太田述正コラム#2717(2008.8.8)
<ヒットラーの二つの謎(その2)>(2009.2.22公開)

 第一の点については、カーショウは、ヒットラーがナチスドイツの中心にいたことを明らかにします。何事であれ重要なこと・・もちろんホロコーストは重要なことです・・がヒットラーの認知と承認なくして行われるようなことはなかったと。しかし、ヒットラーの影響力はしばしば間接的に、彼の目指していたり欲っしているものを忖度した人々によって発揮された、というのです(注3)。

 (注3)カーショウは、ヒットラーは、ドイツ国民が、より正確にはドイツ国民中の主要グループが、自分達の野心と熱望を投影する空虚な入れ物(blank space)であったように見えると指摘する。ただ、時間が経つにつれて、ヒットラーは、その大部分が彼のために他人達がつくりあげたところの、自分自身の神話を信じ込むに至り、より決定的な、そして最終的には破滅的な役割を、政策形成、就中戦争に関する政策形成において担うようになったというのだ。

 第二の点については、カーショウは、やはりホロコーストを例にとってナチスドイツの世論の評価を行います。ここでも彼は両極端の議論を排します。当時の大部分のドイツ人は、熱狂的なユダヤ人嫌いでもなければ何も知らぬ(innocent)傍観者でもなかったというのです。彼らは、欧州のユダヤ人がどんな目に遭っているか知っているか、さもなくば知ることができたのであって、自分達の政府の血まみれの政策に積極的に反対した者はほとんどいなかったのです。とはいえ、「ユダヤ人問題」はヒットラーとその取り巻きにとってはこの上もなく重要であったものの、ドイツ人の大部分にとってはそんなものは重要な案件ではありませんでした。「アウシュビッツへの道は憎しみによって築かれたが、無関心によって舗装された」とカーショウは1983年に記しています(注4)。

(注4)カーショウによれば、ナチスに傾倒していた(committed)ドイツ国民はほとんどいなかった。大部分はナチスのプロパガンダやいくつかの実績によっていつの間にかナチスの黙従するに至った(lulled into acquiescence)ものであり、彼らの日常生活における最も内奥の価値・・その大部分は宗教的行為に関わるもの・・に直接的に干渉された場合に限ってナチス体制に・・時には成功裏に・・異議を唱えたのだという。

 カーショウはやがて、ホロコーストについて何も知らぬ傍観者であったドイツ国民などほとんどいなかったという見解へと変わるのですが、いずれにせよ、ヒットラーらは(対外的侵略と)ホロコーストを、さしたる抵抗にドイツ国内で直面することなく遂行することができたのであり、ナチスドイツのもたらした悪夢に終止符を打ったのは、国内の抵抗ではなく、軍事的敗北であったということを銘記すべきでしょう。

 以上のことを踏まえるとして、ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのでしょうか。

 ホロコーストについては、ヒットラーによる特定の日付の単一の命令がなされたわけではありません。
 カーショウは、「ヒットラーによる明確な命令があるのは、1939年9月のドイツによるポーランド侵略の後、ポーランドの知識人の殺害と旧ポーランド領でドイツ領に編入された地域からのユダヤ人の追放(ethnic cleansing)を命じたものくらいだ。」と記しています。
 1941年の夏、ドイツ占領下のポーランドにおける上級保安将校であったロルフハインツ・ホップナー(Rolf-Heinz Hoppner)はアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)に、彼の州(province)にいる30万人のユダヤ人をどうしたらいいのかを問い合わせる手紙を送っています。
 その手紙にいわく、「この冬、ユダヤ人全員の食糧を確保できない可能性がある。すぐにできるやり方で、強制労働に耐えられないと考えられるユダヤ人を片付けることこそ最も人道的解決方法ではないのか、真剣に検討がなされるべきだ。いずれにせよ、こうすることは、連中を餓死させるよりは不快感が少ないと愚考する。」と。
 1941年中のヒットラーの命令にもホロコーストに関し明確なものはないのですが、カーショウによれば、SS(親衛隊)の長官ハインリッヒ・ヒムラーにヒットラーが、「新たに占領した地域を「平定(pacify)」し、保安上の脅威たるソ連共産党幹部(Soviet political commissars)とユダヤ人を殺害せよ」という命令を発し、広範な権限を与えたことが決定的だったというのです。
 1941年8月までには、ヒムラーの特命部隊と警察はユダヤ人の男性、女性、そして子供達の大量無差別殺戮を始めました。このことについては、ヒットラーは十分承知していました。
 そして1941年10月、ナチス当局は、ベルリン、プラハ、ウィーンや他の中欧の諸都市からユダヤ人の東方への輸送を始めます。このユダヤ人達は、ポーランドや東欧のユダヤ人達が既に強制的に送り込まれ、急速に悪化する条件の下で生活していたところの、ゲットーに送り込まれたのです。
 その間、特命部隊と警察によるユダヤ人の銃殺は最高潮に達していました。
 ヒムラーは、このような状況の下、ユダヤ人を大量に殺害するより迅速な方法として毒ガスを用い始めます。最初は移動車両の中で、次いで、1941年11月にベルゼック(Belzec)を嚆矢として、ユダヤ人根絶収容所の中に恒久的施設を建設することによって・・。
 いずれにせよ、ことここに至るや、ナチスの指導部は、ユダヤ人殺害計画に係る根本的意志決定を行うとともに、同計画の遂行について総合調整を行うための会議を開催する必要に迫られ、主要行政官庁が集う会議をベルリン郊外のワンゼー(Wannsee)で開催するとの決定を行います。この会議は、米国に対しドイツが宣戦布告を行ったことにより、翌1942年の1月まで延期された上で開催されます。
 米国に宣戦布告をした翌日、ナチスの指導者達への私的会話の中で、 ヒットラーは、「世界戦争が始まった。ユダヤ人の絶滅がその必然的結果(necessary consequence)でなければならない」と語っています。 
 このヒットラーの発言を数日後に自分の部下達に伝えたポーランド総督のハンス・フランク(Hans Frank)は、この上もなく明快でした。「われわれはユダヤ人を見つけ次第粉砕(destroy)しなければならない。<管轄下の>350万人のユダヤ人を銃殺することは不可能だが、連中を毒殺することはできる。ただし、われわれはユダヤ人絶滅の成功に導く適切な手順を踏む必要がある」と。
 すなわち、カーショウに言わせれば、ホロコーストの意思決定は確かになされ、その意志決定を行ったのはヒットラーその人なのです。

4 終わりに

 この類の話は、書いているだけで気が滅入ってきます。
 欧州文明は狂気の文明である、との私のかねてよりの主張はもっともらしい、とお思いになりませんか?

(完)