太田述正コラム#2667(2008.7.14)
<ハセガワとベーカーの本(その4)>(2009.1.19公開)

 (ハセガワの本を「原爆投下とソ連の参戦」という第5章の直前のPP176まで読んだところですが、この本が翻訳発売された暁にはぜひお読み下さい。名著です。)

 これから先は、ハセガワの本からの引用だけで基本的に進めていきましょう。

 「・・・トルーマン<大統領>は<日本に対する>無条件降伏要求を修正することを欲してはいなかった。彼は敵に無条件降伏を押しつけることで真珠湾の屈辱に報復しようとしていた。ただし、その一方で、彼はなお、この復讐への渇望を満足させつつも、米国人の生命の被害を最小限に抑える方法を探す必要があった。」(PP99)

 「<スターリンと>モロトフ<外相>の意図は紛れる余地がない。すなわち、彼<ら>は<ソ連との宥和を図ろうとした>広田<元外相・首相>とマリク<駐日ソ連大使>の諸会談を戦争を継続<させることによって日本が降伏する前にソ連が参戦するための時間稼ぎを>するための道具として使うことを欲していたのだ。」(PP99)

 「関東軍を形骸化させたことは、帝国陸軍の観点からすれば当然のことだった。というのは、日本はソ連を戦争の埒外に置いておくことができると想定していたからだ。」(PP101)

 「<1945年>6月15日、<米>統合戦争計画委員会は<日本侵攻計画を策定した。>・・・この委員会は、九州と関東平野における作戦の合計で<米軍に>193,000人の死傷者が出て、そのうち戦闘による死者数は40,000人出ると予想した。」(PP103)

 「6月18日<のホワイトハウスにおける会議では、>・・・マーシャル<陸軍参謀長>は、推定死傷者数として190,000人の兵員のうち63,000人をあげた。・・・この数字は、トルーマンやスチムソン<陸軍長官>が戦後書いた回顧録で、原爆投下を正当化するためにあげた数字よりはるかに低い・・・」(PP103〜104)

 「6月26、27日の両日、スターリンは<党>政治局、政府、そして軍の合同会議を開催した。この会議では、8月に満州で日本軍に対する全面攻勢をかけることが決定された。・・・ソ連の軍事作戦の目的は、満州、南樺太、そして千島列島を含むところの、ヤルタ協定で<ソ連に>約束された全ての領域を確保することだった。北朝鮮の占領は、日本軍の逃走路遮断のため不可欠であると考えられた。北海道についての意見は割れた。・・・<この点について>スターリンは何も言わなかった。北海道をどうするかは結局決まらないまま終わった。」(PP115〜116)

 「<トルーマンにとって>ソ連の参戦は保険にほかならないのであって、原爆こそトルーマンの最高のオプションであり続けた。更に言えば、トルーマンは・・・スターリンを、日本を敗北させるという共通の大義にコミットしている同盟者としてではなく、日本に降伏を強いることに関する競争者と見ていたことは明確だ。」(PP139)

 「スターリンが、<ソ連による>日本攻撃の日として8月15日をあげたことは、・・・米国にとって、原爆を、ソ連参戦前の8月の初頭に<日本に>投下することを至上命題たらしめた。ここに、ソ連の参戦と原爆の間の競争はクライマックスを迎えた。」(PP140)

(続く)