太田述正コラム#2925(2008.11.20)
<日本帝国の歴史2題>(2008.12.28公開)

1 始めに

 辻元清美議員との対談は、議員会館で午後4時から6時近くまで及び、金曜日側が音を上げてようやくお開きとなりました。
 辻元議員、もっと私との話を続けたかったようです。
 論点は多岐にわたりましたが、、田母神問題と集団的自衛権の問題と歴史認識の問題が焦点になった感がありました。
 『実名告発防衛省』の宣伝のための対談だったはずが、ほとんどこの本のことは話題になりませんでした。
 終わった直後に、週刊金曜日の副編集長が、辻本さんが右、太田さんが左だということがよく分かりました、と述べたことが印象的でした。辻本議員は現状維持志向、太田さんは改革志向だというのです。
 これはかなり鋭く、かつ深ーい感想だと思いますね。
 辻元議員は不服そうでした。
 この対談を、コンパクトにして誌面に載せられるようにするのは、かなりホネであろうと、同席していたライターの男性に同情してしまいました。
 誌面に載ったものは、いずれご披露できると思うので、しばらくお待ちください。
 本日はそのさわりを、と行きたいところですが、私のしゃべったことは最近「ディスカッション」で書いたことがほとんどですし、辻本さんがしゃべったことでご紹介すべきものは、遺憾ながら余りないので、本日は、本日の対談で焦点となったもののうちの一つが歴史問題であったということで、日本帝国の歴史に関する最近の記事を2つご紹介し、私のコメントを加えることにしましょう。

2 日本帝国の歴史

 (1)内地の戦前

 ・・・昭和天皇を含めて政治指導者から大半の国民に至るまで、この道しかあるまいと思って突き進んでいった結果が太平洋戦争につながり、日本人自らも多大の犠牲を伴ったと同時に中国、韓国など近隣諸国に極めて大きな被害をもたらした・・・
 特に銘記しておきたいのは四〇年の政党解党劇です。同年二月の衆院本会議で民政党の斎藤隆夫議員が泥沼化した日中戦争に関して「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し」と米内光政内閣と軍部の姿勢を批判したのに対し、怒った陸軍が圧力をかけ、最終的には本会議での記名投票で斎藤議員を除名に追い込みました。そればかりか軍を恐れた主要政党は同年夏、一斉に解党し「バスに乗り遅れるな」と大政翼賛会に走ったのです。
 政党政治が軍部にひざを折った結果、それから五年間、日本は事実上、無政党時代でした。それがいかに暗い世の中であったかを思い出すべきです。 五・一五事件を皮切りに昭和初期から続発した青年将校らによる政府要人暗殺事件に経済不況が重なって、政党政治が機能不全に陥っていたのです。・・・
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008111602000090.html
(11月16日アクセス)

<太田のコメント>

 このような認識は一面的過ぎる。
 最近のコラムで既に述べたことは繰り返さない。

 斎藤隆夫議員の上記演説後、「衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、・・・衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。」・・・反対票、棄権票、特に後者の多さに注目。また、斎藤氏が「除名後の1942(昭和17)年総選挙では・・・兵庫県5区から最高点で当選を果たした。」ことにもっと注目すべき。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/saitoutakao.htm
(11月20日アクセス。以下同じ)
 いかに当時日本で民主主義が機能していたかが分かろうというもの。
 ちなみに、「1937(昭和12)年日中戦争が勃発する頃から・・・帝国議会内に・・・近衛新党を目ざす動きが起こった。彼らは斎藤隆夫の反軍演説に際して彼を除名することに成功するや、・・・各党に政党解消を申し入れた。」ということであり、http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/taiseyokusannkai.htm
斎藤議員は軍部の圧力によってというよりは、衆議院の内部力学の結果、辞任に追い込まれたもの、と見るべきだろう。

 ついでに言えば、既存政党解消の結果できた近衛新党であったはずの大政翼賛会は、「発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類<が>、首相であり翼賛会総裁の近衛の口からは発表されなかった。」というのであるから、近衛新党推進者の一部が夢見たファシスト政党どころか、政党ですらなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A

 しかも、「<1942年(>昭和17年<)>の総選挙において、・・・<大政翼賛会>非推薦候補85名が当選を果たした。」というのであるから、大政翼賛会がいかに無力な存在であったかが分かる。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%C0%AF%CD%E3%BB%BF%B2%F1

 なお、既存政党解消、ないし大政翼賛改成立の背景として、(危機の時代における挙国一致内閣制の論理的帰結という側面があることはもちろんだが、)日本の内地では、当時既に政党分立の社会的条件(地域的対立、階級的対立)がなくなりつつあったことが大きい、と考えるべきだろう。
 以上のような大政翼賛会の性格論は、1976年にスタンフォード大学の比較政治学者Nobutaka Ike教授にペーパーとして提出したもの(用いた典拠は異なる)の骨子だ。同先生からこのペーパーを褒められ、A(優)をもらった記憶がある。
 戦前に成立した戦争遂行のための大政翼賛会が、戦後は、戦争忌避のための自社なれあい大政翼賛会へと看板をかけかえて現在の自民・民主なれあいの大政翼賛会へと至っているわけだ。

 最後に、もう一度、当時の日本経済が、1932年から高度成長期に入った(『防衛庁再生宣言』235頁に掲げた、主要国の工業生産の折れ線グラフ参照)ことを強調しておこう。

 (2)朝鮮半島の戦前

 ・・・ごく少数ながら、当時の判決の中には一部合理的な側面もあった・・・。1919年4月1日、開城で万歳運動を主導した14人に対し、内乱罪は成立しないとした判決がその例だ。「被告人らの行動は、朝鮮を独立させる希望があることを世上一般に宣言する内容に過ぎない」ため、内乱罪不成立というわけだ。
 全羅南道康津地域で独立宣言文を印刷するなど、万歳運動を準備したが決行前日に検挙された学生らに対しては、一地方の平穏を害するほどの行為ではないなどの理由で、無罪が宣告された。また、万歳運動後に連行された仲間を取り戻そうと警察署を包囲、脅迫した事案について、連行者に対する令状はなく拘禁状態だったとして、犯人奪取罪の対象とはならない、と判示した例もあった。
 これについて<韓国の>大法院の関係者は、「日帝が本格的に軍国主義化する直前の時期で、少数ながらそうした判決が出たようだ」と語った。
http://www.chosunonline.com/article/20081116000002。11月16日アクセス

<太田のコメント>

 「本格的に軍国主義化」していたかどうかはともかくとして、コラム#1416で、日本の内地における1942年の総選挙(上述)、「(直接的にはその鹿児島2区の選挙)について、大審院の吉田久裁判長は、大戦中の1945年3月の判決で、大政翼賛会によって推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけが行われるなどさまざまな妨害が加えられたことから、「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘した・・・。このような裁判官が存在できたことは、・・・、大戦中の日本で、なお自由民主主義が機能していたことを示している。」と記したところだ。