太田述正コラム#2878(2008.10.28)
<人間は戦争が大好きだ(その2)>(2008.12.11公開)

 結局のところ、戦争は人間の営みの中で必ずしも最悪のものではないし、戦争を戦う人々は、必ずしもそれ以外の人々より未開であるというわけでもない。多くの戦争は防衛的であって、外交によって動かされぬところの獲物を求める国々によって無辜の民が蹂躙されるのを救うために戦われる。また、2000万人以上の命を奪ったスターリンの大粛清(Great Terror)、5000万人を超える命を奪った毛沢東の大躍進や文化大革命等、推定1100万人を粛々と抹殺したヒットラーの死の工場群、は公式の戦場外におけるキリング・フィールドであったことを想起せよ。

 ところで、このところ、戦争の文化が衰弱する傾向が散見される。
 この傾向を先取りしていたと言えるのかもしれないのが、シオニズムが彼らに力を与えるまで、あたかも風がない日の旗のように弱々しく腰をかがめていたユダヤ人・ディアスポラ(パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人のこと(太田))だ。
 このような中性化した(epicene)男性が欧米で増えている。
 とりわけ憂慮されるのは、戦闘的なフェミニスト達だ。
 彼女たちは、軍隊内における両性の平等を要求する一方で、部隊を嘲り、兵士達の死さえも望むことで社会の防衛を掘り崩している。
 肉体的に男性よりも弱いため、女性兵士は効果的戦闘を困難にし彼女達の男性の仲間達が殺人という深刻な任務を遂行する足をひっぱる。
 フェミニズムに感染すれば、軍事的文化はトランプのカードでできた家のように間違いなく瓦解してしまい、戦闘を行って勝利を収める能力を喪失することになろう。
 例えば、米軍への大人数の女性の無理矢理の導入がそうだ。
 仮に次期米政権が陸上戦闘の分野を女性に開放し、かつホモの入隊を要求するようなことがあれば、<米国における>戦争の文化への影響は巨大なものとなろう。戦闘を行う類の男性は、しばしば、軍隊に彼らの男性性を証明するために入るものだ。彼らはその証明を、女性とホモが大勢いる軍隊では行うことができない。

3 書評子達によるクレヴェルド批判

 この本に対する評価はおおむね高いのですが、最後のくだりについては、批判が投げかけられています。
 「中性化した・・・男性が欧米で増えている」については、一定の欧州諸国にはあてはまるかもしれないが、米軍が、1980年代初期からほとんど絶え間なく中東等で戦闘作戦に従事してきたことから、米国にはあてはまらない、との批判がある書評子から投げかけられています。
 「ユダヤ人・ディアスポラ」が中性化した、という点についても、ある書評子は、何千ものユダヤ系米国人とともにノルマンディからベルリンまで戦い抜き、朝鮮戦争でも戦った自分の父親がとんでもない、と言うだろうと指摘しています。
 また、「女性兵士は効果的戦闘を困難にし・・・」については、ある書評子が、自分が会った米空母トルーマンに搭乗している2歳の子供の母親であるF-18航空隊司令・・同隊のパイロットのうち5人は女性・・が同意するとは思わないと批判しています。

 私も、これらの批判におおむね同感です。
 なお、戦後日本の男性が中性化していることを以前(コラム#276で)指摘したところです。

4 終わりに

 このシリーズを執筆していると、私の『防衛庁再生宣言』のテーマの一つが私の脳裏に鮮明によみがえってきました。
 私は、この本の174〜175頁で、「我々は・・・、強兵から富国へというベクトルが存在することを忘れがちである。・・・陸軍省<の>・・・「国防の本義と其強化の提唱」中の「たたかいは創造の父、文化の母である」・・・<と>の主張・・・は決して誤りであるとは言えない。・・・戦争がある度に、各国の生産力は飛躍的に増大した・・・ばかりではなく、民主主義の進展もまた、戦争と切っても切り離せない関係がある・・・。<また、>強兵を整備、維持すること自体が富国をもたらす側面がある・・・」と記したところです。
 クレヴェルトが主張しているように、「戦争は・・・人間の本質(nature)と文化の根源的な一部なのだ。・・・<戦争は、>それゆえそれに従事している人々に事実上一種の満足感をもたらす」のであれば、それは当然「創造の父、文化の母」であるはずです。
 「戦争を放棄する、戦力は保持しない」と定める憲法(第9条)を持つ戦後日本は、人間性の本質を無視し、創造と文化の源を捨て去ったと言ってもあながち過言ではないのかもしれませんね。

(完)