。
 外務省がそうだし、自民党もそうです。
 ・・・
 最初に知りたいのは、吉田茂は、なぜ日本の再軍備に頑固に反対したのか、です。
 ジョン・ダワーの『吉田茂とその時代』を見ると、9点、反対理由が挙げられています。

 しかし、ダワーの論述を見て不思議なのは、すべてが吉田茂の判断で決められたかのようにその説が進められていることです。
 占領下において、はたして日本国の首相にそれだけの自立的な判断ができたか、というのが私の疑問です。これは吉田氏の知力の問題ではなく、日本とアメリカの力関係の問題です。
 つまり、吉田茂は、要するに、占領軍のスポークスマンとして首相に抜擢されただけではなかったのか、と。

 ダワーがこう述べています、

 「吉田の権力の基盤は表向きは政党制度にあったが、彼は政党にはほとんど関心がなかったし、それまで経験もなかった。だが、官僚、<外交官>などはどういうものかよく知っていたし、実際そういう役割を果たして行くことになった。この点は特筆に値する。
 占領下という特異な状態において、日本政府に課せられた中心的な任務は、占領国、特にアメリカとの<渉外関係>であったから、過度的な東久邇内閣に続いて、占領期の4人の首相のうち3人(幣原喜重郎、吉田茂、芦田均)までが元外務官僚であったことは驚くにあたらない。」『吉田茂とその時代・下』中公文庫P.17

 つまり、吉田茂は日本国首相とはいうものの、その実態は、占領軍との渉外役だったということです。連絡係、というところでしょう。

 そこで今度は岡崎氏の『吉田茂とその時代』(PHP。2002年)を見ると、吉田茂が再軍備に反対したのは、マッカーサーが反対していたからだ、とあります。

 「1949年に入ると、GHQの民政局の勢威は衰え、2月には吉田長期政権の始まりとなる第3次吉田内閣が発足し、左翼マスコミの表現を借りれば、いわゆる<逆コース>の時代となるが、こと再軍備となると、マッカーサーは少しも変わらず、吉田も変わらない。ここにワシントンの大局的戦略と、マッカーサー・吉田の方針の間に齟齬が生じた。・・
 これだけ強いマッカーサーの信念を見れば、吉田の態度も変わりようがない。アメリカの再軍備要求をはねつけたのは吉田ということになっているが、少なくともこの段階では、マッカーサー独りで頑張っている。マッカーサーが譲歩したならば、吉田の抵抗がもしあったとしてもーおそらくマッカーサーと一緒に変わったであろうがーそれはワシントンの強い意向のもとでは蟷螂の斧であったろう。」P.278

 というわけで、吉田は1949年までは、マッカーサーの意向通りに動いていたわけでした。
 ところが、1950年から吉田の態度が微妙に変わります。
 それまでは自衛権のためでも再軍備反対であり、憲法が禁じているという考えでしたが、50年に入ると、憲法は自衛権までは禁じていない、という考えになります。
 そこに何があったか。

 私は、大きく見て、吉田茂の再軍備反対の姿勢は、2段階に区別できると思います。
 1949年まではマッカーサーの指示通り。
 以後は、日本国民の日本軍の再現の忌避に歩調を合わせた、と。

 1949年までは吉田茂は自分の意志からというより、マッカーサーの方針に基づいて、日本の再軍備に反対していました。
 では、マッカーサーはいかなる理由から反対したか。
 1948年にケナンとドレイパーが来日した時、この両人にマッカーサーが熱弁を振るってそれを説明しました。
 岡崎久彦氏が言います、

 「1 ・・日本の軍国主義化を恐れるアジア諸国の反発を招く。
 2 占領軍の日本国に対する威信を失墜させる。
 3 植民地を失った日本を再軍備させても5等国並みの軍事力にしかならず、ソ連の脅威に対抗できない。
 4 日本の経済力は軍事費の負担に耐えられない。
 5 日本国民は戦争放棄を支持しているので、強制しない限り再軍備を欲しないであろう。」『吉田茂とその時代』P.276

 以上が、マッカーサーが日本の再軍備に反対した理由です。
 しかし1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。
 マッカーサーは根が軍人ですから、状況に素早く対応し、態度を反転します。
 再軍備は必要である、と説き始めます。

 さて、吉田茂はどうしたか。
 ここから吉田茂をマッカーサーと区別する独自の再軍備反対の姿勢が浮上します

 戦後の日本外務省の任務は何か。
 といえば、国家の安全保障が外国アメリカに丸投げされている以上、これしかないでしょう。
 岡崎久彦氏が言います、

 「平和条約、安保条約を締結するにあたって、外務省がもっとも腐心したのは、それを事実上の占領の延長でなく、少なくとも外見上は国際法に基づく平等の国家間条約とすることであった。」『吉田茂とその時代』P.296

 日米安保は対等の国家間の条約であるとの体裁をつけること、これが戦後の日本外務省の任務でした。
 だからこそ、90年代に入ってから、日米は対等ではない、という日本語の議論が出てきたわけです。対米従属論です。

 しかし、外務省当局者たちの、というは故・吉田茂首相や岡崎氏の言論を見れば、彼らはそのことを知っていました。知っていて、それでも日米は対等関係にある、と主張することを自分たちの仕事にしたわけです。
 なにゆえに?

 想像するに、1952年5月からは、主権国家の外務省という体裁を取った以上、以後も日本は半分しか独立していない、と自認していたら、外務省の存在意義が失われることになったでしょう。あるいは、日本外務省はワシントンの出張所、ということになったでしょう。実質上はそうだったとしても、表面的には主権を回復した以上は、体裁を繕う必要があったわけです。

 で、それは仕方ないとして、つまり、日本が再軍備するようになれば、安全保障の「アメリカ丸投げ」という半分の独立が、全面的独立になるのでこの問題は解決するわけですが、その前に、なぜ日本人は今も、その半分の独立を拒否しているか、です。

 日本がアメリカに追随するしかないというのは仕方ないとして、ここに面白い問題が発生します。
 その当のアメリカの姿勢が2つに割れたらどうするか、です。

 そして吉田茂がこれを体験しました。
 マッカーサーと、ダレスです。
 具体的な問題が、日本の再軍備です。
 ダレスは再軍備せよと強要し、マッカーサーは再軍備はしないと主張します。
 こういう時、日本側はどうすべきか。
 そして吉田茂はどうしたか。

 ジョン・ダワーによれば、1951年2月に来日したダレスに吉田茂が再軍備の拒否の理由として5点ありました。
 「1 日本経済は朝鮮戦争景気のもとでも大規模再軍備の緊張に耐えられない。
 2 <地下にもぐった>軍国主義者は早急な再軍備を利用して軍人階級の再建をはかるかもしれない。国民、特に女性はそれが我慢できない。
 3 憲法がそれを許さない。
 4 左翼がそれを利用する。
 5 世界の大部分は日本が突然再武装する光景を見て驚愕するだろう。」『吉田茂とその時代・下』P.173

 吉田茂は、東南アジア諸国だけではなく、中国との経済交流を想定していたので、日本の再武装は中国を刺激する、と心配していました。

 ダワーは、以上のほかにも3点を挙げています。

 「吉田が急速な再軍備をためらったについては、そのほうにも多くの現実的な考慮が動機としてある。
 6 もし日本がアメリカの青写真通りについていけば、朝鮮に部隊を展開するようワシントンから大きな圧力をかけられる、
 7 吉田はダレスの共産主義一枚岩を受け付けなかったし、日本が近いうちに共産主義の攻撃を受ける危険があるとも考えなかった。
 8 彼は自国の新しい軍隊を信頼していなかった。」前掲P.175

 戦後に自衛隊が創出された頃の事情を見ると、吉田茂が新しい自衛隊を信頼する気にならなかったのも、無理からぬものがあります。
 アメリカ軍が勝手に急設してしまいました。
 指導したのは、フランク・コワルスキー大佐でした。

 「この警察隊は占領の終わるまでに大量の拳銃、カービン銃、M1小銃、30口径・50口径機関銃、60ミリ・81ミリ迫撃砲、バズーカ砲、火炎放射器、各種の砲、戦車(通称<特車>を装備し、もう少しで航空機が配備されるところまで行っていた。1950年から52年にかけて新部隊の組織・技術訓練に親しくかかわったフランク・コワルスキー大佐が述べているように、この準軍隊は<小型アメリカ陸軍>になっていた。
 これを吉田がはじめに不戦条項と解釈した憲法条項と、また彼が次第に論理をまげながらなお主張しようと努めたことと矛盾しないと説明するのは、コワルスキーの言葉をかりれば〈純然たる詭弁〉であった。」前掲P.169

 まったくもって詭弁です。
 戦後の日本人の不幸は、そのスタートにウソがあったことです。
 ウソというより、詭弁がありました。

 なぜ吉田茂はそのように詭弁をろうするしかなかったのか。
 私たちはここを考える必要があるでしょう。

 すると、やはり、外務省の体裁のためだったのか。
 と勘繰られてきます。
 1952年以後の主権を回復するために、1951年の時点で吉田茂はすでに詭弁でごまかすしかなかったのか。憲法9条を守ったまま、日本は主権を回復するのだ、と。そして安全保障はアメリカ軍に任せる。目の前にある警察隊は、決して再軍備ではない、と。

 2009年の現在の時点から見れば、問題は簡単になります。
 誰が最終的に日本の再軍備を拒否したのか。
 ダレスは再軍備を強要しました。
 マッカーサーは、1951年4月に帰国してしまいました。その時点から、権限はもうマッカーサーにはありません。おまけに彼は帰国してから、「日本人の精神年齢は12歳」と上院で発言しました。
 以後、1952年5月からはひたすら日本人の問題となりました。

 詭弁をろうしたのも日本人なら、再軍備を拒否したのも日本人です。
 それでいて、アメリカ軍が強要してつくった警察隊は、その後自衛隊となり、今では、憲法9条のもとで、ソマリア沖に艦船を派遣するようになりました。

 まったく優柔不断な日本人の精神です。
 いや、これはポジティブな評価なのか、ネガティブな評価なのか、それさえもわかりません。

 はっきりしているのは、吉田茂が決めた「アメリカ丸投げ」構造は、依然として今も続いている、ということです。
 そして、アメリカ占領軍が育てた自衛隊は、今も、憲法的には存在意義が不明のまま放置されています。

 というわけで、太田述正氏の体験談が出てきました、

 「私は30年間勤務した防衛庁を今年の3月13日に退職した。
 防衛庁は、いつしか、日本の安全保障にとって何が重要かという議論よりも、組織の権益の維持に腐心する役所となってしまった。」『宣言』はじめに・・一頁

 これは物事の自然な流れとして、ごく当然の結果でしょう。
 その組織が本来の任務を憲法によって拒否されている以上、職員は自分の生活にしか関心をもてるわけがありません。防衛費など、何に使ったって、気にすることはありません。そもそもその組織は不用であると憲法が規定しているからです。防衛費が計上されることのほうが不思議です。
 これで何で防衛問題で不祥事などというものがあるのか。

 あるとしたら、自衛隊が存在すること自体が不祥事です。
 逆に、憲法9条の存在が不祥事です。

 そして、この不祥事を放置するしかない日本人の律令理性、これが不祥事の最たるものでしょう。

 現在の自衛隊の問題は、どうやら、戦前・戦中の皇軍の問題とは、本質的には異なるようだ、ということが私にわかってきました。
 本質というより、出自が異なります。
 軍隊の本質とは、武力の保持であるとすれば、戦前も戦後も、名称はどうであれ、日本に軍隊が存在していることは、誰の目にも明らかでしょう。

 戦前と戦後の日本軍の決定的な違いは、その出自です。
 戦前は薩長閥が明治時代に創出しました。日本人が起源です。
 戦後のスタートは、アメリカ占領軍が起源です。

 となると、吉田茂の再軍備への忌避には、二重の忌避があったことと考えられます。
 1 戦前の軍国主義の復活への忌避。
 ちなみに、吉田茂は、戦前の軍国主義の時代の日本は、古き良き「明治時代」以降の現代日本史の中での一時的な「逸脱」と見なしていました。一方、アメリカ占領軍は、軍国主義は薩長閥の権力のありかたに淵源する、と見なしていました。史観において、吉田茂とマッカーサーの基本的対立がありました。
 2 戦後の、アメリカ占領軍が創設した新日本軍への忌避。

 ジョン・ダワーによると、こうです。
 警察予備隊が創設されたのは、1950年のことです。

 「新しい軍隊について公的な歴史や個人的回想は、当時の演説とともに、何よりも問題は技術や経済や組織ではなく、士気の問題であったことを強く表わしている。吉田が彼の軍隊を信頼できなかった一半の理由は、鉄砲を誰に向けてくるかわかったものではないということにあった。だから、イデロオギーと士気の危機を乗り越えるまでは、大量増員にいそいで突き進むことは愚かに思われたのである。」『吉田茂とその時代・下』P.187

 アメリカ占領軍が強要して創設された警察予備隊とは、いったい、いかなる性格の組織なのか。
 単なる失業対策か。
 アメリカ軍の一部としての日本部隊なのか。

 しかし、勝者が強要してくる要求に日本国の首相は屈するしかありませんでした。
 できるのは、せいぜいサポタージュでした。

 マッカーサーが帰国すると、吉田茂の再軍備拒否の根拠は、日本国民に置かれるようになります。

 「日本は急速に再武装できないというのが吉田の基本的な主張であったが、再軍備に対する究極の障害は、経済能力以上に、つねに民衆の感情だったのである。<防衛意識>を注ぎこむための<再教育>は、吉田時代以降もながく執念として残ったが、それはまさにその思想注入が大した効果をあげなかったからにほかならなかった。・・
 憲法は曲げたりゆがめたりはできるが、それを全体に破棄することは別問題であった。結局のところ、憲法改正とワシントンののぞむ程度の再軍備とを決定的に抑制した力は、吉田ではなく保守支配勢力でもなく、<再教育>や<行き過ぎ是正>といった極端な手段に対する日本国民自身の抵抗であった。」前掲P.245

 このようにして誕生した自衛隊でした。
 アメリカ軍の強要と、日本国民の抵抗。
 そのはざまで妥協を図り続ける自民党政府。

 その結果どうなったか。
 いまの姿を私たちに見せてくれるのが、太田述正氏です。

 ところで岡崎久彦氏の『吉田茂とその時代』を見ていたら、太田氏の言う「吉田ドクトリン」なるものは存在しない、とのくだりがありました。
 こうです、

 「経済に専念して軍備を最小限にすることを吉田ドクトリンなどと呼ぶ向きもあるが、そもそも吉田には、ドクトリンなどにはもっとも遠い世俗的人物である。むしろマッカーサーのほうが性格的にドクトリンを持つ人物である。そう考えれば、吉田ドクトリンというよりも、マッカーサー・ドクトリンといったほうがはるかに正確であろう。」P.292

 いや、ここで問題になっているのは、吉田茂のパーソナルな性格の問題ではありません。
 現実の戦後日本のスタートにおいて、実際にいかなる政策を取ったかです。
 それを太田氏が「吉田ドクトリン」と呼ぶわけです。

 「<吉田ドクトリン>とは、吉田が一定の時代状況のもとで持っていたこの考え方を恒久化したものであり、軍隊に対する不信と軍事軽視を前提に≪日本の安全保障を米国に依存し、日本はもっぱら経済成長に専念する≫という国家戦略であると言ってよかろう。吉田自身は晩年、このような戦略がもたらした事態について〈責任を痛感する〉と自らを断罪しているのだが、〈吉田ドクトリン〉は今日にいたるまで生き続けていたのである。
 問題は、このような国家戦略のもとで、防衛庁はいったいいかなるレーゾン・デートル(存在意義)を持つのか、ということだった。」『宣言』はじめに・・四頁

 というわけで、「吉田ドクトリン」はしっかりと存在します。
 吉田茂本人がこのことを自覚していたかどうかには関係ありません。

 で、もちろん、防衛庁には存在意義がないので、太田氏が言うように、「生活互助会」になってしまいました。

 「ただただ生活の資を得るために防衛庁に入り、そこで仕事をしているふりをしている人々だけだった。・・
 内局の荒廃は、各自衛隊にも悪い影響を及ぼし始めていた。防衛庁・自衛隊全体が、いわば一大生活互助会化しつつあることを発見した私は、唖然とした。目的意識を失い、士気が弛緩した武力集団ほどムダで危険なものはない。何とかしなければならないと思った。」前掲

 まったくその通りです。
 では、なぜ今も日本人はこの状況を放置しているのか。

 日本を軍事的に守ってくれているのがアメリカであり、自衛隊の出自がそのアメリカ軍である以上、自衛隊の存在にノーとは言えません。
 一方、憲法9条をどうすることもできない、と。それを作ったのもアメリカ占領軍です。

 日本人・・・は、アメリカのこの優柔不断を前にして、途方にくれています。
 なすすべもなく、それでもアメリカについて行くしかありません。

 そこで問題は、日本人をかくも無能にしたのは何か、です。
 ・・・
 問題はすべて「お上」が考えるから、しもじもは無知・軽薄でよろしい、と。
 で、戦後の「お上」は、アメリカです。
 簡単な図式です。

 だから、戦後の日本人にできるのは、徹底親米か、反米のポーズだけとなりました。

<太田>

 お疲れ様です。大論考ですね。
 ダワーには左翼的偏見・・つまりは日本の戦後の進歩的文化人的偏見に近いもの・・があり、岡崎には彼自身が吉田ドクトリン信奉者・・つまりは外務省公式ドクトリン祖述者・・である、ということを念頭に置き、彼らの著作や言動をうのみにしないことが肝要です。
 植田さんご自身の見解にも、あちこちで若干の違和感を覚えますが、この際、私が一番大事であると考える点だけを指摘しておきたいと思います。

 吉田が再軍備を拒否した理由を、彼自身が明らかにしていない以上、我々が推測する以外ないわけですが、私は、(本コラムや)拙著『属国の防衛革命』(24〜28頁)で、それは、彼の米国に対する下掲の四つの怒りに求められるのではないか、と記したところです。

一、米国が、東アジアにおいて、ファシズムの国民党や共産主義の共産党という独裁勢力に力を貸して日本をたたきつぶしたこと。
二、米国が、1905年の桂・タフト協定、及び1908年の高平・ルート協定に違反して、日本の植民地及び支那における権益保有の正当性を否定したばかりか、これら地域における全日本居留民を追放するとともに、その全私有財産を没収するという一般国際法違反を犯したこと。
三、米国が、ハーグ陸戦法規に違反して・・しかも武装禁止条項付きの・・新憲法を日本に押しつけたこと。
四、その米国が、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、180度掌を返して、(朝鮮国連軍の補助部隊としての朝鮮半島出兵を含みに)再軍備を日本に要求してきたこと。
 
 それでは、記事の紹介です。

 植田さんや私のような人、そして大部分の太田コラム読者は、現在の日本では圧倒的少数派に属するようです。

 「・・・文芸春秋取締役の立林昭彦氏は・・・ 「弊社の若い人たちが歴史認識や憲法改正、日米関係といった大テーマに関心を持たなくなっており、こんな状況で<雑誌「諸君」を>存続させても、とても巻き返しはできそうにないと判断した」<と語った。>・・・」
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090503/biz0905032246006-n1.htm

 父親の子育て面での役割は、想像以上に大きいようです。

 ・・・ boys in particular could be affected if their father had depression or was an alcoholic. ・・・
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8028452.stm

 エジプトでは、インフルエンザの話が出てから、国中の豚を屠殺するという決定が行われたところ、その後、インフルエンザとは切り離して、屠殺が続いているようです。

 ・・・Officials now say the cull is aimed at bringing order to the country's pig-rearing industry, so that in future animals are not reared on rubbish tips but on proper farms. ・・・
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/8031490.stm
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太田述正コラム#3254(2009.5.4)
<天才はつくられる(その1)>

→非公開