太田述正コラム#2648(2008.7.4)
<イラク・ミャンマー・チベット問題をどう見るか(その2)>(2009.1.4公開)

2 ミャンマーとチベット

(1)ミャンマーとチベットにおける仏教勢力の闘い

 大変興味深いのは、ファシスト国家である中共と、軍部独裁国家であるミャンマーの体制変革(自由民主主義化)の担い手となっているのがどちらも仏教勢力であることです。

 (中共は高度経済成長を続けているのに対し、ミャンマーでは経済が停滞していますが、これは、マクロ的に申し上げれば、鎖国的な共産主義国家から経済面で対外的に開かれたファシスト国家へと変貌を遂げた中共に対しては先進自由民主主義諸国が積極的に投資や貿易(つい最近までこれに加えて経済援助)を行っているのに対し、形の上では自由民主主義国家から軍部独裁国家へと退行したミャンマーに対しては先進自由民主主義諸国が経済制裁を行っているからです。つまり、歴史を捨象すれば、先進自由民主主義諸国は、中共とミャンマーに対し、ダブルスタンダード的な対応を行っていることになります。)

 すなわち、方やチベット仏教勢力、方や上座部(=Theravad=小乗)仏教勢力が体制変革の担い手として、当局と対峙しているわけです。

歴史を振り返ってみると、インド亜大陸から中央アジアにかけての大国であったマウリア(Maurya)王朝のアショカ王(Ashoka。紀元前304〜 同232年。在位:紀元前273〜同232年)は、それまでの神の子孫としての権力者像に代えて、仏教の守護者としての権力者像を確立した人物です。
 それは、仏教を支援し、慈悲深い統治を行い、その見返りに仏教界(sangha)によって権力者として認知される、という権力者像です。
 このような権力者像が、ミャンマーやチベットの僧侶達の念頭にあります。
 ちなみに、チベット仏教勢力の方は、亡命指導者たるダライラマを有力な指導者として仰いでるものの、基本的にチベット人の間にしか信者がいないという弱みを抱えているのに対し、ミャンマーの上座部仏教勢力の方は、有力な指導者こそいないものの、圧倒的多数の国民が上座部仏教信者であるという強みを抱えています。

 ところで、中共当局は、どうしてダライラマ勢力の動向にあれほど神経をとがらすのでしょうか。
 四川省での大震災で倒壊した校舎の一つに敷地内に簡単な祭壇が設けられて、(無限ループ)テープレコーダーでお経が流れ、線香がたむけられ、蝋燭がともされ、亡くなった生徒達の遺影が多数掲げられている、と報じられていました。
 チベット人居住区でもないのに、「仏教国」日本と見まがうような光景です。
 中共で仏教がここまで復活し、浸透してきている以上、チベット人のみならず、中共の仏教徒一般、更には仏教に惹かれている広範な中共国民に影響力を持つダライラマが、欧米で大人気を博し、そのダライラマが拡大チベット圏の自治を目指していることに、中共当局は神経をとがらせざるをえないのでしょう。

 ところが、日本の仏教の僧侶達や仏教に関心を持つ知識人達から、ほとんどミャンマーやチベットの僧侶達を支援する声が聞こえてきません。
 しかし、考えてもみてください。
 生涯に一度は僧侶となることが求められる上座部仏教や、ダライラマ等の生まれ変わり伝説によって支えられているチベット仏教よりも、大乗仏教の流れをくむ日本の仏教、とりわけ私見によれば日本の禅、の方が本来はるかに、(世俗主義的環境において推進されることが望ましいところの)自由民主主義化の前衛としてふさわしいのです。
 皆さん、つい最近まで、日本は仏教思想の世界への普及で中心的役割を果たしていたことをご存じですか?
 最も活躍した一人が鈴木大拙です。
 彼は、1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった人物です。
 こういう話をコラムに書いたところ、読者から、笹井秀嶺氏がいるよ、という声があがりました。
笹井さんは、インドの少数者委員会(Commission for Minorities。イスラム教、シク教、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、各宗教の代表1名が選ばれる)の一人で、インド政府の中でも要人の扱いを受けている方だといいうことを知りました。
笹井さんは、インドでは仏教徒は、元ヒンズー教の不可触賤民であった貧困層に多く、そうした仏教徒の状況を何とか変えるため、断食、辻説法、政府への陳情などあらゆる手段で熱心に活動を続けるうち、自然に日本人僧侶、佐々井の名前がインド中に知れわたるようになったというのですね。
 ちなみにこのところ、仏教は米英の知識層の間で強い関心を呼びつつあります。
 というのは、キリスト教を始めとする有神論は科学によって否定されつつあるけれど、仏教だけは科学が進めば進むほど、正しさが裏付けられつつあるからです。

 ミャンマーにおける上座部仏教僧侶達とチベット圏におけるチベット仏教僧侶達それぞれの戦いは、やや単純化して総括すれば、科学によって裏打ちされた宗教の担い手達による、アジアにおける自由民主主義確立のための戦いである、と言えるのではないでしょうか。

 これで、本日のお話を終えてもいいのですが、せっかくですので、ミャンマーとチベットの情勢について、もう少しお話ししておきましょう。

(2)ミャンマー

 英国がミャンマーを第1次、第2次を経て第3次英緬戦争(the Third Anglo-Burmese War 。1885〜86年)に勝利し征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者(Supreme Patriarch)の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
 ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
 それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
 英国の支配の影響でキリスト教が行政と教育に持ち込まれると、その大部分が仏教徒であるところのミャンマーの人々は強く反発し、僧侶達は独立と仏教防護の殉教者となり、数多くが英国当局の牢獄で死亡しました。
 独立後、ミャンマーの権力者達は仏教を自らの支配のために利用してきました。
 非軍人たるウヌー(U Nu)首相は、1950年代初期に平和寺院(Peace Pagoda)を建立し、1960年代には仏教優遇政策を推進し、キリスト教徒が多いカチン、チン、カレンなどの少数民族の反発を招きました。
 ネウィン(Ne Win)将軍も、彼の後継者の軍事支配者達も寺院を建立しています。
 しかし、1962年から始まった軍政に対する1988年の約3,000人もの犠牲者を出した暴動の際には僧侶達は学生達と手を携えて闘いました。
 その結果、1988年以降は、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制するようになりました。
 1990年の小暴動の際には、僧侶達は兵士とその家族のために宗教的儀式を行うのを拒否したものです。この時は何百人もの僧侶達が当局に拘引されました。
 僧侶達はミャンマーに50万人近くいると見られています。
 軍部の支配下で経済が低迷を始めてからは、僧侶達は社会的支援活動に携わるようになり、エイズの診療所、孤児院、学校等の経営を行うようになっています。
 経済状況が悪化するにつれ、貧しい家庭の子弟で僧侶になる者が増えています。
 また、僧侶達は喜捨を受けて生活をしているために、ミャンマーの状況が一番良く分かっています。
 サイクロンによって大水害に見舞われたミャンマーの被災地では、仏教の僧侶達が被災者救援に積極的に従事しており、人々と僧侶達との結びつきは一層強まってきています。
 昨年9月に、僧侶達は、ミャンマーの一般国民の生活の困窮ぶりを踏まえ、軍政当局に何とかせよと訴えたのに対し、軍政当局は容赦なく弾圧したばかりなのに、またも僧侶達は軍政当局への挑戦を行っているのです。 

 アウンサン・スーチー女史についても触れておきましょう。
 ミャンマーの悲劇は、アウンサン・スーチーが上座部仏教勢力の指導者とは言えないことです。彼女はミャンマー独立の闘士たる父親の子として生まれ、インド大使となった母親とともにインドに赴き、そこでラジブ・ガンジーらと遊び、旧宗主国である英国のオックスフォード大学を卒業し、英国人の学者と結婚した、いとやんごとなき姫君であり、たまたま1988年に母親の見舞いのためにミャンマーに帰国していた時に体制変革派に担ぎ上げられて同派の指導者になったに過ぎません。その結果、彼女はノーベル平和賞を受賞しました。彼女に比べれば、軍政当局のトップであるタン・シュエ上級大将は、16歳で軍隊に入り、ジャングルの中で少数民族の叛徒との戦いにあけくれた、生粋の土着のたたき上げです。その結婚だって、戦死した同僚の妻であった女性の面倒を見るため、同僚達の間でくじ引きを行い、くじを引きあてたタン・シュエが彼女と結婚する巡り合わせになったものです。
 要するにアウンサン・スーチーは、ミャンマー国民の間で国際スター的人気はあるものの、真にタンシュエらに対抗できる、地に足の着いた指導者と言えるかどうかは、私は甚だ疑問に思っています。

 最後に、ミャンマーの軍事政権についてです。
 ネウィン独裁政権にせよ、現在の軍事政権にせよ、彼らなりの大義名分は、軍部支配の終焉は、少数民族の独立によるミャンマー・・現在人口5,500万人・・の崩壊をもたらす、というものです。
 これら少数民族の武装勢力との内戦こそ、1980年代末から1990年代初頭にかけて、休戦協定が次々に締結されたことによって収束に向かっているものの、上記事情に基本的な変化がない、と現在の軍事政権は考えているのです。
 その軍事政権は、1989年に国名をビルマからミャンマーに、ラングーンをヤンゴンに改め、1990年代初頭から、従来の社会主義的経済運営を止め、外国からの投資と観光客を呼び込むねらいで経済開放政策をとっています。
 軍事政権は、1997年にASEAN加盟も果たしました。
 しかし、軍部内で反対意見が根強くあるため経済開放政策が不十分しか実施できていない上、NLD弾圧を軍事政権に翻意させるべく1990年から欧米諸国によって経済制裁が行われているため、ミャンマーは、中共で起きたような経済的離陸を果たせないでいます。

(3)チベット
 
  ア チベット騒擾について

 今年3月、中共のチベット自治区で起こった騒擾は、またたく間に甘粛(Gansu)省、青海(Qinghai)省、四川(Sichuan)省のチベット人達の間にも広がりました。
 中共のチベット人統治は、必ずしもマイナスの面ばかりであったわけではありません。
 中共のチベット「征服」後、チベット自治区内とは違って、その外のチベット人地域は農地再分配の対象となっていたところ、これに反発したこれら地域の大地主たる貴族や僧院等が1956年にCIAの支援を得て叛乱を起こし、それが1959年にチベット自治区にも波及します。1959年にこの叛乱は鎮圧され、ダライラマらはインドに亡命しますが、CIAの引き続きの支援の下で散発的な叛乱はそれ以降も1972年に突然CIAが手を引くまで続きます。
 このような背景の下、1959年に中共当局はチベット自治区での自治のレベルを引き下げ、この自治区内でも農地再分配を実施しました。
 また、中共当局からの潤沢な補助金や年間100万人を超える観光客によってこのところチベットは中共全体の経済成長率を超える高度成長を続けています。
 青海省とチベット自治区を結ぶ鉄道も建設されました。

 では一体、騒擾の原因は何なのでしょうか。

 騒擾の原因は第一に中共政府の宗教政策です。
 チベット人の尊敬の的であるダライ・ラマを中共政府が一貫して排斥してきたこと、最近チベット人の学生や公務員の修道院訪問や宗教的儀式や祭りへの参加が再び禁じられたこと、同じく最近、僧侶達に中共政府史観のチベット史の講義への出席とその折ダライ・ラマ非難の唱和を義務づけたことが怒りを呼んでいるのです。
 第二の原因は、中共政府が漢人のチベットへの大量移住政策をとっていることへの怒りです。漢人との経済格差がこの怒りを増幅させているのです。
 
 ところで、チベット自治区と甘粛省、青海省、四川省のチベット人達の居住地域とはいかなる関係にあるのでしょうか。
 現在約半数のチベット人は自治区の外・・多くは近接する中共の諸省やネパール、インドと行った周辺諸国・・に住んでいると推定されています。おおざっぱに言えば、自治区は1912年にチベットは独立した共和国であると宣言した13世ダライラマが統治していた地域と合致しています。このチベットは中共当局が1950年に部隊を派遣して権力を及ぼした1950年代に至るまでの間独立国家として機能していました。・・青海省の97.2%はチベット自治地域である一方で、チベット人は青海省の総人口の約25%を占めています。四川省の約半分、甘粛省の10%、雲南(Yunnan)省の10%も同様チベット自治地域に指定されています。これら地区と地域は政治的には一体ではありませんが、社会的には一体なのです。

 チベット自治区や上記地域では、チベット人は都市のチベット人ゲットーと祖先伝来の地における貧しい村に住んでおり、漢人と交流することはありません。
 チベット人は漢人は政治的・経済的に優遇されてると見、他方漢人はチベット人が怠け者で恩知らずであり宗教にうつつを抜かしていると見ているところ、チベット人と漢人の経済格差には大きいものがあります。
 また、チベット人は中共政府が彼らの宗教的自由を侵害していること、就中中共政府の、彼らの精神的指導者であるダライラマへの扱いに憤りを持っています。
 チベット自治区やチベット人地域以外の漢人のチベット観はどうなのでしょうか。
 中国共産党に強く反対している知識人すら、中共のおかげでチベット人は奴隷的・飢餓的状態から解放されたと思っており、それに対し感謝どころか暴力で答えるとはけしからんと憤っています。
 また、チベットが支那から独立するなどということは絶対に許さないという点では、漢人の間でコンセンサスが成立しています。
 漢人とチベット人の間の反目は、漢人が宗教に関心を向け、従って仏教にも関心を向け始めたことから、ここ数年緩和する傾向にあったのですが、今回の騒擾によって再び反目が激化することは避けられないでしょう。
 このことは、ダライラマにとっても、漢人の間にチベット仏教を普及させる戦略をとってきただけに、痛手です。

 72歳のダライラマは「治世」68年に及ぶ、今や地球上で最も年季の入った元首です。
 実に、英国のエリザベス女王、タイのプミポン国王、キューバのカストロよりも「治世」が長いのです。
 このダライラマについて、ニューヨークタイムスは3月、政治家としての無能さを指摘する論説を掲げています。要旨次の通り。

 ダライラマが1959年にインドに亡命した時、彼はガンジーの非暴力主義的抵抗を行うと宣言した。しかし、実際には非暴力主義を唱えるだけでガンジーの行った塩の行進(Salt March)や断食といった「抵抗」に相当することは何もやらなかった。
 より問題なのは、1980年代終わりからは彼がハリウッドと提携して欧米でチベット支援運動を煽り立てる戦略を採用したことだ。(ソ連とは全く違って)中共は、その結果一層ナショナリスティックとなり排外主義的となった。
 米国はダライラマのこの戦略に乗せられて愚行を繰り返している。
 1987年に訪米したダライラマに米議会要人達が会い、ダライラマの対中提案の説明を聞いたが、このことを非難した中共の国営TV放送を見たチベット人達は、世界の覇権国たる米国政府がダライラマを支援することを決めたと受け取り、ラサで中共当局に対する抗議行動が始まった。当局は戒厳令の施行でこれに応えた。やがて1989年に騒擾が起こり、在チベット中国共産党書記の胡錦涛が容赦なくこれを弾圧した。
 昨2007年10月には米議会は最高勲章をダライラマに授与した。インターネットでこれを見たチベットの僧侶達は、米国政府がついにチベット問題を最優先でとりあげることになったと受け止めて喜び、爆竹を鳴らす等大騒ぎをしたため、彼らは逮捕された。
 今月起こったデモはこれらの僧侶達の釈放を求めて始まったものだ。それが急速に抗議行動へと転化して行った。
 このように二度にわたって米国はダライラマ支援のジェスチャーをしてチベットの人々を惑わしたが、これらは単に米議会の要人達が米国内向けに演じた自己満足的行為に他ならなかったのだ。
 ダライラマは、もう10年も前にこの戦略を撤回し、中共当局との内々の交渉だけの路線に切り替えるべきだったのにいまだにそうしていない。
 これに関連し、チベット自治区だけでなく、その他のチベット人地区を含めた自治を求めてきたことも撤回すべきなのにやはり撤回していない。
 しかし、もはや遅すぎるのかも知れない。
 チベット亡命政府よりも、欧米でのチベット支援団体の方が強力になってしまい、前者は後者に振り回される状況になってしまったからだ。
 人民解放軍がチベットに侵攻した1950年以降にチベット人120万人が殺されたというウソを流布させたのもこれら支援団体なのだ。
 中共当局が、ダライラマ一味が今回の騒擾の糸を引いているというのは、これらチベット支援団体まで勘定に入れれば、恐らく正しい。

 参考になる記事等を合わせ、掲げておきます。

 英ガーディアンは同じく3月、チベット人の反資本主義性向についての論考を掲げました。要旨次の通り。

 今回のチベットでの騒擾を、中共当局による宗教的弾圧の産物ととらえてはならない。 文化大革命収束以降、中共当局は、破壊された僧院の再建等チベットをチベット仏教のメッカとして「売り出す」政策を追求してきた。漢人の間でも、金銭的成功によって心が充たされない人々の中から、チベット仏教に惹かれたり信者になったりする者がかなり出てきた。
 また、中共当局からの潤沢な補助金や年間100万人を超える観光客によってこのところチベットは中共全体の経済成長率を超える高度成長を続けている。
 青海省とチベット自治区を結ぶ鉄道も建設された。
 ところが、チベットが豊かになればなるほど、チベット人の分離主義傾向は強まって行った。
 豊かになれば人々は体制変革を望まなくなるというトウ小平の考え方は、漢人にはあてはまったが、チベット人にはあてはまらなかったわけだ。
 中共の経済発展戦略は都市を優先的に発展させるというものだが、これは経済的格差を拡大し、遊牧的生活様式等のチベットの伝統を危機に陥らせた。
 チベット人は気質的にも大量消費的、都会的生活、近代的生活を好まないし、その準備も不足している。
 ダライラマは、このようなチベット人が慈しんでいるところの、危機に瀕しているアイデンティティーを象徴する存在であるとチベット人によってとらえられているのだ。
 このままでは、米国人の西方進出に伴って、インディアンが西部の狭い居住地に押し込められて、劣等人種として蔑まれつつ、観光客にカネを恵んでもらって生きている状況に、(漢人の西方進出に伴って)自分達も陥ってしまうという危機意識をチベット人は抱いているのだ。

 米インディアナ大学のチベット学教授のスパーリング(Elliot Sperling)によるニューヨークタイムス掲載論考の概要は以下の通りです。(一部私の言葉に直しました。)

 チベット人は、チベットが7世紀中期以降独立を保ってきたと主張しており、13世紀と14世紀に元に隷属し、18世紀から20世紀まで清に隷属したように見えるかも知れないが、単に元や清の皇帝達の精神的指導者をチベットの著名な高僧(lama)が勤めたという個人的関係が存在しただけであり、チベットは一貫して独立を維持し続けたとしている。
 他方、中共当局は、支那(China)は何千年もの間、(少なくとも観念的には)一体的な多民族国家であり続けてきたのであって、支那の政権を奪取したモンゴル人だって支那人であり、支那の歴代政権に隷属してきたチベット人も支那人だとしている。
 この二つの支那史観ないしチベット史観のどちらもウソだ。
 チベット人が唱える個人的関係説は、元と清の行政文書や公定史書が、それぞれの規則、法律、決定にチベットが服していたことを記していることから簡単に論駁できる。
 しかし、チベットは元と清にこそ隷属してはいたが、漢人地域と並列の地域だった。また、元と清の間の明(1368〜1644年)の時代には、その行政文書や公定史書から、チベットが独立していたことは明らかだ。だから、13世紀以降、ずっとチベットは支那の政権に隷属してきたとの中共当局の説もまた正しくない。
 そもそも20世紀初頭まで、漢人の文人達は、チベットは18世紀に清に隷属したとしていたものだ。しかも彼らは、チベットが、元の時代にそうであったように、清の皇帝の封建的支配下にある(feudal dependencyである)とし、漢人地域とは区別されていることを認めていた。
 清が1911年に崩壊した時、チベットは再び独立し、1912年から中共が成立した1949年まで、支那の政権はチベットに支配権を行使したことはなく、ダライ・ラマ政権がチベットを統治する状態が、1949年ならぬ、中共がチベットを武力で併合する1951年まで続いたのだ。
 すなわち、チベットは、1951年に歴史上初めて、漢人地域と区別されない形で、支那の政権を標榜する漢人の政権の支配下に置かれたのであり、中共当局の支那史観ないしチベット史観のウソの度合いは、チベット人のそれに比べてより大きいと言えよう。
 
  イ 中共広報戦略の敗北

 欧米諸国の、チベット騒擾やメディアの五輪聖火リレーについての報道ぶりを見ていると、どこの国でも反中共的傾向がはっきりと読み取れます。日本でも韓国でもそうです。
 これは、中共の広報戦略が親チベット・グループの広報戦略に敗北したことを意味します。
 つまり、大国がNGOに敗北したわけです。
 チベット騒擾が始まると、中共のチベット地区政府はチベット人「分離主義者(splittism)」に対する「生きるか死ぬかの戦争」を宣言し、チベット地区の共産党主席はダライラマを「僧侶の衣を纏ったジャッカルであり人間の形をした獣であるところの悪しき悪魔」呼ばわりしました。
 余りにも拙劣な広報戦略だと思われませんか。
 一方、今回のチベット騒擾や聖火リレーにからめた反中運動の中核を担ったのは、1994年にニューヨークでチベット人と学生達によって結成された、自由チベットのための学生連合(Students for a Free Tibet =SFT) ですが、現在は世界35カ国に650支部を擁するとは言っても、規模も資金も大したものではありません。
 そこで、彼らは徹底的にメディアを利用する戦略をとってきたのです。
 2ヶ月に一度、メンバーは集会を開き、メディアが取り上げそうな文句をひねり出したり質問にうまく答えたり、といったメディア対策の訓練を行ってきました。また、年に4回、メディアに取り上げられやすい示威行動を行うべく、抗議行動の組織方法や警察との折衝方法、更には懸垂下降(rapelling)やゲリラ的寸劇の訓練を行ってきました。
 また、ブログやウエッブサイトを中共政府よりはるかに巧妙に活用してきました。
 要するに、中共という国家が、NGOに広報戦略において破れた、ということなのです。

 チベット騒擾の結果、一挙に欧州で中共は最も嫌われる国に、そして米国では中共はイランとイラクに続いて嫌われる国になってしまいました。

(完)

 (である調とですます調の混在、中国と中共の混在は、近々出版予定の共著の原稿を利用した部分と、直接私のコラムを利用した部分が混在していることによる。)