太田述正コラム#2651(2008.7.5)
<私の1つ目の人生>(2009.1.6公開)

1 始めに

 私自身について語るのをお許しいただきたいと思います。
 私はこれまで59年余り生きてきましたが、既に2つ分の人生を生き、防衛庁を飛び出した7年前からは3つ目の人生を生きつつある、という気が最近してきました。
 本日、皆さんにご紹介するのは、私の1つ目の人生です。
 どうして私がこんな話をすることにしたのか、その理由はご想像におまかせします。

2 私の1つ目の人生

 今でも鮮明に覚えているのは、ヤマハのアップライトのピアノが三重県最大の都市である四日市市の家に運ばれてきた日のことです。
 私は4歳でした。
 当時、四日市がいくら田舎ではないとは言っても、まだピアノは珍しかった頃であり、家の前に見物人が大勢集まりました。
 ある商社の名古屋支店に勤務していた私の父は、ヒマさえあれば、クラシックのレコードをかけているというクラシック狂であり、一人息子の私にピアノを習わせたいと思ったらしいのです。
 それから、ほぼ毎日、最低2時間以上ピアノの練習をする生活が13歳の、私の1つ目の人生の終わりまで続くことになります。
 母は、クラシック音楽どころか、音楽一般に余り関心のない女性でしたが、教育熱心であり、私の尻をたたいてピアノの練習や勉強をやらせました。
 習い始めて2年ほど経った頃、私のついていた四日市のピアノの先生のお弟子さん達の発表会がラジオで放送され、私は最初の「デビュー」を果たすことになります。
 7歳になるかならないかの小1の時、父親が勤務先の商社のカイロ支店長となったことから、母と私もカイロで暮らすことになり、カイロのアルメニア人女性を先生として私はピアノを続けました。
 当時のカイロは中東随一の大都市であり、非原住民系の金持ちの住民も多く、彼らの間ではピアノをやっていた子供達ももちろんいたはずですが、数が少なかったのでしょう。
 私が8歳の時に、あるサロンで他の年長の子供達に混じってピアノの演奏を行ったところ、この演奏会の取材をしていたフランス語の雑誌が、ピアノを弾いている私の大きな写真入りの記事を掲載したのです。
 その記事を見たカイロの写真館が私のポートレートを無償で撮って、私にプレゼントするとともに、その写真が店頭を飾りました。
 そして、こういった話が、新聞の四日市版にも載ることになります。
 9歳の夏休みには、母親とともにオーストリアのザルツブルグに赴き、モーツアルト記念音楽院(Mozarteum)
http://www.moz.ac.at/
で夏期研修を受けました。
 この夏期研修員の発表会が講堂(studium)で行われ、私の演奏は好評を博しました。
 この発表会を取材していたデンマークだったかの記者のインタビューを、発表会終了後に受け、記事をカイロの住所宛送ると言われました。(結局記事は送られてきませんでしたが・・。)
 その夜、発表会を聞きに来てくれた下宿先の一家が、お祝い会を開いてくれました。
 下宿先の家のおばさんが、「あなたはモーツアルトの再来だ」と言って私を祝福してくれたことを覚えています。
 小5の時には私は帰国し、爾来東京住まいなのですが、私が帰国したことも、新聞の四日市版に載っていたらしく、小6の時に、(1年生の途中までしか在籍していなかったというのに)四日市の母校の小学校から、講堂にグランドピアノが入ったので、その弾き初め式で演奏をして欲しいと依頼されたのです。
 そこで、母親と四日市に行って来たのですが、二人分の往復の旅費のほか、謝礼として1万円(1960年当時の1万円ですよ)もらいました。
 帰京してから、私が母親に提案し、少年少女世界文学全集をこの1万円で買って、母校に寄贈しました。
 この弾き初め式出席も新聞記事となり、この記事を見てファンレターが何通か寄せられました。
 そのうちの一つは、ある青年からの本人の写真入りのファンレター(ラブレター?)であり、恥ずかしい思いがしたものです。
 ちょうど同じ頃に、ノーベル賞作家である米国人のパール・バック女史から、ご指名で私に彼女が制作する映画の主人公にというお話があり、私が自分の意思でご本人に直接お断りした顛末を以前(コラム#1174で)記したことがあります。
 この頃が、私の第1の人生の絶頂期だったのです。
 この私の第1の人生は、中1になった12歳の夏、一挙に暗転します。
 毎日新聞社主催の音楽コンクールのピアノの中学生部門に出て、予選で落ちてしまうのです。
 これは、私にとってはショックでした。
 中1が中3と競うこと自体に無理があったとは私は考えませんでした。
 私には絶対音感こそ備わっていたけれど、以前から私は、自分の音楽性やピアニストとしての才能は大したことはないのではないか、という不安感を抱いていました。
 そこで、ついにピアノを止める時が来たと判断したのです。
 しかし、さすがにきっぱりとピアノの練習を止めることはできず、約1年惰性で練習を続け、13歳の秋、練習を止めました。
 こうして私の1つ目の人生は幕を下ろしたのでした。