このような米国からの強い「見捨てられ」る懸念は、安全保障と内政の分野での韓国の行動にも映し出されていた。例えば、1972年までに朴正熙は、極秘裏に核兵器開発計画を推進することを決定していたし、一方で、1972年10月、「維新体制」の樹立に着手し、朴正熙に対するあらゆる反対勢力を一掃し朴正熙の権力を強化することを目指した。

 (5)危機の高潮

 1972-74年時期の日韓間の政治・軍事関係には、二段階で軋轢が生じている。第1は1972年から73年半ばであり、「韓国条項」、日朝関係、日中国交正常化をめぐるものであった。第2の段階は、ほぼ1973年の半ばから74年にかけての期間であり、この時期、外交危機が相次いで起こった。いずれの段階の危機も、両国関係に生じた深刻な亀裂の根底にあったのは、両国の「見捨てられ」と「巻き込まれ」の懸念の非対称性であった。

 第一の軋轢は韓国条項をめぐって起こる。ニクソンの訪中直後に、佐藤首相は韓国防衛のために在日米軍基地を使用することをもはや「自動的」と想定することはできないと語った。さらに1972年1月の佐藤とニクソンとの首脳会談後の声明において、過去3年間用いられてきた「韓国条項」という用語はまったくふれられなかった。また、日韓定期閣僚会議の議事録と共同声明においても、従来の反共的言辞や日韓間の防衛協力についてはほとんど触れられていなかった。これらの日本の行動の動機が、「巻き込まれ」の懸念であったことは明かであった。日本にしてみれば「韓国条項」に固執することは、日本の安全保障を損ないかねず、この地域におけるデタントの機運にも逆行していた。また「韓国条項」は、北朝鮮、中国、ソ連を敵対視するものであったため、これによって日本は、この3国との関係を拡大する千載一遇の機会を逸することにもなりかねなかった。何よりも「韓国条項」に固執すれば、日本は自らの安全に必ずしも死活的とは言えない紛争に巻き込まれかねなかった。このため、日本は自らの安全にとって緊要なのはもはや韓国の安全ではなく、朝鮮半島全体の安全であるとして1969年の「韓国条項」を解釈しなおした。これに対し、韓国側はむしろ、安全保障環境が急激に変化しているからこそ、日韓間のより緊密な協力が以前にも増して不可欠になっていると主張し、1972年の日米首脳会談の2日前に朴正熙は特使を派遣し、佐藤から「韓国条項」が依然として有効であるという言質を取ろうと迫った。しかしそれは日米共同声明には反映されず、朴正熙は韓国との事前協議なく「韓国条項」を修正したとして佐藤を非難した。

 次に、日中関係の改善も、韓国が日本への不安を募らせることになった。韓国政府では日中接近は「韓国条項」の修正の要因になると考えており、さらに、日中国交正常化が実現すると日朝間の外交、経済関係の進展にも道が開かれることになると懸念していた。日本が対中国接近を試みると、日韓関係の悪化はいっそう顕著になり、関係強化の機会を逃した。たとえば、1972年10月、朴正熙は韓国大統領として戦後初めて日本を訪問し、1週間滞在する予定であったが、突然これをキャンセルした。米国当局者は、朴正熙が日中国交正常化に憤慨し不安を感じたことに中止の最大の要因があったと明言している。

 最後に、この時期の軋轢の最大の原因は、北朝鮮であった。朴正熙が抱く「見捨てられ」の懸念は、日本が北朝鮮と接触したことでさらに深刻になった。韓国は基本的に、日朝関係の進展は日韓関係の犠牲の上にあり、朝鮮半島での反共体制を脆弱化させるというゼロサム状況としてとらえていた。一方、日本は韓国とは対照的に、北朝鮮との実質的な関係を築くための千載一遇の機会が生まれたと考えていた。それは輸出市場という意味で利益が見込めるばかりでなく、日本にとっての安全保障上の脅威を低下させる可能性もあると考えられていた。その結果、日本には、北朝鮮を敵視する韓国に必要以上関与すべきでないという、「巻き込まれ」の懸念が生じることになったのである。

 日韓両国が北朝鮮に対して相容れない戦略をとったために生じた軋轢は、以下の4点をめぐる論争として表面化した。

 第一に、対北朝鮮政策に関して日本が出した声明があった。この時期、韓国が強く抗議していたにも関わらず、日本政府は北朝鮮との外交接触を止めなかった。1971年11月には、筋金入りの反共主義者である福田赳夫が、北朝鮮にはいかなる敵意も抱いていないと述べた上で、北朝鮮当局者の日本訪問を認める方向で検討すると発言した。また、1972年の施政方針演説で佐藤は1965年の日韓基本条約は、北朝鮮との関係改善を排除するものではないと述べた。さらに、田中首相は佐藤を踏襲し、1972年11月の国会で、日本は南北双方と偏りのない接し方ができるような外交政策に近づける必要があると述べた。そして、1973年の国会での政策演説で、中曾根康弘通産相は、北朝鮮との経済・政治・文化交流を拡大する好機が到来したと述べた。

 第二に、日本のさまざまな政治グループの北朝鮮訪問があった。デタント以前、日本政府は日韓関係に不必要な問題を引き起こすとして、通例与野党を問わず政治家間の訪朝を自粛させていた。しかし1972-74年時期、政治家の訪朝回数は増え、1971年の美濃部亮吉東京都知事の訪朝に続いて、1971年11月に246人の議員が日朝友好促進議員連盟(議員連盟)を結成した。これに対して韓国は、この種の交流を続ければ日韓関係を悪化させることになると警告し、議員連盟に加入している多数の議員の韓国入国を拒み、不満を表明した。

第三に、在日朝鮮人への再入国査証をめぐる問題があった。1972-74年時期、日本は韓国の抗議にもかかわらず、人道的理由がある場合にのみ査証を発給するという従来の基準を緩和した。韓国は、日本の再入国査証に関する新しい政策を自国の安全保障を脅かすものと考えた。個人が北朝鮮に出入国する渡航制限が緩和され、その後、その内の大半が韓国に自由に入国できたため、侵入行為を自由に行える経路を北朝鮮に与えることになったと考えられた。この新しい政策は、韓国にとっては、日本が事実上、北朝鮮の体制を政治的に支持することを意味していた。韓国は、これらの日本の行為を1965年の日韓基本条約に違背するものと非難し、さらに韓国は日本に対して何らかの報復をすると警告した。

 第四に、日本のマスメディアの活動があった(『読売新聞』事件)。1972-74年時期、日韓間の軋轢が深まることによって、日本のマスメディアについての論争も過熱していった。日本のメディアが、文化・政治交流の拡大に駆り立てられ、北朝鮮を称賛する記事を書いたため、日本の一般大衆の中には北朝鮮に強い興味を持ち、心酔する者も現れた。日本と北朝鮮は、最終的に両国に常駐の支局を設立することを議論するまでに至った。韓国は主に次の二つの点でこれらの事態に反対した。その第1は、北朝鮮が「平和攻勢」をしかけるため日本のメディアを果敢に利用したことであり、朴政権はこれに極度に狼狽していた。第2には、日本の新聞が北朝鮮に同情的な報道を行い、それとは対照的に朴正熙の「維新体制」について否定的な報道をするようになったことである。このような事態に抗議するため、韓国文化広報部は、『読売新聞』のソウル支局を突如閉鎖した上、同紙の発行を禁じ、特派員全員に国外退去を命じた。

 (6)日韓関係のどん底

 1973年から74年の間の日韓関係は、国交正常化以来、最低のところまで対抗した。軋轢の原因は、両国政府が主権と安全保障をめぐって正面衝突したのをはじめとする一連の政治事件であった。

 1973年8月8日、東京のホテルの一室から、韓国の野党政治家、金大中が誘拐された(「金大中拉致事件」)。事件発生当初、KCIAが拉致を画策し、金大中の政治活動を封じて、朴正熙体制の脅威となる金大中を永久に葬り去ろうとしているのではないかという疑惑が広まった。田中首相は日本の信望を落とさないために、事件の解明をめぐり、憲法で保障された言論の自由と社会秩序を守る姿勢をただちに打ち出した。しかし、朴正熙政権の高官は日本からの捜査支援申し出にほとんど熱意を示さず、金大中本人と証人二人への事情聴取を求める日本からの要請を拒否した。これに対し、田中伊三次法相はKCIAが拉致を画策した公然と非難し、大平外相も日本は「韓国の関与が明らかになった場合には、韓国に対して断固たる態度で臨む」と警告した。このような批難は、非難の応酬を激化させた。このような中、上記の『読売新聞』事件がおこり、それに対して田中は、日韓定期閣僚会議を延期し、そこで供与することになっていた経済借款2億ドルと事件の解決を結び付けた。結局、朴正熙が日本からの経済支援を必要としたため、1973年11月に日韓両国は一時的に歩み寄り、韓国は、金大中が反政府活動を公式に謝罪することを条件に金大中の自宅軟禁を解き、事件に遺憾の意(謝罪ではない)を表明した。

 さらに、1974年、日韓間の軋轢は深まっていった。これには、二つの力学が関係していた。第1に、韓国が反朴正熙を唱える活動家の取り締まりに日本が非協力的なことに不満を募らせ、他方で日本は、韓国が引き続き権威主義体制を正当化するため安全保障上の脅威を誇張しているという批判をしていたことである。第2に、このような論争によって、歴史的な反目が再燃する土壌が整い、敵対的な雰囲気が生じたことである。韓国人は、金大中拉致事件と日本と北朝鮮が急速に接近したことで高まった怨嗟のはけ口を歴史的感情の問題に見出した。例えば、韓国はこの時期一貫して、日本が南北朝鮮への等距離政策をとることで、朝鮮半島の分断を永続させ、韓国人を日本に隷属させようとしていると非難していた。金大中事件について韓国人は、韓国政府が決着に応じたのは日本が経済関係を断つと迫ったためであると考えていたため、日本人の「経済帝国主義」に対し、再び抵抗姿勢を見せ始めた。1974年に、田中首相が国会で、日本の朝鮮統治は特に教育と農業の分野で実際には利益をもたらしたと軽率な発言をしたことで、韓国人の「恨」は爆発した。金大中事件をめぐり依然として憤懣やるかたなかった韓国国会は田中の発言を糾弾し、日本大使館の前では一般市民が7日間におよぶ激しいデモを行った。

 歴史的な反目の再燃に拍車をかけたのは、そのころ起こっていた日本のジャーナリズムをめぐる論争であった。朴正熙は韓国の「準戦争」状態と日本の「平和な環境」の違いを強調し、1974年1月、韓国の安全保障上の至上命題を尊重し、批判的な報道を中止するよう日本人ジャーナリストに警告した。ついに翌2月には、虚偽のプロパガンダをまき散らし、北朝鮮の「代弁者」のようにふるまったとして、文化広報部が『朝日新聞』の流通を禁止したのである。

 1974年4月には、KCIAは朴正熙体制の打倒を図る韓国内の過激派グループと共謀したとして、ソウルに留学していた日本人留学生2名を逮捕し、さらに、1971年の大統領選挙時に選挙法違反を犯していたとの理由をねつ造して、金大中を逮捕した。大平外相と後宮大使は、韓国が事前協議をせずにその行動をとったことに激怒し、事件の扱いも強引であったと非難した。さらに金大中の逮捕は、1973年11月の外交決着に背くものであった。学生の有罪が確定すると、東京の韓国大使館の前で大規模なデモが起こり、抗議の意味も含めて外相は再び後宮大使を召還した。朴正熙もこれへの対抗処置として、田中が日本の新北朝鮮系団体に対して弱腰な態度をとり、日本が共産主義者の中継地点になっているという理由で、駐日韓国大使を召還した。

 このような中、1974年8月15日の解放記念日に朴正熙が演説していると、在日韓国人で大阪在住の男が、演壇に向けてやみくもに発砲しながら国立劇場の通路を駆け寄ってきた。大統領は事なきを得たものの、大統領夫人の陸英修が銃弾を受け、命を落とした。襲撃犯の文世光が、日本の北朝鮮系団体から暗殺計画の手ほどきを受け、報酬を与えられたのは明らかであった。韓国人にとってこれは、北朝鮮の脅威に対して日本が優柔不断な態度をとってきたがために、またしても繰り返された悲劇であった。事件後数週間、日本大使館前や韓国国内各地の領事館の前で激しいデモが続いた。金鐘泌国務総理はテレビ演説において日本が「法的にも倫理的にも責任」を負うよう要求した。さらに外務部長官と駐日韓国大使は、日本の北朝鮮系組織から法的保護を剥奪するよう要求した。さらに韓国国会は、日本が事件の責任を負うことを拒否した場合には、外交関係を断絶するという決議文を送ったのである。しかし、田中政権は韓国の謝罪要求に屈しようとはしなかった。田中政権は、暗殺計画は北朝鮮の支援を受けて朴正熙政権を打倒しようとしたというよりも強権的な「維新体制」に対する怒りの表れと考えていた。

 さらに、相互の感情が高まるなか木村外相が、日本がデタント政策を再確認する文脈で、数々の物議を醸す発言を行い、韓国との関係をさらに悪化させていった。例えば犯行からちょうど2週間後の国会で、木村は北朝鮮からの安全保障上の脅威を日本は感じていないと明言した。さらに翌週の9月5日、木村はこのデタントという新たな時代においては、韓国政府を朝鮮半島の唯一の合法政府と認識していないと述べた。韓国人はこのような発言を、「日本政府高官がいつも口にする嫌がらせの最たるもの」と受け止め、さらに、日本が冷戦期の提携国を見捨て、朝鮮半島に等距離政策をとろうとする明らかな前兆であると理解された。日本の立場からすれば、文世光事件に対する木村の発言と態度は、日本が韓国への「巻き込まれ」の懸念を抱き、その地政学的な脅威認識が変化したことに端を発するものであった。木村によると、デタントによって「社会正義」と多国間外交を基盤にした新たな外交政策を策定する必要が生じていていたという。

 国交正常化以降、最悪の状態にまで関係を悪化させたのは、このような韓国と日本の認識の相違であった。1974年8月30日、韓国外務部は木村の発言に抗議し、その発言は「無責任」であり、1965年の日韓基本条約の精神に反すると非難した。さらに朴正熙は、事件に対する誠意および日本における反韓運動の取り締まりに協力を得られなければ、外交関係断絶と韓国内日本資産の国有化も辞さないという最後通牒を日本につきつけた。また、文世光事件と木村の発言が物議をかもした数週間に、韓国各地の都市で約500回にのぼる激しい反日デモが起こり、そこに参加した韓国人は300万人を超えた。デモの勢いはとどまるところを知らず、ついに9月6日に日本大使館を襲う事態に至った。デモ隊は館内に火を放ち、日本の国旗を引き裂いた。大使館の外では、韓国人学生数人が自殺を図り、25人が抗議の意を込めて、自分の指を切り落とした。

 このように両国の関係が極度に悪化したため、米国務省当局者が、国交断絶の危機に瀕している状況を強く憂慮すると表明するに至った。フォード大統領もその趣旨を朴正熙に伝え、駐韓大使リチャード・スナイダーを東京へ派遣して、日本側当局者と会談させた。このような中、9月19日になってようやく難航した交渉が一応妥結を見せ、日本は暗殺事件に対する「遺憾の意」を表明することを受け入れた。さらに椎名特使が、今後日本は反韓団体を従来より厳しく監視すると口上書を手交した。しかし、この決着は反目をいさめたわけでもなく、対立する両国の意見を一致させたわけではなかった。決着後も韓国は日本の姿勢を非難すること止めなかった。さらに日本は、捜査の結果、その事件と日本での朝鮮総連の非合法活動との明白な関係は発見できないと発表したのである。

 このように、1973-74に生じた日韓間の外交危機の原因は、「見捨てられ」と「巻き込まれ」の懸念の非対称性と、同盟敵対ゲームにおいて日韓双方が相異なる戦略をとっていたことから説明することができる。いずれの論争においても中枢にあったのは、北朝鮮の脅威に対する評価の根本的な相違であり、共通の同盟国である米国から「見捨てられ」る懸念が異なっていたために、それはさらに拡大していった。金大中事件の場合は、主として金大中が日本で自由に反政府活動を行うことによる危険性をめぐって日韓間に認識の相違が生まれ、日本人留学生二人の逮捕の場合には、彼らの過激な活動が朴政権に対して真の脅威になったか否かを中心に認識の相違が生まれた。『読売新聞』支局閉鎖の問題では、北朝鮮に同情的な報道に対する韓国の懸念があり、同様に、木村の発言をめぐる軋轢は、北朝鮮の侵略的企図を日本が無視したことに対して、韓国が不満を抱いたこと端を発していた。さらに、文世光事件の根底には、北朝鮮系団体が日本で画策していた陰謀を日本が軽視していたことに責任があるのではないかという疑念があった。いずれの場合も、敵対ゲームにおける韓国の北朝鮮に対する強硬な冷戦的姿勢が、米軍が撤退することへの懸念によってさらに強まり、それは日本との同盟ゲームにおいても「見捨てられ」の懸念を呼び起こしていた。そのため韓国は、自国が受けている安全保障上の脅威に日本があいまいな姿勢をとっていることに抗議し、日本が北朝鮮の侵略行為の「中継地点」となっていると非難したのである。一方、敵対ゲームにおける日本の同盟ゲームにおいては強い「巻き込まれ」の懸念をもたらした。なぜなら、デタントは米国からの「見捨てられ」の懸念を緩和し、新たな外交関係を築く機会も生んだ上、日本の外部からの脅威認識を軽減し、それは同時に日本が、北朝鮮と関係を築くことを阻もうとする韓国との関係を制限しようと慎重な態度を示すことにつながったからだある。いずれの論争においても、軋轢は実際に起こった事態を直接の原因として生まれたが、日韓両国をさらなる関係悪化に追いやった根底には、両国が同盟ゲームと敵対ゲームの双方で相反する姿勢を示し、相容れない戦略をとったことによる力学が働いているのである。

※経済関係に関する軋轢の記述は割愛した。

4.さいごに

 このように、チャは「疑似同盟理論」の枠組みの中で、ニクソン・ドクトリン、および、デタントの下で見られた日韓の協調と軋轢を見事に説明している。一方で疑問として残るのは、日本のように軍事を放擲し米国の保護国になり下がっている国家において、そもそも外交戦略における意思が存在するのかということである。また、この理論が日米韓以外のさまざまな事例を通して確立されているわけではないという点も、今後の課題かもしれない。

 しかし、日本を米国の保護国としても依然としてこの枠組はなりたつのではないだろうか。つまり、日本は、ニクソン・ドクトリンの時期には、米国からの「見捨てられ」の懸念を持ち、韓国条項をはじめとして様々な米韓の要求をのむ中で、(かつて敵国であった米国が対等の立場と国力にふさわしい安全保障上の貢献を望んだにも関わらず、)米国の保護国であり続けることに徹することで、米国からの「見捨てられ」の懸念を著しく弱めることに成功した。さらにデタント期においては、脅威が減衰したのであるから、米国からの「見捨てられ」を懸念する必要がないというわけで、近視眼的に朝鮮半島や中国における経済的な利益を追及する中で、韓国へ「巻き込まれ」の懸念をもつようになった。そして、日本の北朝鮮をはじめとする共産主義諸国との外交を優先し韓国との安全保障関係を犠牲とする外交姿勢が、米国からの「見捨てられ」の懸念を強く持ちつつ北朝鮮の脅威を強く認識していた韓国と衝突し、日本から「見捨てられた」と感じた韓国は眠っていた歴史的反目を蘇らせたのだ。

 このような見方からすると、戦後の米国の保護国たる日本の住民の『エコノミックアニマル』としてのあり方こそが、1974年におこった韓国における反日感情の復活および爆発の原因であった。そして日本に裏切られることで復活し強くなった反日感情は、コラム(その1)に示したように、韓国の民族主義と結びつきつつ歴史教育などを通してさらに反日感情を増幅させると共に、韓国自身の安全保障に対する姿勢にまで影を落とすようになってしまった、ということではなかろうか。

 それでは、この絶望的な状況を改善する手だてはあるのだろうか?
 チャは著書の「疑似同盟理論」に基づき、結論において次のように述べている。『米軍のプレゼンスによって日韓両国が軽減されている責務の一つに、日韓関係から感情的傾向を取り除く必要性が挙げられる。その意味では、米国のプレゼンスは「無責任という自由」を助長しているといえよう。・・・結局のところ、日韓関係において協力と軋轢のバランスがどちらに傾くかは、この地域への米国の政策に対する両国の認識に大きく依存することになるであろう。米国が唐突に全面的撤退を行うことは、日韓関係に軋轢をもたらす条件を生むことになる。他方、明示的であるが段階的な撤退を行うことは、日韓関係の協力を促進する。突然米国が撤退することになれば、・・・日本と韓国は、耐え難い「囚人のジレンマ」の状況に陥り、本格的な軍備増強を行うことで国際的均衡を維持する、という近視眼的な自力救済的戦略をとるであろう。それよりは、明示的ではあるが段階的な撤退――「段階終極」という考え方――が、日韓間の協力を促進することになる。・・・米国は、、日本と韓国という同盟国が安心し切らない程度に「見捨てられ」の懸念を高めつつ、両国が相互不信を高めたり、自力救済的な行動をとったりしないようバランスを図ることになる。』

 このようなシナリオを現実のものにするためにも、日本人は保護国住民の精神から脱却し、東アジアの安全保障に広く目を向けねばならないと思う。

(完)
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<太田>

 チャの所論のご紹介、まことにありがとうございました。
 ほんの少し手を入れさせていただきました。
 チャの本に直接あたっていないので、不適切な変更を加えた部分があるかもしれませんが、ご容赦下さい。

 日本は、米国が韓国防衛の意思と能力を有している限り、日本に対する軍事的脅威は(核とテロリスト的脅威を除いて)極めて小さいのであって、米国が朝鮮戦争以降、かかる意思と能力を持ち続けていることから、日本が領域防衛目的で軍事力を保持する意味はほとんどない、という状況が続いて今日に至っています。
 以上は、韓国防衛にあたって、日本が米軍の兵站拠点として機能すること、すなわち、日本が法理論上、韓国防衛戦争に「巻き込まれ」ることになっていることが前提です。
 以上が、日本が戦後、米国の属国として安全保障と外交の基本を米国にぶんなげ、自らは諜報機関も持たず、米国向けの見せ金としての小規模かつほとんど何の役にも立たない軍事力(=自衛隊)を維持するという退嬰的な国家戦略を一貫して維持し続けることを可能にしたゆえんです。
 ちなみに韓国は、日本にとっての戦略的緩衝地帯たる「韓国」も「海洋」も有しません。ですから、韓国自身も北朝鮮(及びその同盟国であるところの中共及びソ連/ロシア)の軍事的脅威の下、米国にその防衛を全面的に依存するわけには行かないのであって、自らも軍事力を保持することが不可欠です。
 このことが、更に日本に対する軍事的脅威を低下させているところです。
 すなわち、日本は米国と韓国の軍事力によって二重に守られているのです。

 以上のような米日韓の安全保障構造は、戦後一貫して変わっていないことからすれば、安全保障と日韓関係をストレートに結びつけようとするチャの戦後日韓関係史の記述は、それだけでも説得力に乏しいものにならざるをえないでしょう。
 ただし、戦後日韓関係史を事実の羅列としてではなく叙述しようと試みたチャの努力は評価されるべきでしょう。
 戦前の日本帝国史と戦後の両国それぞれの国内のダイナミズム、日本の戦後における吉田ドクトリンの墨守、そして日韓両国を取り巻く国際環境の変遷等に目配りした、本格的な戦後日韓関係史の出現が待たれるところです。