太田述正コラム#2470-1(2008.4.6)
<スコットランドと近代民主主義の起源(その1)>(2008.10.17公開)

1 始めに

 これまでスコットランドはしばしばとりあげてきています(注1)が、スコットランドが近代民主主義を生み出した話を少し掘り下げて論じたいと思います。

 (注1)コラム#181、183、1522、1524、及び2279、2281(このシリーズが未完なのは、私が近代スコットランド哲学をまだうまく総括できていないため)。このほか、米国におけるスコット系の人々の貢献について記述したコラム#624がある。

2 スコットランド独立宣言

 スコットランド出身の映画俳優ショーン・コネリー(Sir Sean Connery)が米国のタータン記念日(Tartan Day)・・1998年に米上院が設定したスコットランド独立宣言記念日・・である4月6日付でロサンゼルスタイムスにコラム(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-connery5apr05,0,7865820,print.story
。4月6日アクセス(以下同じ))を寄せ、その中でスコットランド独立を、と叫んでいます。
 スコットランド独立宣言とは、1320年にスコットランドの数十人の貴族達が時の法王宛に発出したアーブロース(Arbroath)宣言のことです。
 このラテン語で書かれた宣言のさわりの部分は次の通りです。

 ・・われわれは<スコットランドにやってきて(注2)からというもの、>あらゆる束縛から自由であり続けた。われわれの王国はわれわれの高貴な血筋・・その中には外国人の血は一滴たりとも交じっていない・・の113人の歴代国王によって統治されてきた。・・<中略>・・仮に国王が、自ら始めたことをあきらめ、われわれの王国をイギリス国王またはイギリスに臣従せしめることに同意するようなことがあれば、われわれは彼を、彼自身とわれわれの権利の敵かつ転覆者としてただちに放逐し、われわれを守ることができる他の男を国王にすべく取り計らうであろう。たとえわれわれが100人しか生き残っていない状況になろうとも、われわれはいかなる条件の下であれイギリスの支配に服するつもりはない。われわれが戦っているのは栄光のためでも、富のためでも、名誉のためでもなく、ただただ自由のためなのだ。そしてこのためには、およそ誠実なスコットランド人であれば、命がかかっていたとしても決してあきらめることはないのだ。・・
 (以上、
http://www.constitution.org/scot/arbroath.htm
による。)

 (注2)この宣言の前の方で、スコットランド人が、東方から地中海経由でイベリア半島にやってきてそこに長期間滞在してから、スコットランドの地に渡り、(ケルト人である)ブリトン人を放逐し、(同じくケルト人である)ピクト人を粉砕し、ノルウェー人、デンマーク人、そしてイギリス人の侵攻を受けつつもスコットランドの地を守り抜いてきた、という趣旨のくだりが出てくる。最新の学説では、イギリス人も、アイルランド人も、そしてスコットランド人もすべて、イベリア半島からやってきたバスク人であって、後にケルト人が少数、そして更にゲルマン人(ベルガエ人、アングロサクソン人、バイキング(ノルウェー人・デンマーク人・ノルマン人))が少数、イギリス、アイルランド、スコットランドに渡来して混血したということになっている(コラム#1687、2271)。現時点で振り返って見ると、1320年の時点でのスコットランドでの伝承は、結構史実に沿っていたことになる。

 この独立宣言が発せられた背景は次のとおりです。
 1296年に当時のスコットランド国王ジョン・バリオル(John Balliol)がイギリス国王エドワード1世に対する臣従を撤回したことを受け、エドワードはスコットランドに侵攻し占領します。
 しかし、スコットランドの貴族達が叛乱を起こし、ここにスコットランド独立戦争(後に第一次独立戦争と呼ばれることになる)が始まります。
 ウォレス(William Wallace)(コラム#624)らの英雄的な抵抗、活躍を経て、ロバート・ブルース(Robert Bruce)が1314年のバノックバーン(Bannockburn)の戦いでイギリス軍に大勝利を収め、スコットランドは事実上独立を回復し、彼が1316年にロバート1世としてスコットランド王に就任するのですが、イギリスとの戦争は1328年に平和条約(Treaty of Edinburgh-Northampton)が結ばれるまで続くのです。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/First_War_of_Scottish_Independence
による。)

 では、どうして1320年の時点でこの宣言が発せられたのでしょうか。
 それは、キリスト教国の貴族達がこぞって十字軍に参加すべき時であるにもかかわらず、どうしてイギリスとの戦争を続けているのか、しかも、どうして法王ヨハネ14世(John14)がスコットランドが独立国家であることを認めていないにもかかわらず、よりにもよって(王位を争っていたコミン(John Comyn)を1306年に教会内で殺害したため)同法王が破門していたロバート・ブルースを「国王」にしてイギリスとの戦争を続けているのか、そして更に激高した同法王がイギリス国王に臣従しなければスコットランド国民全員を破門すると言い出していたにもかかわらず、どうして戦争を続けているのかを、スコットランドの貴族達が申し開きをするためです。
 この宣言は功を奏し、同法王はイギリス国王を法王庁に召喚しますが、国王がこれに応じなかったこともあり、法王が介入し、1328年に、イギリス国王にスコットランドへの権利をすべて放棄させる形の平和条約が結ばれるに至るのです。

(続く)