太田述正コラム#3063(2009.1.29)
<皆さんとディスカッション(続x382)>

<michisuzu>

≫この投稿は今までの中で特にできが悪いな。・・・≪(コラム#3061。太田)

 反論ではありませんが、世界の中でセックスに関する時間は日本は最下位に近いです。http://chiquita.blog17.fc2.com/?mode=m&no=2783

 私は職業柄(カウンセラー)さまざまな夫婦や子供の登校拒否の場合セックスレスは本当に多いのですが、セックス中毒なる人には今迄お目に掛かったことさえありません。
 太田様は本気で日本人が現代セックス中毒に汚染されていると思われているのでしょうか?

<太田>

 私は、「日本人はセックス中毒から目を背けている、と言えるのかもしれません。」(コラム#2971)と記したけれど、「日本人が・・・セックス中毒に汚染されている」なんて一言も言ってませんよ。
 日本にもセックス中毒者は間違いなくいます。なぜ断言できるか、その理由は控えさせてもらいますが、私が分からないのは、「性的禁忌が、アングロサクソン世界に比べると少ないはずの日本」(近日公開の「セックス中毒(その2)より)で、どうしてセックス中毒について、学術的議論どころか、「真面目」な体験談や小説すら出版されないのか、です。(もっとも、私が知らないだけで、「真面目」な体験談や小説は存在するのかもしれませんがね。)
 蛇足ながら、「世界の中でセックスに関する時間は日本は最下位に近い」というか、現代日本人の性的衝動の弱さ、より一般的に言うと、中性化の問題は、私が過去コラムで何度も取り上げてきたところです。
 本件に限らず、過去コラム、少しずつでいいから、読んでね。
 いずれにせよ、michisuzuちゃん、ちゃんと典拠付けた議論できるじゃないですか。
 この調子、この調子。

<Nelson>

≫尊敬や忠誠心というのは私には自分自身に相手とある種の交流が最低限必要だと思うのですが?・・・でもやはり、忠誠心の核となる事実について今回も到達できないことは残念です。≪(コラム#3061。michisuzu)
 
 私の「忠誠心の核」は、端的に言えば、一、天皇が長年日本人によって守られ続け、日本人とともに生きてきた存在であること、二、今でも多くの日本人に信頼されていることです。
 尊敬や忠誠心を抱かれる存在というのは、周りに必ず慕われています。慕われる存在だけでなく、その周りの人達が私にとって信頼に足る人物が多かったからこそ、私は天皇陛下に忠誠心を抱くのです。だから、慕われる存在に最低限必要な交流がなくとも、畏敬するのだと思います。
 おそらく、michisuzu様はこの答でも納得されないでしょうね・・・だとしたら、他の人の尊敬の心や忠誠心なんていうのは、教えてわかるものではないのかもしれませんね〜ってことでよろしくお願いします。

≫Nelsonさん、お時間のある時に「左翼の法学者」への反論をお願いしまーす。(コラム#3061。太田)

 相手は「プロ」ですか…。「アマ」の私には荷が重いですが…がんばりまーす(やや省エネモードで)。

≫太田コラムに触発され,左翼の法学者と天皇の戦争責任について議論しました.自分にとって興味深かったので,紹介させていただきます.なお,単純化のため,日本の権力機構のうちのどこか・誰かに責任があるという前提で話を進めます.≪(同上。ドイツゲーマー)

 少しはお役に立てて良かったです。ありがとうございます。

1形式的責任について

>形式上,天皇は当時の主権者であり,政治の最高責任者だった.戦争は天皇の名において行われている.(左翼の法学者)

 「天皇は政治の最高責任者だった」とは明治憲法に明記されていません。天皇の大権行使の責任は各国務大臣がその責任を負うんです(明治憲法55条)。

>「輔弼の任に当たるべき内閣,ひいては国民にこそ責任がある」という反論に対しては,「例えば,不祥事のあった官庁の大臣が『自分は下から上がってくる書類に自動で判子をついただけだ』と言い訳したとして,その責任を逃れられるだろうか?」とコメントしていました.(同上)

 現行の法体系の大臣の責任と明治憲法下の天皇の責任をなぜ同一視するんですか?
 現行の「主任の大臣」は、分担管理する行政事務の責任者であり、管理する機関の人事・経理・組織運営等にも全般的な職責を有し、さらに「主任の大臣」の、自らの分担管理する機関・行政事務に関連のある法律及び政令に署名は、その法律及び政令の執行責任を伴います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E7%9C%81%E5%A4%A7%E8%87%A3#cite_ref-1

 しかし、何度も言うように、天皇の大権行使の責任は、各国務大臣が負うんです。

2 実質的責任について

 「(2つの聖断は)重要な局面で天皇の意思が通っている証拠だ」とは、断定で言っているのですか、憶測で言っているのですか?
 断定ならば、重要な局面で立憲君主を順守した昭和天皇が安全保障政策に相当程度関与し、それが天皇の実質的責任を構成することを証明する根拠を示してください。もし他に根拠がないのならば、2・26事件とポツダム宣言受諾の2つの聖断がなぜ天皇の実質的戦争責任につながるのですか?
 憶測ならば、議論になりません。もっと、左翼の法学者様には、ほかの部分への反論や問題提起をしてほしかったところです。

3 最後に

 「法学者」の方は実質的責任はあるといっても、形式的責任は否定されるのかと思ったらそうでもないのですね。
 michisuzu様と違って、左翼の法学者様との議論は無味乾燥で虚しいだけでした。
 ただ、私が「左翼の法学者」様の見解をしっかり把握できていないことが原因なのかもしれませんが・・・。

<太田>

 急な代打指名に応じてくれてありがとう。
 Nelsonさんによる形式的責任論をほんの少し、そして「やや省エネモード」であるところの実質的責任論をたくさん、補足させて下さい。

1 形式的責任論

 「・・・明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていたが、そ<の旨>憲法に明記<は>されて<いなかったこともあり>、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9

 後述の昭和天皇による2.26の時の「陣頭指揮」も、終戦の「聖断」も、政治(軍政を含む)と統帥にまたがって行われたことに注意しましょう。


2 実質的責任論

 (1) 始めに

 「<昭和天皇>は、「2.26の時と、終戦の時と、この2回だけ、自分は、立憲君主としての道を踏み間違えた」とおっしゃっている。・・・「2.26事件の直後は、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分らないので、自分が進んで〈決起した青年将校たちに対する〉態度を改めるように指導した。終戦の時は、議論がまとまらず、総理大臣が(陛下に)意見を求めたから、自分の考えを述べた」と・・・。」(侍従、入江相政氏の「天皇さまの還暦」)ことを踏まえた物言いを私自身行ったことがあります。
 (以下、(1)中の典拠は以下による。
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_5.htm

 しかし、本当のところは、私は、昭和天皇が「立憲君主としての道を踏み間違えた」ことは一度もないと思っているのです。
 ご本人がそう言っているったって、「昭和天皇は、「戦争遂行の過程において取られたあらゆる政治的、軍事的決定に対して、自分は、唯一の責任を負う者として(マッカーサー)閣下が代表する権力に自分の身をゆだねる」とおっしゃた」(マッカーサー回想記)ような、ご自分に厳しすぎるくらい厳しい人ですからね。

 ちなみに、「駐日アメリカ大使<を務めた故>ラィシャワー博士は、その研究書「太平洋の彼岸」の中で、じっさいには政治にたずさわれなかった日本の天皇の、ただ一つの政治に関係して、そのもっとも重大な、しかも、もっとも勇気ある決意を示されたのは、このとき<(=終戦の時)>であると述べている」ところです。
 
 このラィシャワーも、2.26の時は、天皇が「政治に関係して・・・決意を示された」ケースであるとは必ずしも考えなかったようですね。

 それでは、終戦の時と2.26の時の順にご説明しましょう。

 (2) 終戦の「聖断」について

 「・・・<鈴木貫太郎>総理が立ちまして、おもむろに、『本日は<御前会議(注1)>列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います』とのべられ、静かに陛下の御前に進まれました。そのとき阿南さんは、たしか『総理』と声をかけられたと思います。しかし総理は、おきこえになったのか、おきこえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして、ていねいに御礼をされまして、『ただ今お聞きのとおりでございます。なにとぞおぼしめしをお聞かせ下さいませ』と申しあげました。・・・陛下はまず、『それならば自分の意見をいおう』とおおせられて、『自分の意見では、<ポツダム宣言受諾を主張した>外務大臣の意見に同意である』とおおせられました。」(迫水<久常>氏述「終戦の真相」より)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_5.htm上掲

 (注1)構成員は、天皇、内閣総理大臣、国務大臣、枢密院議長、枢密顧問官、参謀総長、参謀次長、軍令部総長、軍令部次長、宮内大臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 私自身は、これは、内閣を代表して総理が、会議を傍聴していた、一有識者たる昭和天皇に諮問を求め、その有識者による諮問内容をもって内閣の意思(輔弼内容)とすることとし、天皇がその付託に答えられただけのことであるととらえており、天皇が潜在的に有していた権限を(主体的に)行使されたものとは理解していません。 
 ライシャワーの「太平洋の彼岸」(1958年)の原著は、The United States and Japan, Viking(1957年)であると思われますが、在日米大使に任命される前のものとはいえ、終戦直後に天皇制のあり方を含む対日政策立案に携わったライシャワーが日本史家として書いたというよりも、政治的配慮を重視して書いた本ではないかと思うのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BBO%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_O._Reischauer

 (3)2.26の時の「陣頭指揮」について

 「・・・<1936年2月26日、>天皇が<2.26>事件の知らせを聞いたのは午前5時40分である<が、>侍従甘露寺受長・・・が天皇に報告したものである。・・・陛下は静かにお聴取りになり『そして暴徒はその後どの方面に向つたか判らないか、 まだ他にも襲撃された者はないか』とお訊ねになつた。『暴徒』さうだ確かに暴徒だ、正しい日本の陸軍ではない、 甘露寺の頭にこの『暴徒』といふ言葉が強く烙印された」・・・<次に>侍従武官長本庄繁大将・・・が報告すると、36歳の天皇は大きく眉をよせてその衝撃を表した。「未曾有ノ不祥事デアル。速カニ事件ノ実態ヲ調ベ、軍隊ヲ正常ニ復セシメヨ」・・・。・・・
 前宮相の一木喜徳郎・・・枢密院議長・・・は、・・・「天皇機関説」の憲法学者で、機関説問題が起ると同時に、皇道派から排斥されていた<が、> 午後3時頃、・・・参内せらる。 陛下より議長に対しなるべく側近に居る様にとの意味の御言葉ありし由にて、 組閣の完了する迄内大臣室に宿泊せらる」<。また、>広幡皇后宮大夫は、・・・「湯浅宮相ニ<襲撃を受けて死亡した>内大臣ノ気持ニテ奉仕センコトヲ述ベシモ、 宮相ハ政治ニ干与スベキニアラズトテ躊躇」した<が、>、宮相ハ事実ニ於テハ、御上ノ御下問ニモ、勢ヒ奉答スルコトトナリ、又事件発生以来、宮中に起居セル一木前宮相等モ、 裏面的ニ種々奉仕ヲ為スコトトナレリ」・・・。<こうして、>一木と湯浅倉平とがこの事件対策では事実上の天皇のブレーン<とな>った。」
http://www.c20.jp/1936/02226ji.html

→天皇は、2.26事件に対し、天皇機関説の学者と、政治関与に慎重な人物をブレーンとして選び、自分を輔弼してくれる総理大臣臨時代理の選任等を行った、ということです。立憲君主そのものではありませんか。(太田)

 「・・・26日、川島陸相から「蹶起の趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」にはじまる大臣告示が、 叛乱をおこした部隊に伝達される。・・・つづいて戦時警備令が下達されるが、これは叛乱部隊を正規の警備部隊に編入し、占拠中の場所で警備につくことを命じている。 正規の命令なく出動して殺傷をおこなった部隊が「公民権」をあたえられ、 食料その他正規の軍隊として待遇されたのはこの命令による。」
http://www.c20.jp/1936/02226ji.html上掲

→陸軍省/参謀本部は職責を真面目に遂行していなかったということです。(太田)

 「26日午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名されるとともに、戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していたが、すみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令(注2)は施行された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 (注2)帝国憲法にいう戒厳令とは、国民の権利を保障した法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍隊の権力下に移行することだが、2.26事件の時の「戒厳令」はそうではなく、東京周辺を対象とするところの、緊急勅令に基づくいわゆる「行政戒厳」だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%8E%B3%E4%BB%A4

→首相臨時代理が閣議を主催して天皇への輔弼責任を果たし、戒厳令施行が決まったというわけです。(太田)

  「27日、緊急勅令により東京市に戒厳令施行。 「叛乱」部隊は麹町地区警備隊として区処され、これを知った<事件首謀者の一人の>磯部浅一は万歳を唱えている。」
http://www.c20.jp/1936/02226ji.html上掲

→陸軍省/参謀本部が戒厳令の趣旨をねじ曲げ、またまた職務をさぼったということです。(太田)

 「<27>日午後0時45分には川島陸相が天皇に拝謁、その後に本庄繁侍従武官長と会見した。この日だけで本庄武官長は天皇と13回も会話を交わし、決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に言上した。これに対して天皇は『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』。さらには『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン』という強い意思を明らかにした。
 すでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀に対して、自他共に皇道派を認めていた香椎戒厳司令官は その後も説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。いったん奉勅命令が下ると万事休すのため、反乱軍の将校らも駆け引きを活発化させる。しかし28日早朝、とうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が下達される。これによってようやく武力鎮圧の方針が決定した。
 同日午後、岡田総理の無事が確認され<た>。」(ウィキペディア上掲)

→天皇は、単に陸軍省/参謀本部に対し、いいかげん、職務をさぼるのを止め、きちんと職務を遂行せよと述べただけのことです。「2.26事件の直後は、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分らないので、自分が進んで〈決起した青年将校たちに対する〉態度を改めるように指導した」との天皇の上掲証言は、2月26日の午後9時からは総理大臣臨時代理が存在していたこと一つとっても不正確です。(太田)

 「28日、「出動」部隊は占拠をやめて原隊へ復帰せよという天皇の奉勅命令が第一師団の各部隊に伝えられるが、 「出動」して叛乱した部隊にこの命令は伝達されない。そして29日、伝達されなかった奉勅命令に違反したという名目で、叛乱の烙印がおされ、鎮圧がおこなわれる。・・・」
http://www.c20.jp/1936/02226ji.html上掲

→最後の最後まで陸軍省/参謀本部は職務を忠実に遂行しなかったけれど、結果的に戒厳令の目的は達成されたということになります。当然というべきか、「陸軍大臣であった川島は3月・・・に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役とな<りまし>た。」(ウィキペディア上掲)(太田)

 このように見てくると、あのライシャワーですら、2.26事件の時の天皇の言動を政治的行為であるとは言えなかったのは当たり前だと思えて来ませんか。

 してみると、2.26事件に関する日本語ウィキペィア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
の「・・・もともと明治憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げている。・・・」という記述は、極めて不適切だと言うべきでしょう。

<michisuzu>

 <コラム#2685「部落・在日問題」を読みました。>

≫太田述正×兵頭二十八『属国の防衛革命』(光人社)に掲載予定でゲラにも入っていた、部落・在日問題に触れた部分が、光人社が専門家と相談した結果、部落・在日関係者から強い批判を招く懼れがあるとして、削除されることになりました。・・・≪(コラム#2685。太田)

 素晴らしい論文ですね?今まで見た論文では最高です。
 何故にこれが削除されたのか大いに憤りを感じます。
 最低限在日に関して多少なりとも議論するには以上のような論文は目を通してからにして欲しいものですね。

≫以上のことから、戦後在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたことが、日本人にとってトラウマとなっており、移民受入問題を冷静に議論することが困難になっているとわかるだろう。≪(同上)

 本当に在日に対する日本人の拒否反応の強さには辟易としますが、多分今後とも解消は相当難しいでしょうね。
 例えば、国民投票制度や首相公選制度は10年以内に可能でも移民(私は賛成ですが)の受け入れに関しては日本国民が受け入れるまであと20年(その頃には国力低下でもはや手遅れですが)はかかりそうですね。

<太田>

 なんと、本日のディスカッションは、女性お二人の大活躍でしたね。
 男性陣の奮起を促すとともに、ますます、日本において、女性を対象とするアファーマティブアクションを導入する等あらゆる施策を講じて、政治等各分野で女性に縦横無尽の働きをして欲しいという思いが募っています。
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太田述正コラム#3064(2009.1.29)
<パレスティナ問題の今後(その2)>

→非公開