太田述正コラム#2777(2008.9.7)
<読者によるコラム:日韓の反目と安全保障(その3)>(2008.10.28公開)

 (これは、読者SMさんによるコラムです。)

1.はじめに

 前回のコラムでは、ビクター・チャが提唱した「疑似同盟理論」を紹介した。これによると日韓間の「見捨てられ」/「巻き込まれ」の懸念に非対称性があるとき軋轢が生じ、この懸念の非対称性の効果を米国からの「見捨てられ」の懸念が打ち消すほど高まるとき日韓間において協調関係が生じるはずである。

 それでは、実際にどのようなプロセスで軋轢ないしは協調が生じたのであろうか?これを明らかにするため、チャの著書「米日韓 反目を超えた提携」の内、協調の生じた「ニクソン・ドクトリン」の時期、また、軋轢の生じた時代として「デタント」の時期を、特に安全保障に関連する記述を中心に紹介したい。また、この間、日本側の政策がいわゆる「吉田ドクトリン」の元で進められていたことをみるために、日本側の記述を特に詳細に紹介した。

※以下、コラム筆者による抜粋、一部文形などの変更有。

2.「ニクソン・ドクトリン」下での協力(1969-1971、第三章)

 (1)「ニクソン・ドクトリン」下での日韓関係の概要

 ニクソン・ドクトリンにより米国のアジアにおける安全保障上のコミットメントの信頼性について疑念を生んだことが、日韓双方に「見捨てられ」の疑念を生み、これにより両国政府は相互関係を改善することになった。もちろん、この協調関係は、日韓間に新たな親近感が生まれた結果もたらされたものではなく、歴史的反目が消滅した結果もたらされたものでもなかった。それはむしろ、米国との同盟関係に変わる安全保障の手段を欠いていた日本と韓国という弱小国が、強大国米国という共通の庇護者の意思決定によって生じた懸念に対処しようとする、一時的かつ現実政治的な対応であった。

 (2)ニクソン・ドクトリン

 1969年7月ニクソンは、国内における兵力削減の圧力の増加や国際情勢の変化を受け、「米国は引き続き、条約上の責任を果たし、核の脅威にさらされている同盟国を防衛するが、通常兵力による武力衝突については、何らかの安全保障および経済支援を提供するが、同盟国側が国防の第一義的負担を負うことを期待する」という指針(「ニクソン・ドクトリン」)を明らかにした。この指針にそった兵力削減において朝鮮半島は第2の削減地域にあたり、その後の1971年2月6日の米韓両国政府の共同声明は、2万人の米軍兵略の削減とともに、非武装地帯の防衛責任が完全に韓国に移管されることを意味していた。

 (3)韓国の米国からの「見捨てられ」の懸念

 このような状況下で、韓国に「見捨てられ」の懸念が増大する契機になったのは、何度かの北朝鮮による挑発行為であった。例えば、1968年1月21日の北朝鮮の特殊部隊による青瓦台(韓国大統領官邸)襲撃未遂事件は、朴正熙大統領とポーター大使の暗殺を目的としたもので、官邸の1キロメートル手前でかろうじて作戦を阻止できたという深刻なものであった。にもかかわらず米国は米韓どちらによる報復にも反対し、その結果、韓国人は次第に、米国は安全保障上の利益を韓国から切り離し、朝鮮半島での紛争から選択的に撤退しようとしていると考えるようになった。
 さらに、兵力削減に対する韓国の抗議もほとんど支持を得られず、延期要請は米国に却下される。この結果、武力衝突の際の米国による「自動介入」という考え方をもはや当然のものとして受け入れることはできなくなり、「自動介入」を保証するNATO型の条項を追加して相互防衛条約の改定を要求し、その他にも、極秘裏に核兵器開発に着手することを決定していた。

 (4)日本の米国からの「見捨てられ」の懸念

 一方、米国の決定は日本にも懸念を植え付けていた。

 当時、朝鮮半島情勢は不安定化しており、さらに、文化大革命後の中国は、極端な反資本主義的主張を掲げ、核兵器を保有し、日本が台湾防衛のための在日米軍基地の使用を言外に認めるという「台湾条項」を激しく糾弾していた。
 このような情勢の中、ニクソン・ドクトリンをうけ日本は、米国の決意が信頼に足るかどうかを懸念していた。1970年初頭に外務省と防衛庁の高官は政策立案のための月例会を発足させ、米国のアジアからの撤退を中心に議論した。岸信介元首相など政権外部で影響力をもつ日本の指導者たちも、アジアの近隣諸国の指導者たちとの対話に乗り出し、急速に変化する安全保障環境に対応するために政策協調を行う意義について話し合った。

 日本はまた、「ニクソン・ドクトリン」が暗に提起した長期的問題にわずらわされることになった。ニクソンの考えでは、米国が海外のプレゼンスを削減するにしたがい、世界には米国、ソ連、中国、日本、西欧の新たな5大国体制が出現し、5大国間の勢力均衡によって安定がもたらされるはずであった。しかし問題は、ニクソンが同等の極となる5大国の一つに日本を数えた背景には、最終的には日米同盟の見直しを目的としていたとも受け止められる点が示唆されていたことであった。日本は多くの発言を通じて、そのような独自の役割を果たす国力も政治的意思もないと強調することになった。愛知外相が1969年の『フォーリン・アフェアーズ』誌に寄稿した次の論文は、その代表的な例であった。

 「アジアで平和を維持する責任を米国からそのまま引き継ぐことなど、日本にとっては問題外である。日本は憲法上の制約を抱えている上、両国間の軍事力は現在も将来も大きな開きがあるからである。このような責任を引き受ける準備は日本の一般世論にもできていないだけでなく、それを歓迎する自由国家はアジアにはないと私は考えている。・・・・・合理的に考えて、この地域での大規模な軍事的な冒険に効果的に対抗できる米国の抑止力を引き続き維持することに変わるものは、当分ありえないであろう。」

 米国は在日米軍基地については、1969,1970年に戦後最大規模の削減および再配分計画を実施し、米軍全体を1960年の規模のおよそ半分にした。この計画は兵力削減よりは再編成に近いものであったが、当時の日本の懸念は、唐突で事前協議を欠いた米国の手法に集中していた。

 また、在韓米軍第7歩兵師団の撤退への日本の対応は、韓国のそれと比べれば穏当なものであったが、日本が在韓米軍削減と自国の安全保障を関連付けていたことは明らかであった。佐藤は、削減計画発表直後のウィリアム・P・ロジャーズ国務長官との会談で、彼には似つかわしくない熱心さで米国の決定への懸念を表明した。また、愛知外相は、韓国の外務部長官と米軍の兵力削減に関する臨時の会談の場をもち、両者の共同声明は、それまでの慣例とは異なり、「米軍の極東におけるプレゼンスが、この地域の安定の大きな支柱である」と明言していた。さらに、愛知外相は会談後の記者会見で、米軍撤退に関して韓国に同情を示し、それを将来の米国との交渉に反映させると約束したのである。

 日本が抱いたこれらの懸念は、最終的には日本の安全保障政策に目立ちはしないが大きな変化(少なくとも言葉の上で)をもたらした。防衛庁が1970年10月に初めて発行した『防衛白書』(『日本の防衛』)では、日本は日米安全保障条約を日本の防衛力に「代替」するものではなく「補完」するものととらえるべきと主張されていた。これに沿って、1970年の大蔵省提出予算は自主防衛力強化を焦点とし、防衛費では戦後最大の上げ幅となる17.7%の増額を計上したのである。

 また、日本政府は、日本国内には「見捨てられ」の懸念をあえて表明すべきではない多くの政治的な要因があったにもかかわらず、これを公式の場で表明していた。例えば、米軍の削減によって生じる安全保障の空白をどう埋めるべきかについて不安を表明すると、国民はそれを沖縄返還後の将来沖縄に米国の核兵器を再び持ち込むことに同意し、それを正当化する思惑があるのではないかという疑念を抱いた。また、佐藤は、目前に迫っていた1970年の日米安全保障条約延長をめぐる論争を避けようと考えていた。日本が「ニクソン・ドクトリン」について強い懸念を表明すれば、国民と政治家の関心がこの懸念に対処する手段として防衛力強化に向けられ、それに反対する勢力を駆り立てると共に、中立主義政策の主張を世論が支持するなど、円滑な条約延長を阻む事態を招く可能性もあった。このため、佐藤は、米国からの「見捨てられ」に関する発言を誇張するのではなく、控え目にした。
 つまり、佐藤が米国の決定への懸念を控え目に表現せざるえなかったのは、懸念解消に必要な「治療薬」を投与する上で大きな政治責任がともなったためであった。というのは、政府がこのような懸念をいったん表明してしまえば、懸念を解消する何らかの方策を示さなければならなくなるからである。しかし、それは防衛力増強や核武装という政治的な機微に触れる問題を浮上させてしまう可能性もあった。米国の政策に対して穏当な表現で懸念を表明することは、このような困難な問題を回避するのには最適の方法であった。したがって、国内に課題を抱えているにも関わらず、佐藤政権が取った行動や発した声明は、米国の決定への強い懸念をよく示していた。

 (5)協力の萌芽

 米国の兵力削減への懸念は、沖縄返還、「韓国条項」、軍事問題に関する両国政府の相互作用の増加という三つの側面において、両国の関係を強固にする作用を及ぼした。

 沖縄返還に際しては、米国は、他のアジア地域の防衛、特に韓国防衛のために返還後の米軍基地を使用する権利を日本が認めるかどうかを懸念していた。また、韓国は、交渉の経緯の韓国への周知し、日本が返還後事前協議の権利を放棄することを求めた。佐藤政権は韓国のこのような要請に理解を示した。これに対して、韓国は日本の前向きな姿勢と受け止め、それまでよく見られた脅しや瀬戸際政策で日本に圧力をかけるのを控えることになった。韓国の報道機関も、会談は両国の協調を新たなレベルに引き上げたと広く報じていた。

 沖縄返還に関する合意を示した佐藤=ニクソン共同声明に「総理大臣と大統領は、特に、朝鮮半島に依然として緊張状態が存在することに注目した。総理大臣は、朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要であると述べた。」(「韓国条項」)といった文言や、沖縄の返還は「日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではない」といった文言が盛り込まれた。これらの文言は日韓間の協調関係に分水嶺ともいえる転機をもたらした。第1に、「韓国条項」は両国の安全保障が直結していることを初めて公式に宣言するものであった。第2に専門研究者の小此木政夫が言うように、この二つは、米国=日本=韓国の安全保障三角形の底辺を強化することを意図していた。日米首脳会談の翌日、崔圭夏外務部長官は共同声明に満足の意を表明し、韓国の報道も、いっせいにこれを賞賛した。第3に、日本は韓国防衛のために(沖縄と本土の基地から)支援を行う旨の「白紙委任状」を米国に与えることになり、事実上、日米安全保障条約第5条を修正するに等しかった。また、この条項の中では「朝鮮半島」ではなく「韓国」という表現が用いられれており、日本が南北朝鮮の均衡を維持することによってではなく、韓国を防衛することでその安全を確保しようとしていたことを示していた。

 また、1969-1971年時期に日韓間で初めて、数次に及ぶ軍事面での接触が始まった。例えば、EC-121 型機撃墜事件の際、北朝鮮が攻撃したとき、米軍機が公海上空を航行中であったことを確認する上で、日本の海上自衛隊のレーダー監視は大きな役割を果たした。さらに、日本は第71機動部隊が展開する際に、事前協議を行わずに日本の港湾を利用することを許可した。また「プエブロ号事件」の際には、北朝鮮のさらなる挑発を抑止するために、日本の港湾、とりわけ佐世保港を経て、米航空母艦が北朝鮮沖まで配備された。

 朴正熙は1971年の年頭記者会見で、日本をこの地域への脅威ともみなしていないし、日本が防衛力を強化することにあえて反対する理由はないと述べた。また、1970年には韓国の政府機関各所から、日本との安全保障関係の強化を促す提言がなされた。例をあげると、1970年2月の国防報告と、1970年6月の国会国防委員会報告は、米軍の撤退に伴う安全保障の空白を埋めるために、日本と軍事訓練、情報週活動、その他の形態の防衛協力を行うように求めていた。

 防衛分野での協力は最終的に、防衛当局者間の直接交流という形で明確に表れた。このような2国間の交流は(内政的理由により)ほとんど公にされることはなかったが、比較的地位の高い国防官僚が、日韓双方の国防関係者、政府首脳を訪問した。このような交流は概して儀礼的なものであったが、自衛隊と韓国軍の間の透明性を高め、安全保障問題に関する非公式会談のチャンネルを確保するという意図を持っていた。

 (6)軋轢の回避

 また、これらの協調関係とは別に、日韓両政府は、紛糾の可能性のある事件が軋轢に発展するのを避けるため努力を続けた。第1に、1969年6月、北朝鮮が韓国の海岸線へ潜入する際に用いていた高速艇が日本から購入したものであったことが韓国で明らかになったこと。韓国民は日本がボートを売却していたことが判明すると激怒し、日本人は信用ならない「エコノミック・アニマル」であるという認識を強めていった。第2に、1970年12月、日本の法務省が日本を経由して北朝鮮に亡命しようとした韓国軍将校の身柄を拘束し、10日後、決定を覆し、人道的見地から将校を北朝鮮に亡命させてしまったことである。以上の点を考慮すると、日本のとった行動が韓国で厳しい対応を引き起こし、両国関係を混乱させたと誰もが予想するだろう。しかし、韓国政府がとった対応は驚くほど抑制されており、不満の意を表明し、日本大使館に短い抗議文を提出するにとどまった。さらに、1970年4月の「よど号」ハイジャック事件において航空機が日本当局による陽動戦術で韓国の金浦空港に着陸した際も、韓国は異例ともいえるほど日本からの要求に便宜を図った。にもかかわらず、日本側当局はハイジャック犯との最終合意について韓国政府には事後報告として通告し、それが明らかになると韓国人は激怒したが、それにも関わらず、外交問題に発展するのを避けるため、韓国は公の場では沈黙を頑なに守ったのである。

※コラム著者:その他、政治、経済分野でおきた協力関係は、主に安全保障分野に主眼を置いた関係で割愛する。

3.デタントと危機の高潮(1972−1974年、第四章)

 (1)デタント期の日韓関係の概要

 1960年代末、日韓間に新たに出現した協力関係は、その出現と同じくらい急速に消滅していった。皮肉なことに、この時期に軋轢が増大した主たる要因は、冷戦期の緊張が緩和したことにあった。疑似同盟モデルに即していえば、地域的あるいは超大国間のデタントが、多国間関係と2国間関係の双方に「見捨てられ」/「巻き込まれ」の懸念の構造に変化をもたらしたのである。
 日韓それぞれと米国の関係をみると、日本が米国から「見捨てられ」る懸念は、やや小さくなったのに対し、韓国は以前と同様「見捨てられ」る懸念を抱いていた。さらに、韓国が日本の共産主義の隣国との交流に対して、「見捨てられ」の懸念を募らせていたにもかかわらず、超大国間の対立はデタントによって本質的に緩和したと受け取った日本は、北朝鮮や中国との新たな関係構築という課題に取り組むことで「巻き込まれ」を回避しようと政策を転換し、南北朝鮮と等距離を保とうとする政策をとった。かくして、両国間に軋轢が生まれ、数々の論争とあいまって、歴史感情による緊張が再燃し、日韓関係は不安定になっていった。

 (2)デタントの増殖

 1972年ニクソンは、毛沢東首席、周恩来総理との歴史的会談を行った。両首脳は会談後に発表した「上海コミュニケ」で、アジアで平和共存と覇権主義反対の原則を守ることを確認した。米中接近は米ソ関係にも波及した。ニクソンは1972年ブレジネフと首脳会談を行い、和解に向けた対話を始めた。この動きは朝鮮半島にも波及した。例えば、韓国の李厚洛KCIA部長と北朝鮮の朴成哲副首相が、極秘裏に南北間の緊張緩和の方策について話し合い、1972年7月4日の南北共同声明の発表という驚くべき成果をあげ、南北間でデタントを進めるための処置いくつか発表された。

 (3)デタント期における日本の安全保障認識

 超大国米国という庇護国に先導されていた日本では、共産主義諸国と新たな関係を築く機会が各段に広がったと考えられていた。デタントの増殖は、日本の脅威認識や1969−71年時期に見られた米国の安全保障上のコミットメントについての懸念を低めるという、それまでにない効果を及ぼした。

 これを示す事例は、第一に、米中接近を賞賛する日本側の発言があげられる。例えば、田中政権の木村俊夫外相は、日本は東アジアにおける米国の勢力均衡努力を支えてきたが、ニクソンの対中接近によるデタントの増殖によって、すべての地域国家に善意があり、平和維持の可能性があることが明らかになったと簡潔に述べていたのである。第二に、日本人の抱く脅威認識が緩和したのは、この地域との敵対数カ国との関係、とりわけ中国との関係を改善したことによるところが大きかった。第三に、日本は外交チャンネルを広げ、両共産主義国に新たな経済的可能性について打診する一方、特に中国が日米安全保障条約に公然と反対しないとの立場をとってからは、日本は米国の安全保障条約の下に守られているという状況を引き続き享受することとした。

 (4)韓国のデタントへの対応

 日本とはまったく対照的に、韓国はアジアでデタントが増殖することについて動揺していた。韓国の立場からすれば、冷戦期の緊張が雪解けしたという名目で発表されたさまざまな声明や宣言は、政治芝居じみたものでしかなかった。朴正熙は、「直接体験してきたわれわれ韓国人だけが、アジアの共産主義者の脅威がいかにおそろしいかを語ることができる」と述べ、ニクソンに「正しい方向感覚」を維持するように迫り、デタントを称賛したものを「幻想理想主義者」と非難した。また、このような中、南北共同声明に代表される南北朝鮮両政府の接触は中断するに至る。

 韓国が脅威を募らせた原因は、1972-74年時期に見られた北朝鮮の数々の敵対行為であった。例えば、1974年8月には、在日韓国人の活動家が朴正熙大統領暗殺を企て、同年11月には、国連軍司令部がDMZでトンネル一本を発見し、それは後に北朝鮮から侵入するための数本のうちの一本であることが判明した。このような事実の数々は、デタントによって北朝鮮が行動を自制するという希望がほとんど持てないことを示していた。

 また、韓国は、超大国間のデタントが米国の戦略ドクトリンを根底から変えてしまったと考えていた。米ソ間の平和共存によって、それ以降米国の対外政策を規定するのはもはや周辺部における抑止力の維持ではなく、国際秩序(すなわち、超大国間の関係)の中心部での安定維持であるということが暗に示唆されていた。つまり、韓国から見れば、米中接近は米国がこの地域への影響力を失い、中国の影響力がますことを米国が暗黙裏に認めたことを意味していたのである。さらに朴正熙はデタントは韓国よりも北朝鮮を戦略的かつ外交的に優位にさせるものと考え、やがて朝鮮半島に引き続き米軍が駐留することへの国際社会の支援を失うことにつながると考えていた。米国における政策論議も戦争抑止から撤退と経費削減へとその基調を変えていた。これらの結果、朴正熙の側近によると、米国の行動の背後にある意図は極めて明白であった。「それは北朝鮮が再び攻めてきてもわれわれは助けに行かないという韓国民へのメッセージ」であったという。

<後半が続きます。>