太田述正コラム#2880(2008.10.29)
<米軍最高司令官としてのリンカーン(その1)>(2009.5.3公開)

1 始めに

 プリンストン大学の米国史の名誉教授のジェームス・マクファーソン(James M. McPherson。ピューリッツアー賞受賞者)が、戦争の試練を通じて--最高司令官としてのリンカーン(Tried by War: Abraham Lincoln as Commander in Chief)」を上梓しました。
 この本のさわりを、書評等を再構成してご紹介しましょう。

 (以下、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-rutten29-2008oct29,0,4000285,print.story
http://www.nytimes.com/2008/10/19/books/review/Smith-t.html?ref=books&pagewanted=print
http://www.jsonline.com/entertainment/arts/32435874.html
http://www.armytimes.com/entertainment/books/books_triedbywar_100908/
http://www.bookmarksmagazine.com/book-review/tried-war-abraham-lincoln-commander-chief/james-m-mcpherson
http://www.usatoday.com/life/books/excerpts/2008-08-20-Tried-by-War_N.htm
(いずれも10月29日アクセス)による。なお、最初の4つは書評、5つ目はamazonの宣伝文、6つ目は本の抜粋)

2 最高司令官としてのリンカーン

 1860年にリンカーン(Abraham Lincoln。1809〜65年)は知人達の前で、「最も初期の記憶の一つだが、子供の時、誰かが私が分からないことをしゃべった時はいつも苛ついたものだ。近所の大人達が夜、父親と話し込んでいて、私は行ったり来たりして起きていて、彼らが話す訳の分からないことを理解しようと努めた後、自分の小さな寝室に退くのだけれど、眠らずに、自分なりに腑に落ちるまで考え抜いたものだ。この種止むに止まれぬ情熱のようなものが私にはつきまとっていた」と語っている。
 人生のずっと後になって、リンカーンは、ユークリッド幾何学を自分の知的訓練のために自習している。彼は弁護士になったのだけれど、これもほとんど自習で資格を取ったようなものであり、彼はこういった性分を研ぎ澄ませて行った。
 リンカーンは飲み込みの早い方ではなかったが、徹底的に勉強する方だった。・・・
 リンカーンと法律事務所で同僚だったウィリアム・ハーンドン(William Herndon)は、・・・「リンカーンを単純な男だと考えるような奴は、いつの間にか自分が溝に仰向けに落とされていることに気付いて泡を食うだろう」と述べている。・・・

 1848年7月27日、背が高くて痩せこけたホイッグ党のイリノイ州選出下院議員たるリンカーンは、議場でジェームス・K.ポーク大統領の米墨戦争政策を批判した。彼はこれを不正義の戦争と考え、反対していたのだ。エイブラハム・リンカーンは、1832年のブラックホーク戦争における民兵大尉としての乏しい実績を自嘲して次のように発言した。「ところで議長、私が軍事的英雄であったことをご存知ですか? ニンニク(wild onion)畑に向かって攻め込み、蚊の襲来と何度も戦ったのですから」と。
 ・・・<そんな軍事経験の乏しいリンカーンが大統領選で勝利し、>ワシントンへ向かっていた1861年2月、・・・ニュージャージー州のトレントンの同州の議会での演説で、リンカーンは、1776年のクリスマスの夜、ジョージ・ワシントンと彼の小ちゃな軍隊が、みぞれが吹き付ける嵐のさなかに氷だらけのデラウェア川を渡り、<英本国の傭兵であるドイツの>ヘッセ軍のトレントンの兵営を攻撃しようとした時の話(コラム#510、511)に言及した。「これらの男達は普通のことを超える何物かを心に期していたに違いないのです。国家の独立さえを超える何物かを・・。世界中の人々のために永久の恩恵となる何物かをね。今私は、連邦(Union)、憲法、そして人々の自由を、独立戦争が戦われた本来の観念に沿った形で恒久的に続かせなければならないという焦燥感にどんどん駆り立てられつつあります」と。
 このトレントンでの演説から2ヶ月も経たないうちに<南北戦争が始まり>、リンカーンは、米軍最高司令官が何たるかに習熟しなければならない羽目に陥った。そもそも、彼の敵、<南部連合の指導者、>ジェファーソン・デービス(Jefferson Davis。1808〜89年)は、リンカーンよりはるかに、<戦争遂行という>恐るべき任務に対する準備が整っていた。というのは、デービスは米陸軍士官学校卒であり、米墨戦争でミシシッピ連隊を大佐として率いて戦って勇名を馳せ、1853年から57年まで傑出した戦争(陸軍)長官として勤務したことがあったのに対し、リンカーンの軍事的経験ときたら、前述のように、1832年の蚊との戦闘だけだったからだ。・・・

 リンカーンは、そのほぼすべての任期が戦争によって覆われることとなった唯一の米大統領だ。・・・
 彼より前の大統領である、ジェームス・マディソン(James Madison)は1812年の戦争を、そしてジェームス・K・ポークは米墨戦争をそれぞれ任期中に経験したが、大統領の米軍最高司令官としての役割は、依然、漠然としていたし政治的にも法的にも正しく定義されていなかった。・・・
 <しかも、>リンカーンが大統領に就任した時点で、連邦陸軍は16,000人の規模でしかなかった。また、その士官団は南部各州の出身者、とりわけバージニア州出身者が多かった。・・・第一、士官達は選挙で選ばれたり、政治家によって任命されたりしていた。・・・

 南北戦争が始まると、リンカーンは軍事教範と軍事教科書を読んで軍事の基礎を急速に身につけた。
 リンカーンの私的秘書のジョン・ヘイ(John Hay)は、ホワイトハウスに住み込んでいたが、軍事戦略の本を咀嚼するために、リンカーンが真夜中に寝室を歩いて行ったり来たりしている音をしばしば聞いた。「彼は日夜、軍事状況を勉強していた」とヘイは書いている。
 リンカーンは戦略関係の著作をたくさん読破した。彼はまた、種々の省や戦場の地区からの報告書を熟読した。更に、著名な将軍や提督達と長時間の会議を持ち、彼らをその軍事知識と質問の際の鋭い知性によって驚愕させた。・・・1862年までには、リンカーンの軍事戦略と作戦への通暁度は大変なものとなり、歴史家のT・ハリー・ウィリアムス(T. Harry Williams)の「リンカーンは偉大な戦時の大統領だ。恐らく米国史の中で最も偉大な・・。そして、彼は偉大な生まれつきの戦略家であり、彼の将軍達の誰よりも優れていた」という評もあながち大げさではないのかもしれない。・・・
 部下の将軍達が適切な行動をとらなかった時は、リンカーンは電信で、どこに向かって進撃し、どうやって敵を撃破するかを彼らに指示した。しかし、遺憾ながら、将軍達は、しばしばこの指示を無視し、どうして実行できなかったかの言い訳をたれた。・・・

(続く)