太田述正コラム#2830(2008.10.4)
<ノーベル賞がとれない米国の小説家(続)(その1)>(2008.11.21公開)

1 始めに

 表記をめぐって、スウェーデンのエングダール・・スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語の達人だそうです・・への反論は一層激しさを増してきました。
 そこで、更にこれらの反論をご紹介することにしました。

2 エングダールへの反論

 (1)米スレート誌掲載の反論

 米国の文学評論家のカーシュ(Adam Kirsch)は、米スレート誌上で次のような反論を展開しています。

 エングダールが米国人作家は粗野(raw)で後れていて(backward)、パリやベルリンでの最新の状況について行っていない、と非難するのは、米独立戦争の頃のステレオタイプ的な見方を事実上繰り返しているのにほかならない。200年近く前にイギリスの才人シドニー・スミス(Sydney Smith)が、エジンバラ・レビューに「地球のどこに住んでいようと、米国人の書いた本など読む者がいるものか」と言ったことはよく知られている。しかし、皮肉なことに、エングダールは今日の米国人の狭い了見(provincialism)をけなすけれど、ノーベル文学賞の歴史を振り返ってみると、米国文学でノーベル賞委員会が最も評価してきたのはまさにその「後れ」だったのだ。
 これまで同委員会がどんな米国人作家に受賞させてきたか見てみよう。
 1938年に受賞したパール・バックと1962年に受賞したジョン・スタインベックを見よ。どちらも民俗作家(folk writer)と言ってもよいくらいだ。どこにでもいる人間の悪戦苦闘をドラマ化するという素朴なリアリズムのスタイルを用いたという意味で・・。だからこそ、この二人にとってそれぞれ最も有名な作品であるところの、『大地』と『怒りの葡萄』は、中学校の必読書リストの中にぴったりおさまる。米国人として最初に賞を1930年に受賞したシンクレア・ルイス(Sinclair Lewis)は、米国人の了見の狭さに立脚しているところの、とり立てて血湧き肉躍るところのない下品な(broad)寓話を書いたものだ。
 これらの作家達は、欧州向けに、欧州の人々が米国において見いだそうとしたイメージ・・まじめで、粗野で、反知性的・・をそっくりそのまま返してくれたわけだ。
 もっとも、第二次世界大戦後の短い期間、ノーベル賞委員会は米国がもうちょっと洗練された(sophisticated)作家達を生み出していることを認めたことがある。大西洋の両岸のどちらも、1949年にウィリアム・フォークナーが、あるいは1954年にアーネスト・ヘミングウェーが受賞することに異議は唱えなかった。
 ところが、ベロー(<Saul> Bellow)が<1976年に>受賞してからの32年間ときたら、その間の受賞者は、米国における批評家達の間で好評が確立しているとは言い難いトニ・モリソンただ一人しかないのだ。
 ノーベル文学賞者リストだけを見ると、過去30年間は、米国の文化と言語が世界を征服した時代ではなく、米国文化の枯渇期であったと誤解してしまうかもしれない。
 しかしそれはもちろん、スウェーデン人の側に問題があることを意味している。連中は米国を欧州の辺境だと見なしており、T.S. エリオットのような詩人は米国を去って英国に定住して<欧州において>有名にならない限りノーベル賞の授与対象にしないのだ。
 要するにかつて連中は、<高みに立って>米国文学の頭を時折なでたことはある。しかし、今や立場が逆転してしまっており、文化的、経済的、そして政治的に米国に依存しているのは欧州の方なのだ。そうなると欧州のプライドは米国文学があたかも存在していないかのように装うことによってしか維持できないのだ。・・・
 過去10年ちょっとのノーベル賞受賞者リストを一瞥すれば、エングダール言うところの欧州の優位なるものが嘘であることは明らかとなる。
 オーストリア人達やイタリア人達ですら、エルフリーデ・イエリネクやダリオ・フォ(Dario Fo)が賞に値するとは思っていない。ハロルド・ピンターが受賞したのだって彼の重要な作品が生まれてから約40年も経ってからだった。
 これらの作家達が過去30年間の米国人達の最高の者よりも才能があり実績も上げているなんて話はばかげている。
 ノーベル賞委員会の好みの特徴は、その隠そうともしない反米主義だ。<英国人の>ピンターは2005年の受賞記念講演の機会を使って、「米国の犯した諸々の犯罪は体系的、継続的、悪徳的、にして無情である」と語り、更に「ブッシュとブレアは国際刑事裁判所に引き立てられるべきだ」と述べた。<同じく英国人で>昨年受賞したドリス・レッシング(Doris Lessing)は、インタビューを受けた際に、9.11同時多発テロについて、「(米国人が)考えるほどひどくも異常でもない」と述べ、更に「彼らはとても純真(naive)な人々だわね。いや純真であることを装っていると言うべきか」と付け加えた。
 もちろん、ピンターとレッシングを、そしてホセ・サラマゴとギュンター・グラスを選んだ時に、スウェーデンのアカデミーがこんな考えを抱いていたなんて考えたくもない。しかし、エングダールのあの米国文学に対する批判が悪意を持ってなされていることを証明するには一人の名前に言及すれば足りる。それはフィリップ・ロスだ。エングダールは米国人達を「文学についての大議論に真の意味で参加しようとしない」と非難した(コラム#2826)。しかし、ロスほど国際主義的(cosmopolitan)な米国人作家はいない。ペンギン社の「もう一つの欧州出身の作家達」シリーズで、・・・<ら>東欧の多くの偉大な作家達を米国に紹介し、2001に上梓した彼のノンフィクション・・・にはミラン・クンデラ(Milan Kundera)<ら>・・・のインタビューが収録されている。彼自身のフィクションにおいても、ロスは・・・並のポストモダン的冒険を冒しているし、長らく米国文学の強みであった精細なるリアリズムにも目配りをしている。少なくともロスがノーベル賞を授与されるまでは、スウェーデン人達からのいかなる侮辱にも米国人は注意を払う理由はない。

 (以上、
http://www.slate.com/id/2201447/
(10月4日アクセス)による。)

 いかがですか。
 一見整然とした反論の裏にちらつくのは、自分達の欧州と比較した非洗練ぶりとイギリスと比較した非リベラルぶりに対する強いコンプレックスであることにお気づきになられましたか?
 実はイギリス人達は、米国の非リベラルぶり(カネ・軍事力フェチシズム)をにがにがしく眺める一方で、欧州の洗練ぶり(合理論/演繹論)についても何の実用性もない貴族趣味、と軽蔑しているのです。
 イギリス、米国、欧州という三者のかくも微妙な関係は、なかなか読者の皆さんにはご理解いただけないかもしれませんね。

 では、更に反論に耳を傾けてみましょう。

(続く)